貝原益軒を 書こう 六十三 中村克博
ゼーランジャ城に帰った根岸は佳代の部屋にいた。佳代が市場で買い物をした食料品の整理を手伝っていた。佳代が使っている部屋は二間あって一つは広く、竃があって煮炊きできるようになっていた。根岸は佳代に言われるままに荷物の配置をして、水を汲みに木桶を抱えて部屋を出た。部屋は二階にあったが一階の天井が高いので石造りの階段は途中で折れ曲がってかなり長かった。水場までは何度か建物の角をまがって遠かった。
同じころ、松下は武士家族の居留地区を視察した報告のため、司令官室にいるコイエットの所に出向いた。司令官の部屋はゼーランジャ城の最上階の一角にあった。部屋の入り口には帯剣した番兵が二人、警杖を持って立っていた。部屋は執務室や会議室、応接間や寝室などいくつもあった。
松下は執務室につながる応接間で布張りの椅子にすわってくつろいでいる。執務室に夕日が射しこんで開けられたドア越しに明りがとどいていた。テーブルをはさんでコイエットが煙草をふかしている。煙道が長い陶器製の白い素焼きのパイプだった。仕事向きの話は終わって取り留めのない雑談をしていた。コイエットは日本語ができる。
目を細めて煙を吹き出しながら赤いワインのグラスに手を伸ばした。
「松下殿、今日の夕食はこちらで、根岸殿たちと一緒にしましょう」
松下は机のワイングラスをながめながら、
「そうですか、それはありがたい」
「よければ、私の副官と執事も一緒させようと思いますが・・・」
「どうぞ、どうぞ、いろいろ話が聞けておもしろそうだ」
コイエットは執事に、そのことを根岸たちに伝えるように言って、まだグラスに口をつけていない松下にワインをすすめた。
「そのワインは年代物でフランスのブルゴーニュ産です。赤色の深さがいい」
松下は腰をかがめグラスを見つめて、
「色もうつくしいが、香りも、いいもんですな」
見るだけで口をつけない松下を見ながらコイエットは大きく足を組んで、
「根岸殿のいいなずけ、佳代さんはまことに日本の良家の娘さんですね」
「うㇺ・・・ しとやかなようで気丈ですな」
「長崎では、よかおなご、といいますね」
「はは、は・・・ そうですか。早く京にもどればいいのですが・・・」
コイエットはパイプをゆっくり深々と吸って煙を長くはいた。
「オランダの・・・ 私の船の不良水夫が佳代さんに取り返しのつかない狼藉をして申し訳なかった。二人の下手人は処刑しましたが、佳代さんの心には深い傷をつけてしまった」
「その件はもう済んだことです。むしろ船長の処置が迅速でした。それと・・・ 」
松下は机のワイングラスに映る夕日を見つめながら、
「佳代さんは根岸殿のいいなずけではありません。京では名のある呉服屋の跡取りと親同士の話で婚儀が決まっておりました」と言って顔をあげて、
「詳しくは存じませんが、佳代さんが根岸殿を追って台湾まで来ておるのです」
「なるほど・・・ そうですか、それで納得できます。根岸殿は、こたびの航海に重要な密命で出られたはず。それなのに女人連れとはなぜか、理解できませんでした」
松下はグラスから目を上げてコイエットを見た。話を変えるように、
「何度も説明しますが、日本の近海の権益圏を遠く離れた海上で、明国の船をオランダの軍艦が襲撃しても、我国には埒外のできごと徳川家とは関わりのないことです」
コイエットは深くうなずいて松下を見た。
「そうです。それはわかりますが・・・ しかし、善良な日本の女性を、嫁入り前の名家の娘さんを、オランダ人が狼藉したことがわかれば江戸幕府は見逃せないでしょう。長崎との交易に支障が出ては私の責任です」
「そうなりますな」
「そうです。そうなれば私はバタビアに召喚され裁判で死刑でしょう」
「それは大変ですな」
「そう、そうなのですよ。それで、名案があります」
「名案・・・ ほう、それはどのような名案ですか」
コイエットはパイプを置いてグラスにワインを注いだ。
「松下さん、あなたもワインを飲んでください。そうすればいい考えが浮かびます」
松下はワインを一口飲んで、すぐにゴクゴクと飲み干した。
「それで・・・ コイエット殿、どのような考えか聞かしてください」
コイエットはワインをゆっくり一口飲んで、
「根岸殿と佳代さんに結婚してもらうのです。ゼーランジャ城には教会もあります」
「なんと、そのようなことできるものか、根岸殿は黒田家の家臣ですぞ」
「二人は好きあっています。夫婦になればいい。祝儀のお金たくさん進呈します」
松下はグラスにワインを自分で注ぎたしてゴクゴク飲んだ。
「そんなことできぬと申しておる。無理だ。根岸が腹を切ることになる」
「ええっ、そうか・・・ ならば、佳代さんがキリシタンをやめるといいですね」
「軽く言われるが、キリシタンは自害を禁じておるはずだが・・・」
「そうです。生命は神から授かったもの、けっして粗末にはできません」
松下はワインを飲み干して、笑いながら、
「ならば、佳代殿が自害せぬのはキリシタンだからでしょう。日本の武家の女があのような辱めを受ければ自刃して果てます。ま、佳代殿は武家ではありませんが・・・」
「なるほど、そうですか、ならば佳代さんはキリシタンのままがいいですね」
コイエットは新しいワインのボトルを持ってきて松下と自分に注いだ。
「いろいろ考えれば、ああでもない、こうでもない。そのうち名案が思いつきます」
松下は赤い酒を見つめてゆっくり味わって飲んだ。
「そうですな・・・ 酔いがまわると思案でなく閃くのですな」
コイエットはうなずきながらグラスを傾けた。
「そうです。思考は、状況を知り解釈する段階、それが集積すると一瞬に閃きますね」
執事が顔を出して根岸と佳代が来たことを知らせた。
会議室のテーブルに白い布が敷かれて幾つもの燭台に蝋燭が輝いて花が飾られ会食の設えが出来ていた。コイエットと松下が入ってくると根岸と佳代は椅子から立ちあがって挨拶を交わした。すぐに副官と執事がやって来た。副官は佳代が鬼界ヶ島のオランダ船に乗って来たときの船長だった。久しぶりの対面だった。佳代の目に涙があふれていた。
みんな席に着いた。三人ずつ向かい合って座った。片方には佳代をはさんで根岸と松下が並んで、その前にコイエットをまん中に副官と執事が席をとった。佳代の前にはコイエットがいた。根岸の前には副官が、松下の前は執事がいた。
佳代は緊張していた。副官の船長をみると、船での出来事がよみがえってきた。つらい思い出だった。いまも根岸のそばにいることが苦しい。申し訳ないと思っていた。
料理が運ばれてきた。白いエプロンを付けて黄色い髪を被り物でおおった若いオランダの女性たちだった。スープ皿が置かれ、オランダの女性が二人で大きな鍋を持って、一人が濃い黄土色をした豆のスープを注いでいく、笑顔で何やら話しかける。佳代はオランダの言葉で小さく返していた。皿のスープの中にこんがり炒めたソーセージや鶏肉の切り身を置いていく、うまそうな湯気がロウソクの明りにただよっていた。
コイエットがテーブルを見わたして、
「みなさん、どうぞ召しあがりください」と言った。
「おいしい」と佳代がひと匙口にして言った。
松下が「このスープは飲むというより食べる感じですな」と言った。
コイエットがスプーンで山盛りにすくって、
「この料理はエルテンといいます。レンズ豆とタマネギ人参それにオランダ三つ葉、ジャガイモを茹でて、弱い火にかけて半時くらい炊いています」
エルテンを食べると皿が下げられて、すぐに大きな皿にこんもり盛られた料理が一人に一皿ずつ運ばれた。青い野菜の混ぜご飯に、濃厚なソースがたっぷりかかった大きな肉団子がそえてあった。
佳代は量が多くて食べあぐねていた。根岸が気づいて後は自分が食べるからと言った。根岸は自分のを食べおえると佳代の皿と入れ替えてうまそうに食べていた。そのようすをコイエットがなごやかな目で見ていた。あちこちで会話が行き交っていた。副官も執事も日本語はあまりできない。松下はオランダの言葉が多少できた。佳代はポルトガル語もオランダ語も少しは話せた。根岸は武士の言葉しか理解できない。もともと話が苦手でほとんど誰とも話さない。なんでもうまそうに食べるのは早い。
コイエットが食後の果物を手にしながら根岸に声をかけた。
平成五年一月二十八日