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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 六四 

        貝原益軒を書こう 六四                 中村克博 

 久兵衛は午前中の勉学を終え、持参した弁当を同僚の受講生たちと一緒にいただいたあと一人で講習堂の裏山に行った。裏山の竹林では年老いた下人が頬被りをして孟宗竹の間伐をしていた。切り倒した孟宗竹の枝を打ち、集めて焚火の中にくべていた。枝を取り払った長い竹を三尺ほどに短くしてそれも火の中に入れていた。空は雲が薄く広がっていたがまだ雨が降りそうな気配はなかった。日差しはない風がそよふいて肌寒い。

 久兵衛は近ごろ竹林での作業を手伝っている。勉学の合間に適度な運動をするのが体にいいと自覚できていた。竹切を始めてから朝の目覚めがさわやかだ。飯がうまい。

 

竹の根元は大きいのは七寸ほど、小ぶりな茶釜の直径ほどもあった。そこに鋸を入れて思った方向に倒すのがおもしろい。時にあらぬ方向へ倒れて近くの竹に引っかかり面倒になることもあった。大きな長い竹を短く切って火に入れると滑って転がる。丸い竹は火の中で思うようには組めない。工夫がいる。

竹の節と節の間に鋸か鉈で切れ目を入れる。それが不十分だと火の中で爆発する。危険ではないが何しろ音がとてつもなく大きい。びっくりする。燃えさしが飛び散る。それを見て年老いた下人が笑っている。

 

 久兵衛は無心に竹の枝を鉈で打っていた。枝の先が顔に当たる。目をかばいながら二股になった枝の根元を左手で束ね一寸ほど残して下から打つ、 いつしか頭の中では午前中の勉学のようすが浮かんでいた。

 

家康公は元和元年に後陽成天皇から征夷大将軍を拝命した。二条城に派遣された勅使から宣旨が下され武家の棟梁としての倫理が確立した。

大坂城が燃え落ち豊臣家が消滅すると、家康公は一国一城令を発布して大名の支城をすべて破壊させた。そのあとで南禅寺塔頭金地院の以心崇伝禅師が起草した武家諸法度を三代将軍家光の命で公布させた。

さらに寛永十二年に家光公は林羅山に起草させた大名の参勤交代を制度化して大名の正妻を江戸に住まわせ子供の養育を江戸の藩邸でおこなうようにしたが、これによって日本国内にどのようなことが起こったのか、幕府はどのようなことを意図していたのか・・・

さらに、さらに全国の諸大名に天下普請を命じて大掛かりな城郭普請、道路整備や河川工事などの土木工事を立て続けにおこなった。これは全国の産業基盤を拡充した。経済活動が活発になり人々の暮らしが豊かになった。

五百石積み以上の大船を禁じた。キリスト教国との交易を長崎の出島でオランダに限って徳川家が独占した。全国のおもだった銀山や金山、銅山を天領として採掘を推し進めた。

全国の通貨を統合して通貨の発行を徳川家に一元化した。各藩の特産物の生産を奨励して流通を幕府の直轄する大坂に集中させた。

久兵衛はふと我にかえると、枝打ちの手を休めて切り落とした竹の枝を集めて燃えさかる炎の上にかぶせた。モクモク立ちあがった白い煙がすぐ赤い炎に変わってバチバチと音をたてた。久兵衛はすこし不安そうに炎の先を見上げた。だいじょうぶなようだ。斜面をのぼって竹の枝を集める作業をもくもくと続けた。

 

そのうち、また頭の中が勝手に動き出して先ほどの続きを思い描いていた。

これらの全国に広がるさまざまな政策は、林羅山様が起草して老中が実行していったことになっているのだが・・・ どうも一連の政策実動には、おそらく藤堂高虎公の尽力が隠されているような気がする。

 その理由として久兵衛は受講中の資料の中に高虎公の祐筆を務めていた西嶋八兵衛が書き残している記録の写しを見たときの驚きを思いうかべていた。

 

秀忠公との夜話会で高虎公は、家臣の器量を見抜き適材適所につけたら、あとは人を疑わないことと語った。家康公はのちにこの話を聞いて大いに感動した。

家康公は他界する十日前に高虎公を枕元によんだ。

「世話になったが来世ではそなたと会えぬのがつらい」といった。

その家康公の言葉に高虎公は

「来世でも大御所様に仕えるつもりです。私は日蓮宗ですが、大御所様の宗旨である天台宗に改宗しますので、来世でもお仕えすることができます」と答えたらしい。

秀忠公の五女・和子様が後水尾天皇の皇后として入内の際には露払いを務め、宮中の入内反対派の公家に「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と凄んで反対派の策動をとめた。

 

久兵衛はそのような藤堂高虎という人物に興味がでてきていた。

年老いた下人が頬被りを取って久兵衛に声をかけている。一休みするように薬缶を手に持ってかかげている。久兵衛は斜面を下りて行った。

「白湯がほどよく冷めて飲みごろです」

「やあ、それはありがたいです」

 年老いた下人は竹を輪切りにした器に白湯をそそいでくれた。銅製の薬缶はあちこちひしゃげて煤で真っ黒になっていた。白湯は湯気が立っていたが熱くはなかった。口に含むと竹の香りがした。

「なんとも、うまい白湯ですね」

「そうですか、昨日もそういって飲んでいらしたな」

「切ったばかりの竹の湯呑があじわい深いのですかね」

「そうですか・・・」

「そう言えば、わたしは竹の蓋置が作りたいのですが、適当な竹がありません」

「お茶室でお使いになるお道具ですな。それはこの山では種類がちがいます。こんどご案内します。ほんの近くですよって」

「それは、ありがたい。おねがいします」

令和五年二月十七日