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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書こう 七十一 

貝原益軒を書こう 七十一               中村克博

 

 すっかり日が落ちていた。涼しい風がふいて茶室から母屋に移った久兵衛と佐那は二人で夕餉を頂いたあとだった。部屋は燭台の光で明るかったが庭に面した障子の外が白くなったので月が出たのが分かる。

 佐那が障子を少し開けて夜空をのぞいた。

「雲のあいだに居待月、それに虫の声・・・ 秋ですね」といった。

 久兵衛が席を立って障子から顔を外に出した。

「少し欠けた月はいいですね。雲がうっすらとかかって・・・」

 佐那が席にもどりながら、

「尺五先生はこの月を見てどのように詠まれるでしょうね」

 久兵衛が、

「古今伝授は三条西実枝様より細川幽斎公が伝授され、それを八条宮智仁親王様に伝授され、さらに親王様から後水尾上皇様に伝授されて御所伝授が成立しました。尺五先生のお父上、松永貞徳様には地下伝授として細川幽斎公が伝授しておられますね」

佐那は、

「・・・ そうですか・・・」と言った。期待していた言柄ではなかった。

 

 廊下に人の気配がして、上使いの下女が障子を半分ほど開けて両手をついていた。お風呂の用意ができていると知らせた。男女それぞれのしつらえがあるようだ。

 数日前にも烏丸の御池通りで辻斬りがあったそうで、今夜は夜道をさけて泊っていくようにと松永尺五が配慮してくれていた。

 二人を風呂に案内する下女に久兵衛が声をかけた。

「最近は京も、えらく物騒ですね。あちこちで辻斬りが出るようですね」

 下女は手燭をもって先に歩きながら、

「はい・・・」と小さくうなずいた。

 久兵衛はうしろの佐那の足元の暗さに気づかいながら、さらに下女にたずねて、

「辻斬りは物取りですか、試し斬りですかね」

 下女は那佐の足元に明りが届くようにして、

「さあ、私にはわかりません」と頭を下げながら小さく言った。

 

 風呂から上がった久兵衛と佐那は用意されたとなりどうしの部屋に落ち着いた。置き行灯に火が入って部屋は明るかった。隣の部屋とは障子で仕切られ鴨居と天井の間には欄間はなかった。天井に佐那の影が映って動いている。庭に面した障子が月の光で明るかった。雨戸は閉めてなかった。庭番の伊賀者が昼も夜も警固している。

 久兵衛脇差を刀掛けに置いた。大刀はすでに枕元の刀掛けの上の段に置かれていた。いまだに何でこんな重たい刀を腰につけているのかと思った。風呂を使う前に着ていた羽織袴が刀掛けの横にきちんと畳まれていた。部屋が明るい。行燈の火を調節しようと火皿の大きい芯を消したとき、うっかり小さい芯まで消えてしまった。それでも月明りで部屋は暗闇ではなかった。寝床に横になったが目が冴えて眠れそうにない。

 となりの部屋はまだ先ほどのままに明るかった。何をしているのだろうと思った。声をかけてみたいが・・・ ためらっていた。掛布団をかぶっで「おやすみなさい」と小さく言った。言ったあと自分の女々しさに恥じて気持がむずむずした。

すると、となりの部屋から、

「おやすみなさいませ」と声がした。

 久兵衛はびっくりした。あわてて、

「おやすみなさい」と夜具から顔を出してこたえた。

 いよいよ眠れなくなった。

 

 久兵衛は目をつむって息を大きく吸った。そして息を止め、ゆっくり吐いた。ゆっくり息を吸い、さらにゆっくり吐いた。力を抜く、力を抜く、全身の力を抜く。両手を体側に置いて、手のひらを上にして背中の肩甲骨を左右引き寄せた。両方の手首を外にねじってさらに手のひらを上に向けた。その状態でしばらく呼吸をゆっくり続けた。そのあと両脇の手をへその下丹田にこんどは手のひらを下にして置いた。吐く息に意識を集中した。細い息をできるだけ長くはいた。自然に、意識して自然に無理をせずに吐く息をできるだけ長く細くはいた。気がおさまってくるのがわかった。ゆっくりした血のめぐりが意識に伝わって、下腹の奥の方が温かくなってきた。

厦門にいる根岸と佳代のことが思いに浮かんできた。長らく消息を知る手掛かりがない。どうしているだろうかと思った。

耳鳴りがする。かすかに低く単調で唸るような音だ。気にするとよけいにはっきり聞こえる。いや、虫の声のようでもある。久兵衛は両耳に人差し指を突っ込んでみた。音はやんだ。指を離してみた。先ほどの音がまた聞こえてきた。いくつかの虫の声が混ざり合って一つの音のように耳鳴りのように聞こえているのが分かった。すると、また、となりの部屋に寝ている佐那の顔がうかんだ。夜具の中の佐那のようすを想像した。虫の声がする。うつらうつら、意識が遠のいていった。

 

久兵衛は襖を静かにひらいた。月明かりで障子が明るく佐那の目を閉じた顔がはっきり見える。那佐は声を立てなかった。いやむしろ久兵衛を受け入れるようであった。これが現実か夢なのか、数日前か今なのか、一瞬かゆっくりなのか、夢のうつろうまま、ときもないようにあらぬ情景がすすんでいった。久兵衛は佐那に顔をうずめた。佐那はなされるままにしていた。そして、こたえてくれた。久兵衛は今おきているのが夢なのか、いや夢ならさめないでほしいと思った。  

 

 久兵衛の寝息がとなりの部屋から聞こえてきた。佐那は書きものをやめて、行燈の灯りを小さくした。虫の声がしていた。  

                               令和五年九月十三日

五島から博多まで

五島から博多まで                 中村克博

 

 

 九州商船のフェリーは長崎港を朝八時すぎに出て五島の福江港に三時間ほどで着いた。フェリーを下りると車で福江港近くの石田城の跡に出かけた。五島氏一万二千石の本丸跡地は五島高校になっていた。海風が強い石段を女生徒が数人おりてきた。風が吹き上げて彼女たちはいっせいにスカートをおさえた。歴史資料館に行った。天気だったのににわか雨が激しく降った。笑顔のいい女性職員が傘を貸し出してくれた。

五島うどんを食べようと思ったら二時すぎていてどこも店が閉まっていた。五島うどんは特産の椿油を塗って伸ばした乾麺で博多のうどんの三分の二くらいに細い。鍋で茹であげ水洗いせず熱々のままアゴだしのつゆで食べるそうだ。

 

福江の港に面したホテルにチェックインした。昼抜きで夕食が待ち遠しい。地元に人気の食事どころをフロントで尋ねると居酒屋石松がイチ押しだった。歩いてすぐだった。個室も広間も賑やかで、カウンター席に案内された。目の前で忙しく包丁を使っている初老のおじさんはズングリムックリ、日焼けしたタコ坊主頭に指の太さのねじり鉢巻きで愛嬌がいい。なじみ客の話に笑顔でこたえている。ワサビのきいた刺身の盛り合わせ、きびなごのてんぷら、げそのてんぷら、量が多くて腹いっぱいになった。ビールがうまかった。

 

夜明けのずっと前、船のエンジンの音がして目がさめた。暗い窓のカーテンを開くと次々と小型の漁船が出て行く風景が月の明かりで見えた。右舷の緑のランプが右に移動して船が動き出したのが分かる。先に走る船の船尾燈と両舷の赤と緑の光が遠くなっていくのをしばらく見ていた。船が出て行って静かになったのでベットに横になって眠った。

部屋が明るくなっていた。青く光る水平線が輝いて朝日が昇ってくるのが窓越しに見えた。青かった空はオレンジ色にそまって鳥がたくさん飛んできた。カモメと思ったらカラスだった。

 

博多行きの野母汽船のフェリー太古は福江港を十時十分に出航する。ホテルをチェックアウトして、時間があるので鬼岳の展望台に行った。晴れた空を見上げると広大な山の斜面に草刈り作業をする人たちが見える。遠くの水平線は湾曲して、黑く光る海や幾つもの島影が見えた。

福江港に到着してフェリーの車寄せに行くと乗用車は見あたらない。大型トラックの間に混じって埋もれるように並んだ。博多港には午後五時四十五分ごろに到着する予定だ。営業距離は約二二六キロメートルになる。

フェリーボート太古は大正五年就業で野母商船の歴代に継がれてきた連絡船の船名だ。大正五年は西暦一九一六年、第一次世界大戦の最中でヨーロッパは大混乱の時代だ。福岡市にアメリカの南部パブテスト派の宣教師ドージャーが西南学院を創設した年でもある。

太古は福江を出て幾つもの島をぬうように北上した。天気がいい、デッキの風が気持ちよかった。部屋は左舷側と正面が大きな窓で、広くて設備がいい。机でノートパソコンを開くと妻がコーヒーを淹れてくれた。青方から小値賀と島のターミナルに接岸しながら太古は走った。複雑に入り組んだリアス式海岸の断崖や小さな無人島が次々といれかわりたちかわりすぎていった。疲れたので部屋のベットで横になっていたら次の停泊地の宇久は眠っていた。

 

むかし、博多から宇久までヨットで何度か来たことがある。もうあれから二十年ほどになる。小戸のハーバーから宇久の港までの航海距離は約一三〇キロメートル、ヨットの帆走平均速度を五ノットとして最短距離で二六時間だが風は変わるので実際の航海距離はもっと長くなる。風がよければ早くなるし、向かい風ならジグザグに走るので距離は倍ほどのびる。凪が続けばいつ着くかわからない。レースでなければ機帆走で走るので七ノットくらいで直進する。予定がたてやすい十八時間あまりで着く。

狭いヨットのコックピットでは日がな一日、見えるのは海と空だけ聞こえるのは波風の音だけ、クルーがいても長い付き合いで会話はない。数日つづく航海なら船内で料理をするが、一昼夜ならコンビニ弁当かオニギリだ。まぁ、それでも、うまいが・・・ トイレはあるが使わないでデッキから用をたすし、手は洗わない。雨風が出て時化て来たら宿帆したり、ストームジブに替えるたりするが、波をかぶって濡れて斜めになったデッキの上での作業は危険で考える暇などない、雨風の夜だと手元は見えない。落水防止のハーネスを付けているので動きは限られる。暗闇で勝手に手足が動かなければ大変なことになる。

 

平戸島生月島にかかる橋の下をフェリー太古は通った。波戸岬が見えてきた。呼子町加部島加唐島の間を通る。ヨットでは何度も通った景色なのに太古の三階デッキの高さからは違う風景に見える。唐津湾に浮かぶ姫島、志摩芥屋の西の端、西浦の岬、いよいよ玄界島が見えてきた。ヨットならこれから二時間ほどで帰港するが太古は二十分ほどだろう。

令和五年九月一日

貝原益軒を書こう 七十  

貝原益軒を書こう 七十                   中村克博

 

 

 先日、南禅寺の金地院をたずねてからひと月ほどたっていた。お盆もすぎて、いくつもの夏の行事も終わって、セミの声がすずしくかんじるようになっていた。

 久兵衛は松永尺五と久しぶりに対面していた。受講場所が二条城の近くの講習堂から御所の南下の尺五堂にうつっていた。尺五堂の茶室は母屋を離れ、ひなびた感じの茶庭をとおって藁ぶきの草庵がしつらえてあった。佐那が同席していた。

佐那は飲み干した茶碗を尺五に返して、

「お茶の味わいは、いただく場所でもかわるものですね」

 尺五は受けた茶碗の底を見ながら、

「そうですか、茶の味わいはいろいろあるようですね」

 部屋を夕方の風がとおりぬけていた。蚊やりの煙の匂いが漂っている。

 久兵衛は金寺院で見学してきた小堀遠州の八窓席の茶室について、どのような感想を報告すべきかの論考はできていたが切り出せないでいた。

 久兵衛は床の花をみたり、天井をながめ、窓の外をみたりしていた。

「この茶室は金寺院の八窓席とは求める趣きが逆のようにおもいます」

 尺五はうなづきながら、久兵衛をみて、

「そうですね。どのように違うとお考えですか」

 久兵衛はかるく頭を下げてつつしんだ姿勢になって、

「はい、こちらの造りは数寄屋で柱は面皮付、天井も飾り床も利休様が望まれた冷凍寂枯、侘びとか寂びの領域かと思います」

「なるほど、それでは金寺院の八窓席はどのような成り行きで造られますか」

 口頭試問にこたえる学生のように、

小堀遠州公は新奇の茶風をおこされたのは古田織部公のようでもありますが、直弟子でも流儀はちがいます。綺麗寂びなどともいわれますが、それは表層のこと、実情に即して世情を先取りするか世上を誘導する独自の趣旨があるようです」

 尺五は満足そうな顔をして、さらに質問した。

古田織部公は大坂の陣のあと切腹をさせられますが、遠州公は茶の師匠をなぜ事前に助言できなかったのでしょうね」

 久兵衛は待っていたように

徳川秀忠公の茶頭であり、古田織部公ほどの大名が世の動きに疎いはずはありません。先の先まで読んで東軍に属したのだと思います」

「そうですか、ならば、なぜに豊臣家に内通するなどの嫌疑を受けたのでしょうな」

 久兵衛はしばらく考えていたが、

織部様は利休七哲のひとりで交易や商いを重視する考えです。内々の儀は宗易(利休)に公儀のことは宰相(秀長)が存じ候と言われたほど、利休様も豊臣秀長公も太閤殿下が信頼していた商業を重要する側近です」

 尺五は久兵衛のそのあとの説明をしばらくまっていた。

久兵衛は姿勢をただすように背を伸ばしたが沈黙がつづいた。

そのとき、佐那がおそるおそる口をひらいた。

「大納言秀長様がお亡くなりになったあと、郡山のお城には金蔵いっぱいの金銀があったそうですね。秀頼さまの大坂城にはその何百倍もの金銀や財宝があって、それが天下騒乱のよりどころとなっていたと聞いております」

 その話のあとをつなぐように久兵衛が話しはじめた。

「徳川家は戦乱のない天下泰平の世を治める手立てを次々に講じますが、戦さをしない武士の人倫として朱子学をひろめます」

 佐那が不思議そうに、

「武士の生きかたは庶民の見本になり、道徳の根底に朱子学があれば商いを卑しい行為だと世間は思うようになりはしませんか」

 尺五はなるほどと、

朱子学南宋期にでた儒教の一派ですが、孔子はもともと商業を否定してはいません。それに徳川家は交易や商いを重要だと思っています。これは織田信長公から太閤殿下から続く国家支配の基本です。物流の支配を第一に、そのもとになる資本、つまり金が何よりも大切なことは身をもってわかっています」

 佐那はなおも理解できそうになく、

朱子学はむつかしい学問で、範囲がひろくて・・・ そのなかで、父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。それに仁・義・礼・智・信などがおもいだされ、家族とか国家を秩序づける狙いですが、それが、なぜ商いが卑しいと独り歩きしておるのですか」

 尺五は嬉しそうに聞いていたが、

「貝原殿、いまの佐那殿の意見についてどのように考えますか」と言った。

 久兵衛は、はっ、とかしこまって、

「ほんとに、朱子学は難解で朱子学者の林羅山先生は家康公から家綱公の四代の将軍家に侍講としてお仕えしておられます。国家の経営は戦時も平時も理財の確保と使い方が根本で、幕府がその主導を持ちます。参勤交代は全国で二百以上の大名家が正妻と世継ぎを江戸に住まわせ、大名家の故郷はみな同じです。その江戸住みの家臣団は五十万から百万人ほどになります。それに盆暮れに限らず大名家どうしの高価な贈答品が行き交います。国元の特産品の発展にもなりますが、江戸は巨大な資金が集まる物流と消費の場所になります」

 久兵衛は話を中断してひと息いれた。それを佐那が話をせかすように、

「徳川さまは各地の神社仏閣の修理や街道の整備などを大名に負担させ、それにオランダとの貿易を長崎の出島で独り占めされます。いけずですね」

 尺五が笑いながら、

「徳川家は日本中の金山や銀山を天領として、貨幣の鋳造と発行を独占しますね」

 佐那は久兵衛を見て、

「利休様の数寄屋の草庵は清貧と献身、自由と平等、救いと愛を秘めています。古代に西域から伝わったイエスさまの教えとおなじです」

 久兵衛は困った顔をして尺五を見て、

小堀遠州公は利休様がもとめた侘び寂びの茶室を書院風な時代にもどしました。瀟洒、洗練、新鮮を感じますが、貴賤の分、自然の道理、変則と当意即妙を表明しておると・・・」

 尺五は黙って聞いていた。待ちきれないように佐那が口をひらいた。

「利休さまと遠州公は根本がことなっておるのですか、もとめるものが反対なのですね」

 尺五は黙って聞いていた。日が落ちてすずしい風がふいていた。

                                 令和五年八月十七日

金地院の八窓席、袖壁の下地窓・・・

貝原益軒を書こう 六十九                 中村克博

 南禅寺の金地院には拝観する建物はいくつもあるが本堂だけを見学して外に出た。石畳のゆるやかな坂道を下りていった。人の通りが多くなっていた。木立の葉陰をとおして日差しがまぶしかった。旅籠や湯豆腐を食べさせる店や茶店が並んでいる。

 久兵衛のすぐ後ろを歩く下宿屋の娘が、

久兵衛さま、湯豆腐を食べてまいりましょう」と声をかけた。

 久兵衛はふりかえって、

「そうですね。少し疲れたし、腹も減った。のども乾きました」

「気楽なお寺さん参りかと思っていましたら、そうではなかったのですね」

 久兵衛は額の汗をふきながら、

「お付き合いいただいて、申しわけありません」

「いえ、いえ、いいのですよ。ふだん誰でも入れない金寺院さまですし」

「尺五先生のお勧めで、前々から手筈を取っていただいたのです」

「そうなのですか、それで、どんなことを感じられたのですか」

 久兵衛は小さな湯豆腐屋の店の前で足をとめていた。紺地に湯豆腐と白く染めぬいた暖簾をくぐって二人は中に入った。風がとおって涼しかった。

 店の入り口は小さかったが中に入ると奥が深くて手入れのいい庭が広がっていた。衝立で仕切られた座卓がいくつも並んだ長い座敷に通された。二人は向かい合って座った。

 久兵衛は出された茶をごくりと飲んで、

「金寺院では書院の奥につながっていた茶室の八窓席を見てくるのが目的でした」

「へぇ、あのお茶室ですか」

「はい、金寺院崇伝様の依頼で小堀遠州公が差配して作った三畳台目の遠州好みだそうです」

 娘は小首をかしげて、

「ふつうのお茶室とどのようにちがうのですか」

「私も茶室のことは知識が不十分ですが、世の中の規律を変えようとしておった金地院様の意をくんでの遠州公の作事でしょうから・・・」

「松永尺五先生からの言付でおいでになったのですね。どんな意味があるのでしょうね」

小堀遠州公が手掛けられた茶室は大徳寺にある黒田家の塔頭龍光院にもあります」

「へぇ、そうどすか、龍光院さまにも遠州さまのお茶室があるのですか」

「そうです。蜜庵席といいますが、いぜん私も訪れたことがあります」 

 娘は少し考えていたが、

「私はお茶のお稽古をまだ初めていませんけど、座敷の隅に風炉先屏風を立てたり、数寄屋の四畳半などを見たことはあっても、八窓席のお茶室は・・・」

 その先を久兵衛が言葉をつないだ。

「あんな、せまい部屋に床柱の脇にもうひとつ柱を立て、そのあいだの上半分が塗り壁で、そこに小舞の竹組が見える下地窓が付けてある」

 湯豆腐の料理が運ばれてきた。娘は箸をとる前に手を合わせて頭を下げた。久兵衛は箸をとる前に田楽豆腐の串をつまんで口に入れた。

 娘は久兵衛を笑いながら、

「まぁ、こんなにたくさん。どれもおいしそう」といった。

 久兵衛は豆乳の器をとって一口飲んだ。

「おう、これは冷えて、おいしいもんですね」

 娘は湯豆腐をすくって、久兵衛のだし汁の器に入れた。

「先ほどのお茶室、お点前の座と正客さまの間に土壁があって、そこに竹格子の窓が開いていましたね」

「そういえば、主人と客は、じかには向き合わず下地窓をとおして座りますね」

「なにか意味があるのでしょうか」

 久兵衛は箸をとって湯豆腐をつかもうとしていたが動きをとめた。

「なんと、それは、あたかもキリシタンの」と言って言葉を飲み込んだ。

「えっ、なんですか、キリシタンの・・・」

「いや、何でもありません。いや、思い過ごしです」

「えっ、金地院崇伝さまはキリシタンをご法度とされたのでしょう」

「そ、そうです。金地院様は伴天連追放令を秀忠公の名で出されました」

 娘は納得いかない顔を久兵衛に向けて、

久兵衛さま、言いかけたキリシタンが、どうしたのですか、私はまえまえから不思議だったのですが、お濃茶の回し飲み、一つのお茶碗で次々と口をつける・・・」

 久兵衛が娘の話の後をつづけた。

キリシタンの洗礼では葡萄酒を信者が回し飲みする。似ていますね。しかし日本では昔から酒杯のやり取りや回し飲みはやっていますよ」

「でも、織部灯篭はキリシタンの十字架をかたどっているとかいいますよ」

「はは、そんな話に根拠はありませんよ。古田織部公が大坂の陣で豊臣方に通じていて切腹させられた。そのことがこの風聞がおきた理由かもしれません」

「でも、利休さまのお弟子にはキリシタンの大名が多いのでしょう」

 久兵衛はやれやれと言った顔を隠さず。

黒田如水公もそうですが、利休様から茶の湯を伝授された中に多くのキリシタンの大名がいます。かと言って茶の湯キリシタンは全く別の分野ですよ。それは影響もあったでしょうが、風評は真実とは限らずおもしろければ広がります」

娘は素直にうなづいて、

「そうですね。気を付けねば・・・ はしたないことです」

 久兵衛は湯豆腐を食べた。娘がだし汁の器につぎ足した。

「先ほどの三畳台目の茶室で下地窓をとおして主客と主人が相対する場面ですが・・・」

 娘は話の転回におどろいた。久兵衛は慎重に話しはじめた。

「ふと頭をよぎったのは、以前キリシタンの教会で見た告解の部屋です」

「こっかい、それは、どのようなことですか」

「信者が自らの罪をバテレンに告白して神様のゆるしを得ることです」

 娘は神妙な顔をして聞いている。久兵衛はつづけた。

「告解部屋は司祭と信者の間が壁で仕切られ、そこには格子が付いた小さな窓があります」

「先ほどのお茶室のようすと、なんだかよくにていますね」

 久兵衛はゆばに大根おろしと生姜をたっぷり乗せて食べた。

「利休様は侘び寂を求められたようですが、数寄屋の小間は要人が腹を割って打ち解け、あるいは密談や謀議の場所だったと言われます」

 娘はみつだん、とくちずさんだ。九兵衛はつづけた。

「しかし、金寺院の八窓席はそれとは違うようで、はっきり別の意図があるようです」

令和五年七月二十日

貝原益軒を書こう 六十八

貝原益軒を書こう 六十八                中村克博

 久兵衛は下宿屋を出て四条の橋を渡っていた。下宿屋の娘が一緒だった。朝の日差しに鴨川のせせらぎが光って、岸辺に白い鳥が長い首をおり曲げてまどろんでいた。風がひんやりすがすがしい。

 娘が下駄の音をはずませ欄干に手をかけた。

「あら、今年は納涼床が多くなりましたね」と言った。

「そうですか、夜はにぎわうのでしょうね」

 

 二人は八坂神社を通って知恩院の境内を歩いていた。

 久兵衛が本堂を見上げて、

寛永十年でしたか、知恩院は本堂をはじめ多くの建物が全焼したが、家光公のさしずで再建が進められ、八年ほどかかって完成していますね」

「ほんとに徳川様は京を大切にされ、ありがたいですね」

「徳川家は浄土宗で知恩院は浄土宗の本山です。代々の門主は皇族の皇子が任命され、その方は徳川将軍家の猶子となる決まりです」

「へぇー、徳川様のつながりがふかいのですね」

 

 知恩院から青蓮院を通りぬけ、ゆるい坂道を歩いて金地院に着いた。久兵衛は額の汗を手拭で拭いた。門の詰所でしばらく待たされて取次の若い僧侶が小走りでやってきた。本堂に通されて尺五からの紹介状をわたして履物を脱いだ。広い庭に面した広縁に案内された。

 

 縁に座って庭を眺めていた。菅の円座が用意してあった。お茶が運ばれてきた。

 娘が茶碗を手に蓋をとって、かるく頭を下げた。

「金地院崇伝さま、黒衣の宰相さんとよばれて・・・ こわそうですね」

 久兵衛が茶をゆっくり、味わうように、

「そうでしょうね。字は以心、法名が崇伝。俗称は一色氏、足利氏の一門です」

「・・・、えらいお方は、いろいろお名前がおおくて、たいへんですね」

久兵衛は茶を飲み干して、はは、と笑って、

「名前はまだありますよ。後水尾天皇の近くにお仕えして本光国師の称を授けられます」

 娘は飲み終えた二つの茶碗をそろえながら、

天皇さんや徳川さまにおつかえして、とうとい人ですね」

 久兵衛は座を立ちながら、

「家康公の側近として寺院諸法度武家諸法度禁中並公家諸法度の制定に、スペインやポルトガルとの外交にも深く関わっておられ、徳川治世の礎を作った人です」

 案内の僧侶の姿が見えた。

 

 いくつかの部屋をとおるたびに襖絵の説明があった。

 水面に映る月を取ろうとする猿が描かれている襖絵の前に来た。

 娘が立ち止まって、

「随分手の長いサルですね」と不思議そうに言った。

 案内の僧が、

長谷川等伯の作で枯木猿猴図です。摩訶僧祇律の故事によります」

「まかそうぎりつ・・・ なにか、意味があるのでしょうか」

 僧が笑いながら案内の足をすすめて、

「猿が枯れ木につかまって池の月に手をのばしておる。どうするのでしょうね」

 娘は歩きながら、少し考えているふうだったが、

「手がとどいたら月は、きえてしまいます・・・」

 久兵衛が思いついたように、

「そうか、猿がぶら下がっているのは細い枯れ枝、折れるのですね・・・」

 

 方丈の出入りの小さな玄関が見えてきた。

框のそばに看却下の札がたててあった。

 案内の僧が娘の方を見て、

「看却下、禅宗の寺の玄関でよく目にしますが、どう読みますか」

「はい、履物をそろえなさい。人様のものも、そっと気づかれないように、なおしなさいと、おばあさまから昔おそわりました」

 久兵衛がふたたび思いついたように、

道元禅師の言葉に、仏道は人々の脚跟下にあり、というものがあります」

 娘が驚いたように、

「えっ、仏さまの教えが足の下にあるのですか」

 案内の僧がにこやかに娘を見た。

「いいですねぇ、おばあさまの教え、履き物をそっと揃える。そのような仕草が、生き方を美しいものにしますね」

 久兵衛がうなづくように、

「そうか、このような、しぐさの伝承も世の中に和をひろげるのですね」

 久兵衛が話をつづけた。

「元和四年には将軍秀忠公より江戸城北の丸に約二千坪の屋敷を拝領し金地院を建立した。翌年には僧録となり国中の僧侶の人事を統括する。京都南禅寺塔頭の金地院と江戸城内の金地院を往還しながら政務を執った。三代将軍、徳川家光の諱の選定、元服の日取りも崇伝禅師により決められた」

 案内の僧が話し終わった久兵衛を見て、

「将軍になられて家光公が上洛します。そのため崇伝様は張り切って金地院の大改築をされました。ところが、家光公は金地院にはいらっしゃらなんだ。その後も、一度もです。なんだか、なあ・・・ なぜでしょうなぁ・・・」

                              令和五年六月十五日

貝原益軒を書こう 六十七

 

 

貝原益軒を書こう 六十七                中村克博

 

 根岸と佳代は厦門にいた。鄭成功厦門を支配すると明の再興を願う意を込めて、この地を思明州と改称していた。根岸は朝の食事のあと、思明城の中にある宿舎を出て町の通りを散策するのが日課のようになっている。

台湾のゼーランジャ城から柳生の松下と一緒に厦門に来てひと月近くなる。来てすぐに鄭成功に謁見した。大広間で大勢の陪臣が同席していた。根岸とは同年輩だがおだやかで思慮深さを感じた。日本のようすを聞くと嬉しそうで、いろいろ質問していた。柳生の松下は長崎や江戸の話をしていた。佳代は堺や大坂、京のようすを話した。根岸は大坂から厦門に運ぶ途中の浪人の多くをオランダに奪われた失態を詫びたが、鄭成功はそれよりも根岸たちの苦労をねぎらってくれた。

柳生の松下は数日前からマカオに出かけている。現地のいろんな情勢を見聞する役目のためだった。十年前にマラッカをポルトガルから奪ったオランダが数十隻の軍船と千人からの軍勢でここ数年、マカオを何度も攻めている。

鄭成功の貿易船は長崎、琉球、スペイン領のフィリピン、ポルトガル領のマカオやインドのゴアまで航海している。オランダ領のジャワのバタビアも、重要な交易拠点だった。鄭成功はそうした交易で巨額の戦費をまかなっていた。

厦門の街の散策には鄭成功の兵士が武装して後ろから付き添っている。護衛というより案内と通訳をかねている。通りは人や荷車が行き交い、話し声があちこちから聞こえて、住民の表情は明るかった。いろんな売店がある。日用雑貨、薬屋、野菜や果物、魚屋の客を呼び込む声が大きい。肉屋では豚の頭や太腿がぶら下がっていた。豚の蹄が付いた足首が山型にこんもり積まれていた。その横に鶏の黄色い足先だけが同じようにうず高く盛られていた。初めて見たときには佳代も根岸も驚いた。このとき松下は二人を見て笑っていた。琉球や朝鮮に出向いたおりに何度も見ているそうだった。

根岸と佳代は行きつけの茶屋に入った。この茶屋では発酵した茶を飲ませる。発酵した茶葉は黑くなって捻じれていた。二人の兵士は務めだからといつも店の外で待っていた。

茶屋には四人掛けの机と椅子が十組ほどあった。二組の先客がいた。長身の娘が注文をとりに来た。しばらくして髪の毛が白く太った老女がお茶を運んできた。お盆から湯呑と急須を机の上に置いて行った。すぐに、皿を右手で持って左手をぶらぶら振って戻ってきた。皿を机の真ん中に置いた。皿には月餅が四つ入っていた。何やら説明をはじめたが言葉が通じない。

根岸が老女と佳代の顔を交互に見て、

「何を言っているのだろう・・・」と言った。

佳代は老女を見上げて、

「月餅の説明ではなさそうですね。月餅は堺の町でいただいたことがあります」

「なにやらサイコロを振る仕草をしておるようだが・・・」

 老女が通じない月餅の話を断念して、急須の茶を湯呑より大きな器に注ぐと独特の芳香を発しはじめた。

「この黒い茶葉は何とも言えない、いい香りだな~」と根岸が目を細めた。

「ほんとに、この武夷岩茶の香りは、前もって準備する手順があるようですよ」

「ほう、茶を淹れる前に何をするのかな」

「湯呑や急須を熱湯で温め、茶葉も熱湯に通します」

老女は急須から茶湯を大きな器に移すと、それを佳代と根岸の湯呑に注ぎわけた。

根岸はそれを見ながら、

「なぜ面倒なことをするのかな、二つの湯呑に少しずつ何度かに分けて注げば均一な濃さに分けられるだろうに・・・」

「さあ~、どうなのでしょうね。それがこちらの流儀では・・・」と佳代が言った。

「流儀か・・・作法・・・ 」

「きっと、なにか意味があるのでしょうね。しきたり、ならわし」

「そうだろうな・・・」

 佳代が一口飲んで、

「中国の茶はポルトガルが初めて西洋に運んだそうです。暑い熱帯を通過して四ヶ月以上もかかる船旅では緑茶が劣化します。ところが、偶然にほどよく発酵したお茶が何ともいい香りがして、それをきっかけに発酵茶が大量に生産されるようになったと言われているそうですよ」

「そうかな~、わしはそう思わんよ。唐の昔から茶は飲まれていた。緑茶も抹茶も

団茶もあった。偶然にほどよく腐って発酵したのもかも知れんよ」

「発酵した茶葉が烏のように黑く、捻じれ曲がる形を竜にたとえるようですよ」

「それで、この黒い茶を烏龍茶というのかな」

 佳代が香りのお茶を飲み干した。

「この黒い香りのいいお茶を日本に持っていけばきっと人気になります」

「ほう、そうだろうな」

「大坂で店を開いて、厦門と交易して・・・ 根岸さまと一緒に・・・」

「そんなこと、わしは武士だぞ。お役目もある」

「徳川の世、戦はもうありませんよ。それに今は鉄砲や大砲の時代ですよ」

 根岸にもそれはわかっていた。自分には剣の技しかない。それに黒田家の剣術師範だった父は行方が知れず。庶子の我が身はまだ家督も継いでいない。

 襟元にしまっている棒手裏剣を恥ずかしく、むなしく思えた。

「柳生の松下殿はマカオにいるが、いちど厦門にもどって、ジャワのバタビアからマラッカ、インドのゴアまで調査に出かけるそうだ」 

 佳代は驚いたように、

「まさか、根岸さま、松下さまに着いて行こうなどとは言わないでくださいましね」

「いや、できれば、それもおもしろそうだと思っているが・・・」

「ならば、私もお供致します」

「それは、こまる。数日中には長崎に行く明の船が出航する。それに乗る手筈ができておる。それに乗らねば、いつ帰れるかわからない」

「ならば、それに乗って帰りましょう。京のご家老様にこたびの復命をして、久兵衛さまも心配して待っておられますよ」

令和五年六月一日

貝原益軒を書こう 六十六

貝原益軒を書こう 六十六                中村克博

 

 尺五は話をつづけた。

「根岸殿は佳代さんといっしょのようです。二人は大坂からオランダが領有する台湾のゼーランジャ城に着いたことはご存知ですね」

 久兵衛は自分の席にもどって尺五の話を聞いていた。

「はい、そのようすは先日お聞きしています」

 久兵衛はそわそわした気分で尺五の話の先を待った。

 尺五は返された茶碗に水を差し、茶筅を通して建水にこぼした。

「藤堂家からの知らせによると、根岸殿はいま鄭成功のいる厦門にいるようです」

 久兵衛は手に持った茶碗にいまだ口も着けずに聞いていた。

「当初の予定では大坂から鬼界ヶ島を経由して厦門に直行するはずで、それで役目が終わるはずだったのが・・・ 厦門には江戸の柳生からの密命を受けている武士が同行しています。佳代さんも一緒のようですね」

 佐那が落ちついた口調で、

「皆さんご無事のようで、安堵いたします。それにしても、たいへんなお勤めのようで、それも思いがけない急なお達しだったようですね」

 尺五は自服の茶を点てながら、

「詳しい報告は密書で届いております。後ほど目を通されるとよろしい」

 久兵衛が茶を飲みほし、膝前の茶碗に頭を下げて、

「私は、黒田家、京屋敷へ報告はいかがしますか・・・」

「黒田家にはすでに知らせはとどいておりましょう。おそらく京都所司代からでしょう。江戸の柳生よりは速いはずです」

「先ほど、尺五先生のもとには藤堂家からと言われましたが・・・」

「さようです。私の所には徳川家からの繋がりはありませんよ。伊賀からです。諜報はさまざまな経路がありますね。佐那さまはどこからですか」

 佐那がほほえんで、

「私がお聞きしたのは鴨神社です。しかし尺五先生より遅れています」

 久兵衛は驚いたようすで頭をあげて、

「私は講習堂に朱子学の研鑽のために参っております。徳川家の御政道が、世間をまとめるための倫理を見極める役目を授かっておりますが、それとは別に諜報がいかに大切か、ありがたいことです」

 尺五はうなずきながら、干菓子の盆に手をのばした。

「そうですね。学問はその目的が役立たねばなりませんからね」

 久兵衛は思い出したように気がかりだったことをたずねた。

「佐那様ともうされますか、鴨川での舟遊びで賊に襲われ行方知れずと聞いていりましたが、まさかここでお会いできる

とは・・・」

 佐那が久兵衛の方に膝を向きなおって、

「あのとき、私は鴨川を佳代さまと下っておりました。根岸さまが警護をなさって・・・ そこを鴨神社からの手練れの荒者たちが待ち伏せ、根岸さまに投網をかぶせ反撃できなくして、私を奪い去ったのです。長いあいだ鴨神社の奥まったところでかくまわれておりました」

久兵衛は体をのりだすようにして、

「そうでしたか、あれいらい今日まで、私は名前もお聞きしないまま佐那さまのことが気にかかっておりました。こうしてお会いすると昨日のことのように思えて不思議です」

「わたしも、そうです。ときのながれは短くなって消えてしまうこともあるのですね」

 佐那は膝の上に重ねた手を見つめて、

「それに・・・ 大徳寺を出てのできごとは悪い夢だったらいいのにと思います。あの夜の惨い斬殺を目の前でいくつも見て、今も信じられない光景が目の裏に焼き付いています。思い出すと血の気がひきます。」

「私も、武士ですが初めての体験でした。辛くて苦しいときは長く感じても、それが過ぎさると、こんどは思い出そうとしても、それはもう消えています。つらくて苦しかった時期が空白になって思い出せない」

佐那はこたえるように、

「あれから長い月日が過ぎているのに、まこと先ほどのようです」

 尺五は二人のやりとりを聞きながら茶を飲みほして、

「ほんとに、そうですね。人が感じるときの長さは漏刻が計る水の流れとは別のものなのですね」 

 久兵衛が尺五に向きなおって、

「して、佐那さまはどうしてここにおいでなのですか」

 尺五は茶碗に湯をそそぎながらほほえんで、

「佐那殿は久兵衛殿と同じ理由で講習堂にきておられます。武断の時世から文治へと、まずは徳川家が定める朱子学の倫理を知ろうとしておられます」

「では、そのために鴨神社から使わされたのですか」

 尺五が少しためらうように、

「うㇺ・・・ そうですが、もっと奥のやんごとなきところに繋がるのでしょうね」

 佐那が陽気にうきうきした口調で、

「そのように言われては大仰に聞こえます。私は外に出られてただうれしいのです」

「はは、そうですね。ここには各地の大名家から遣わされた若者が多い。ちかごろは商家の子弟も多くなって・・・ ああ、そうだ、久兵衛殿と佐那殿には講習堂から尺五堂の方に受講場所を変えてもらわねばと思っております」

「尺五堂にですか」と久兵衛と佐那が同時に聞きなおした。

「そうです。尺五堂の方です。山崎闇斎殿や伊藤仁斎殿との居宅に近く、ご両人の出入りもあります。御所の南通りにそっています」

令和五年四月二十日