ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 六十七

 

 

貝原益軒を書こう 六十七                中村克博

 

 根岸と佳代は厦門にいた。鄭成功厦門を支配すると明の再興を願う意を込めて、この地を思明州と改称していた。根岸は朝の食事のあと、思明城の中にある宿舎を出て町の通りを散策するのが日課のようになっている。

台湾のゼーランジャ城から柳生の松下と一緒に厦門に来てひと月近くなる。来てすぐに鄭成功に謁見した。大広間で大勢の陪臣が同席していた。根岸とは同年輩だがおだやかで思慮深さを感じた。日本のようすを聞くと嬉しそうで、いろいろ質問していた。柳生の松下は長崎や江戸の話をしていた。佳代は堺や大坂、京のようすを話した。根岸は大坂から厦門に運ぶ途中の浪人の多くをオランダに奪われた失態を詫びたが、鄭成功はそれよりも根岸たちの苦労をねぎらってくれた。

柳生の松下は数日前からマカオに出かけている。現地のいろんな情勢を見聞する役目のためだった。十年前にマラッカをポルトガルから奪ったオランダが数十隻の軍船と千人からの軍勢でここ数年、マカオを何度も攻めている。

鄭成功の貿易船は長崎、琉球、スペイン領のフィリピン、ポルトガル領のマカオやインドのゴアまで航海している。オランダ領のジャワのバタビアも、重要な交易拠点だった。鄭成功はそうした交易で巨額の戦費をまかなっていた。

厦門の街の散策には鄭成功の兵士が武装して後ろから付き添っている。護衛というより案内と通訳をかねている。通りは人や荷車が行き交い、話し声があちこちから聞こえて、住民の表情は明るかった。いろんな売店がある。日用雑貨、薬屋、野菜や果物、魚屋の客を呼び込む声が大きい。肉屋では豚の頭や太腿がぶら下がっていた。豚の蹄が付いた足首が山型にこんもり積まれていた。その横に鶏の黄色い足先だけが同じようにうず高く盛られていた。初めて見たときには佳代も根岸も驚いた。このとき松下は二人を見て笑っていた。琉球や朝鮮に出向いたおりに何度も見ているそうだった。

根岸と佳代は行きつけの茶屋に入った。この茶屋では発酵した茶を飲ませる。発酵した茶葉は黑くなって捻じれていた。二人の兵士は務めだからといつも店の外で待っていた。

茶屋には四人掛けの机と椅子が十組ほどあった。二組の先客がいた。長身の娘が注文をとりに来た。しばらくして髪の毛が白く太った老女がお茶を運んできた。お盆から湯呑と急須を机の上に置いて行った。すぐに、皿を右手で持って左手をぶらぶら振って戻ってきた。皿を机の真ん中に置いた。皿には月餅が四つ入っていた。何やら説明をはじめたが言葉が通じない。

根岸が老女と佳代の顔を交互に見て、

「何を言っているのだろう・・・」と言った。

佳代は老女を見上げて、

「月餅の説明ではなさそうですね。月餅は堺の町でいただいたことがあります」

「なにやらサイコロを振る仕草をしておるようだが・・・」

 老女が通じない月餅の話を断念して、急須の茶を湯呑より大きな器に注ぐと独特の芳香を発しはじめた。

「この黒い茶葉は何とも言えない、いい香りだな~」と根岸が目を細めた。

「ほんとに、この武夷岩茶の香りは、前もって準備する手順があるようですよ」

「ほう、茶を淹れる前に何をするのかな」

「湯呑や急須を熱湯で温め、茶葉も熱湯に通します」

老女は急須から茶湯を大きな器に移すと、それを佳代と根岸の湯呑に注ぎわけた。

根岸はそれを見ながら、

「なぜ面倒なことをするのかな、二つの湯呑に少しずつ何度かに分けて注げば均一な濃さに分けられるだろうに・・・」

「さあ~、どうなのでしょうね。それがこちらの流儀では・・・」と佳代が言った。

「流儀か・・・作法・・・ 」

「きっと、なにか意味があるのでしょうね。しきたり、ならわし」

「そうだろうな・・・」

 佳代が一口飲んで、

「中国の茶はポルトガルが初めて西洋に運んだそうです。暑い熱帯を通過して四ヶ月以上もかかる船旅では緑茶が劣化します。ところが、偶然にほどよく発酵したお茶が何ともいい香りがして、それをきっかけに発酵茶が大量に生産されるようになったと言われているそうですよ」

「そうかな~、わしはそう思わんよ。唐の昔から茶は飲まれていた。緑茶も抹茶も

団茶もあった。偶然にほどよく腐って発酵したのもかも知れんよ」

「発酵した茶葉が烏のように黑く、捻じれ曲がる形を竜にたとえるようですよ」

「それで、この黒い茶を烏龍茶というのかな」

 佳代が香りのお茶を飲み干した。

「この黒い香りのいいお茶を日本に持っていけばきっと人気になります」

「ほう、そうだろうな」

「大坂で店を開いて、厦門と交易して・・・ 根岸さまと一緒に・・・」

「そんなこと、わしは武士だぞ。お役目もある」

「徳川の世、戦はもうありませんよ。それに今は鉄砲や大砲の時代ですよ」

 根岸にもそれはわかっていた。自分には剣の技しかない。それに黒田家の剣術師範だった父は行方が知れず。庶子の我が身はまだ家督も継いでいない。

 襟元にしまっている棒手裏剣を恥ずかしく、むなしく思えた。

「柳生の松下殿はマカオにいるが、いちど厦門にもどって、ジャワのバタビアからマラッカ、インドのゴアまで調査に出かけるそうだ」 

 佳代は驚いたように、

「まさか、根岸さま、松下さまに着いて行こうなどとは言わないでくださいましね」

「いや、できれば、それもおもしろそうだと思っているが・・・」

「ならば、私もお供致します」

「それは、こまる。数日中には長崎に行く明の船が出航する。それに乗る手筈ができておる。それに乗らねば、いつ帰れるかわからない」

「ならば、それに乗って帰りましょう。京のご家老様にこたびの復命をして、久兵衛さまも心配して待っておられますよ」

令和五年六月一日

貝原益軒を書こう 六十六

貝原益軒を書こう 六十六                中村克博

 

 尺五は話をつづけた。

「根岸殿は佳代さんといっしょのようです。二人は大坂からオランダが領有する台湾のゼーランジャ城に着いたことはご存知ですね」

 久兵衛は自分の席にもどって尺五の話を聞いていた。

「はい、そのようすは先日お聞きしています」

 久兵衛はそわそわした気分で尺五の話の先を待った。

 尺五は返された茶碗に水を差し、茶筅を通して建水にこぼした。

「藤堂家からの知らせによると、根岸殿はいま鄭成功のいる厦門にいるようです」

 久兵衛は手に持った茶碗にいまだ口も着けずに聞いていた。

「当初の予定では大坂から鬼界ヶ島を経由して厦門に直行するはずで、それで役目が終わるはずだったのが・・・ 厦門には江戸の柳生からの密命を受けている武士が同行しています。佳代さんも一緒のようですね」

 佐那が落ちついた口調で、

「皆さんご無事のようで、安堵いたします。それにしても、たいへんなお勤めのようで、それも思いがけない急なお達しだったようですね」

 尺五は自服の茶を点てながら、

「詳しい報告は密書で届いております。後ほど目を通されるとよろしい」

 久兵衛が茶を飲みほし、膝前の茶碗に頭を下げて、

「私は、黒田家、京屋敷へ報告はいかがしますか・・・」

「黒田家にはすでに知らせはとどいておりましょう。おそらく京都所司代からでしょう。江戸の柳生よりは速いはずです」

「先ほど、尺五先生のもとには藤堂家からと言われましたが・・・」

「さようです。私の所には徳川家からの繋がりはありませんよ。伊賀からです。諜報はさまざまな経路がありますね。佐那さまはどこからですか」

 佐那がほほえんで、

「私がお聞きしたのは鴨神社です。しかし尺五先生より遅れています」

 久兵衛は驚いたようすで頭をあげて、

「私は講習堂に朱子学の研鑽のために参っております。徳川家の御政道が、世間をまとめるための倫理を見極める役目を授かっておりますが、それとは別に諜報がいかに大切か、ありがたいことです」

 尺五はうなずきながら、干菓子の盆に手をのばした。

「そうですね。学問はその目的が役立たねばなりませんからね」

 久兵衛は思い出したように気がかりだったことをたずねた。

「佐那様ともうされますか、鴨川での舟遊びで賊に襲われ行方知れずと聞いていりましたが、まさかここでお会いできる

とは・・・」

 佐那が久兵衛の方に膝を向きなおって、

「あのとき、私は鴨川を佳代さまと下っておりました。根岸さまが警護をなさって・・・ そこを鴨神社からの手練れの荒者たちが待ち伏せ、根岸さまに投網をかぶせ反撃できなくして、私を奪い去ったのです。長いあいだ鴨神社の奥まったところでかくまわれておりました」

久兵衛は体をのりだすようにして、

「そうでしたか、あれいらい今日まで、私は名前もお聞きしないまま佐那さまのことが気にかかっておりました。こうしてお会いすると昨日のことのように思えて不思議です」

「わたしも、そうです。ときのながれは短くなって消えてしまうこともあるのですね」

 佐那は膝の上に重ねた手を見つめて、

「それに・・・ 大徳寺を出てのできごとは悪い夢だったらいいのにと思います。あの夜の惨い斬殺を目の前でいくつも見て、今も信じられない光景が目の裏に焼き付いています。思い出すと血の気がひきます。」

「私も、武士ですが初めての体験でした。辛くて苦しいときは長く感じても、それが過ぎさると、こんどは思い出そうとしても、それはもう消えています。つらくて苦しかった時期が空白になって思い出せない」

佐那はこたえるように、

「あれから長い月日が過ぎているのに、まこと先ほどのようです」

 尺五は二人のやりとりを聞きながら茶を飲みほして、

「ほんとに、そうですね。人が感じるときの長さは漏刻が計る水の流れとは別のものなのですね」 

 久兵衛が尺五に向きなおって、

「して、佐那さまはどうしてここにおいでなのですか」

 尺五は茶碗に湯をそそぎながらほほえんで、

「佐那殿は久兵衛殿と同じ理由で講習堂にきておられます。武断の時世から文治へと、まずは徳川家が定める朱子学の倫理を知ろうとしておられます」

「では、そのために鴨神社から使わされたのですか」

 尺五が少しためらうように、

「うㇺ・・・ そうですが、もっと奥のやんごとなきところに繋がるのでしょうね」

 佐那が陽気にうきうきした口調で、

「そのように言われては大仰に聞こえます。私は外に出られてただうれしいのです」

「はは、そうですね。ここには各地の大名家から遣わされた若者が多い。ちかごろは商家の子弟も多くなって・・・ ああ、そうだ、久兵衛殿と佐那殿には講習堂から尺五堂の方に受講場所を変えてもらわねばと思っております」

「尺五堂にですか」と久兵衛と佐那が同時に聞きなおした。

「そうです。尺五堂の方です。山崎闇斎殿や伊藤仁斎殿との居宅に近く、ご両人の出入りもあります。御所の南通りにそっています」

令和五年四月二十日

シャクナゲが咲いている。

シャクナゲが咲きはじめている。

敷地のまわりの杉の木を千本ほど伐採して日当たりがよくなっている。

日の光をたくさん受けるようになって葉っぱが黄色くなっているのがある。

大きな樹木の近くにあるシャクナ元気がいい。この花は日影が必要なのだろう。

久しぶりにブログを書いている。

数年ぶりだろう… 携帯電話でなく一眼レフで写真を撮った。

写真の掲載方法を忘れて戸惑っている。

思うまいとも思わない・・・               中村克博

 

 

黒田家傳の柳生新影流兵法柳心会に入門して十二年ほどになる。初めのうちはいかに速く刀を抜くか、そして技をできるだけ多く身につけることに興味があった。ところが、それが根本、考え違いだと最近になって思うようになった。二年ほど前、習得したはずの基本形の間違いに気がついた。一度身についた技の動きは修正するのがむつかしい。体が覚えたことを変えようと思っても、おいそれとは変わらない。初歩的な基本刀法の修正に一年以上かかった。

やっと修正できた動きに満足していた。悦に入って道場や自宅で稽古していると、数年して、あれっ!! と、別の間違い箇所に気づいて、がっかりする。これまでが無駄なようでがっかりする。それで師範に教えてもらいにいく。宗家に見てもらう。それから、また修正のための反省稽古を始めるのだが・・・ ひょっとしたら、この繰り返しが僕の居合の稽古なのだろうとかと思ってしまう。

そのころになって、「考えない」という教えに気づいた。理屈なしに、ただひたすら稽古をする。これは、只管打座、身心脱落・・・ 隠居老人の趣味の居合なのに少々大げさだが、道元の禅に通じるのかもしれない。道場での稽古は、わずか一時間半ほど、幾つかの型を続けて行う稽古は数分か十分二十分のことだが、稽古をしていると、ときたま、そのような何も見えない、考えない、頭が空っぽになっているときがある。心とか魂に、感情に稽古がとけこむような気がするときがある。ほんの一瞬だが・・・ もし、それが長くなれば剣禅一致の境地なのかも知れないが、僕の稽古では望んでもできそうにない。それでも、それをめざして稽古しようと思う。 ・・・あ、いや、何かを求めてはいけないのだった、それでは只管打坐とは矛盾するではないか、すでに「考えている」ではないか、思うまいとも思わない、でなければ・・・  

去年の後半から、私は道場での稽古は「組太刀」が多くなった。「組太刀」は木刀を持って二人が立ち会って稽古する。一人が「使太刀」、もう一人の相手が「打太刀」をつとめる。「仕太刀」は技を仕掛ける役目「打太刀」はそれを受ける役目になる。組太刀をしていて判ったのだが、私が体でおぼえた型の振り下ろした剣先は相手の居ない所を斬っている。これでは「居合」でなく、「居ない」だ。笑えない。晩年の貴重な月日に稽古の時間を惜しまねば(授かった身体髪膚に)申し訳ない。居合の稽古は基本、一人でおこなう。長年僕はそうしてきた。想念で相手を見さだめ、その動きに応じて間合いをとり目付をして、先の先、後の先と技をくり出すが、いろんな動作には序破急のめりはりが大切になる。が・・・ そうやって長年稽古しても斬った剣の下に、突いた剣の先に敵がいないのでは、どうする。やはり、組太刀をやらねばと気づいた。それと、技の動きはいたずらに速いのではだめ、緩急が大切。技は多ければいいのではなく宗家が承継する技を正確に師範から教わったように身につけるのが大切。剣さばきは「心をとめず、先をみる」と、宗家がいつも言われている。沢庵禅師の不動智神妙録にある「心をば放さんことを要せよ」これが居合の稽古がめざすとこなんだろう。

令和五年四月七日

貝原益軒を書こう 六十五

貝原益軒を書こう 六十五                中村克博

 

 

 母屋で朝餉をいただいて離れの自室に戻って講習堂に出かける準備をしていた。

 下宿の娘がお盆に湯呑を乗せてやってきた。

 縁側に膝をついてお盆のまま畳に置いた。

「ご飯を食べて、お茶も飲まずに・・・ 今日はお急ぎですか」

 久兵衛は置かれた盆の前に座って、

「これは、どうも、ありがとうございます。

受講の前に尺五先生の部屋に顔を出すように言われておりましたので」

「そうですか、では、これを飲んで、おでかけください」

久兵衛は湯のみのお茶を一口飲んで、

「庭の梅が満開ですね。メジロが来ていますね」

 娘は梅のメジロをちらりと見て、

「もうすぐ東寺で弘法さんの御影供があります。境内にはたくさん出店や屋台がならんでにぎわいます。たのしいですよ。一緒に行きましょう」

「それはたのしみだ。いつですか」

「今月の二十一日です。お昼は屋台で、蕎麦でも団子でも、京だし巻き玉子も」

「それは、いいですね。出店も見てみたいですね」

 娘はニコニコはしゃぐように、

「いろんなお店がありますよ。しば漬け、すぐき漬け、千枚漬け、漬物もいろいろです。お野菜も、みずな、九条ネギ、伏見トウガラシ、加茂ナス、酸茎菜(すぐき)など・・・」

 

 講習堂に着くと、そのまま尺五のいる離れの茶室にむかった。縁側から庭下駄に履き代え路地の飛び石を歩いて躙り口の引き戸に手をかけた。目の前に先客がいた。女人だった。久兵衛へ左肩こしに顔を向け浅く両手をついてお辞儀をした。口元がほほえんでいるように感じた。以前どこかで会ったような気がした。

尺五は点前畳に座っていた。久兵衛を見てかるくお辞儀をして替茶碗を取って茶筅通しをした。女人を見て、久兵衛は咄嗟のことで作法をどうしていいかわからず戸惑った。扇子を前ににじりはいって左手に少し向きなおって尺五に挨拶した。右に向きなおって先客に何と言っていいかわからず、お辞儀をした。床の花入れに菜の花がいけてあった。

花の上に短冊がかけてあった。

両手をついたままながめていた久兵衛に尺五が声をかけた。

「私の父が書いた俳句ですが今の季節にあいそうで、いかがですか」

 久兵衛は声をだして詠んだ。

「つまんとや人くる人くるうぐいす菜・・・」

 そう言って、手をついたままで、

「はい、床にある花、油菜も、小松菜も蕪や白菜、大根も似たような花が咲きます」

 女の横顔がほほえんで、くっすと笑ったような気がした。

 久兵衛が床の花入れを見ながら、

「花入れは伊賀のようですが、黄色い花によくにあう」

「はい、これも父からものです」

「丸く膨らんだ柑子口、耳つき。荒々しいようで深みがあり、そんざいなようで繊細を感じます。まさしく伊賀の国、藤堂家の初代高虎公のようです」

 尺五はうんうんとうなずいて、

「佐那殿は短冊をどのように」と、女の方を見た。

女人の名はサナというようだ。

「この句は古今集の 梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくといとひしもをる を踏まえているようにうかがいました。 鶯が梅の花を見に来たら、人が来るので、ひとく、ひとくと鳴いていやがっている、とい意味かと・・・」

 尺五は笑顔で佐那を見て、茶筅をふり終えて茶碗を久兵衛の前に出した。

「貝原殿はちかごろ裏山で竹を切って燃やしておいでですが、そこで働いておる下人は伊賀者です。伊賀の藤堂家からまいっております」

「そうでしたか、そんな気配はまったくうかがえませんでした」

「そうですね。何日か一緒に竹切をしていて伊賀者と見透かされるようでは・・・」

「やさしい、人のいいおじいさんですが、伊賀の忍び、ですか」

「その、人のいい下人を通じて・・・ 貝原殿に早くお知らせしたい根岸殿にかかわる話が藤堂家から届いておるのです」

 茶碗を取りに膝をすすめていた久兵衛は話を聞いて動きが止まった。

 尺五は話をつづけた。

「藤堂家は伊予、今治にも飛び地の所領を持ち、伊賀、伊勢の津も所領があり三十万石をこえる大身です」

 久兵衛が口をはさんだ。

「存じております。 家康公は晩年「もしも天下を揺るがすような兵乱が起きた場合には、先ず藤堂を、次に井伊を以て将軍家の先陣とするべし」と遺言されたといいます」

「伊予の今治や伊勢の津を領して海賊衆を配下に、内外の諜報の質もずば抜けて」

「はあ、高虎公の徳川家からの信頼は武勇だけでないのですね」

 佐那が飲み干した茶碗を尺五の前に返して、

「それで、根岸さまは今、どこでどうしておいでですか、佳代さまもご一緒だと・・・」

 久兵衛はその言葉を聞いて、はたと、思い出したように佐那の顔を見た。

「あ、あなたは、大徳寺での・・・ あの公家のお姫様、鴨川下りで根岸殿と佳代さんと一緒だった。舟が襲われて連れ去られたと、 なんと、あのときの、佐那さまといわれるのですか、それが、どうして、ここに・・・」

 尺五が申し訳なさそうに笑いながら、

「私にも急なことで、とりあえず、知り得たことをお話ししようと思いましてな」

                              令和五年三月二日