貝原益軒を書こう 六十八 中村克博
久兵衛は下宿屋を出て四条の橋を渡っていた。下宿屋の娘が一緒だった。朝の日差しに鴨川のせせらぎが光って、岸辺に白い鳥が長い首をおり曲げてまどろんでいた。風がひんやりすがすがしい。
娘が下駄の音をはずませ欄干に手をかけた。
「あら、今年は納涼床が多くなりましたね」と言った。
「そうですか、夜はにぎわうのでしょうね」
二人は八坂神社を通って知恩院の境内を歩いていた。
久兵衛が本堂を見上げて、
「寛永十年でしたか、知恩院は本堂をはじめ多くの建物が全焼したが、家光公のさしずで再建が進められ、八年ほどかかって完成していますね」
「ほんとに徳川様は京を大切にされ、ありがたいですね」
「徳川家は浄土宗で知恩院は浄土宗の本山です。代々の門主は皇族の皇子が任命され、その方は徳川将軍家の猶子となる決まりです」
「へぇー、徳川様のつながりがふかいのですね」
知恩院から青蓮院を通りぬけ、ゆるい坂道を歩いて金地院に着いた。久兵衛は額の汗を手拭で拭いた。門の詰所でしばらく待たされて取次の若い僧侶が小走りでやってきた。本堂に通されて尺五からの紹介状をわたして履物を脱いだ。広い庭に面した広縁に案内された。
縁に座って庭を眺めていた。菅の円座が用意してあった。お茶が運ばれてきた。
娘が茶碗を手に蓋をとって、かるく頭を下げた。
「金地院崇伝さま、黒衣の宰相さんとよばれて・・・ こわそうですね」
久兵衛が茶をゆっくり、味わうように、
「そうでしょうね。字は以心、法名が崇伝。俗称は一色氏、足利氏の一門です」
「・・・、えらいお方は、いろいろお名前がおおくて、たいへんですね」
久兵衛は茶を飲み干して、はは、と笑って、
「名前はまだありますよ。後水尾天皇の近くにお仕えして本光国師の称を授けられます」
娘は飲み終えた二つの茶碗をそろえながら、
「天皇さんや徳川さまにおつかえして、とうとい人ですね」
久兵衛は座を立ちながら、
「家康公の側近として寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に、スペインやポルトガルとの外交にも深く関わっておられ、徳川治世の礎を作った人です」
案内の僧侶の姿が見えた。
いくつかの部屋をとおるたびに襖絵の説明があった。
水面に映る月を取ろうとする猿が描かれている襖絵の前に来た。
娘が立ち止まって、
「随分手の長いサルですね」と不思議そうに言った。
案内の僧が、
「長谷川等伯の作で枯木猿猴図です。摩訶僧祇律の故事によります」
「まかそうぎりつ・・・ なにか、意味があるのでしょうか」
僧が笑いながら案内の足をすすめて、
「猿が枯れ木につかまって池の月に手をのばしておる。どうするのでしょうね」
娘は歩きながら、少し考えているふうだったが、
「手がとどいたら月は、きえてしまいます・・・」
久兵衛が思いついたように、
「そうか、猿がぶら下がっているのは細い枯れ枝、折れるのですね・・・」
方丈の出入りの小さな玄関が見えてきた。
框のそばに看却下の札がたててあった。
案内の僧が娘の方を見て、
「看却下、禅宗の寺の玄関でよく目にしますが、どう読みますか」
「はい、履物をそろえなさい。人様のものも、そっと気づかれないように、なおしなさいと、おばあさまから昔おそわりました」
久兵衛がふたたび思いついたように、
「道元禅師の言葉に、仏道は人々の脚跟下にあり、というものがあります」
娘が驚いたように、
「えっ、仏さまの教えが足の下にあるのですか」
案内の僧がにこやかに娘を見た。
「いいですねぇ、おばあさまの教え、履き物をそっと揃える。そのような仕草が、生き方を美しいものにしますね」
久兵衛がうなづくように、
「そうか、このような、しぐさの伝承も世の中に和をひろげるのですね」
久兵衛が話をつづけた。
「元和四年には将軍秀忠公より江戸城北の丸に約二千坪の屋敷を拝領し金地院を建立した。翌年には僧録となり国中の僧侶の人事を統括する。京都南禅寺塔頭の金地院と江戸城内の金地院を往還しながら政務を執った。三代将軍、徳川家光の諱の選定、元服の日取りも崇伝禅師により決められた」
案内の僧が話し終わった久兵衛を見て、
「将軍になられて家光公が上洛します。そのため崇伝様は張り切って金地院の大改築をされました。ところが、家光公は金地院にはいらっしゃらなんだ。その後も、一度もです。なんだか、なあ・・・ なぜでしょうなぁ・・・」
令和五年六月十五日