ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きょう金曜日は午前中、エッセイ教室だった。

 

 

貝原益軒を書こう 十                   中村克博

 

 

 帳場の方から人のやり取りがボソボソと聞こえてきた。声をころした話しかたがよけいに気を引いて根岸は耳をそばだてた。若者ではない落ち着いた武士の声と、しわがれた女の声だっだ。根岸の下にいる女が、揚屋の女主人とのやり取りだと言った。間もなく狭い廊下をせわしく足音が近づいてくる。歩幅の小さな摺り足が襖の外にとまった。荒い息づかいで、

「おねえさん、このような場所柄で慮外だとはじゅうじゅう承知しておりますが」

一息ついて、

「おおごとが起きて、どうしていいか」

 根岸はすでに女から離れていた。手早く身づくろいをしながら二人の女のやり取りを聞いていた。土地の言葉はよくわからなかったが意味はおおむね理解した。床の敷物や酒器を端によけ襖から畳一枚さがり正座して刀を左に置いた。女が長襦袢の袖に手を通しながら根岸をうかがった。

「おはいり」と女が言った。

 襖が開いて少女が入ってきた。髪は短く切りそろえ目の大きな色の浅黑い年の頃まだ十四にはなるまいあどけない顔をしていた。立ったまま後ろ手に襖をしめて、ぺたんと座った。

「どうしたの、何が起きたの、落ち着いて」とさとすように言った。

 少女は座りなおして、

「それで、薩摩のお侍様が、船から逃げて来た者を差し出すようにと、おかあさんは、そんなものはおらんと、言いあって」

 少女に顔を寄せて小さな声で、

「それで、島のおじさんたち二人は、いまどうして」

 少女は根岸をちらりと見て、小声で、

「二階の布団部屋に」

 

 根岸はいまだに事態がよくは呑み込めないでいた。この揚屋奄美大島の遊女上りの女将が切り盛りしている。ここの遊女たちも禿たちも奄美大島から身売りして来た娘ということだ。そこまでは承知しているが薩摩の武士がなぜ男二人を追っているのかわからない。この揚屋には一階に帳場と厨房、客の部屋が三つか四つ、それに女主人と禿たちの生活の場がなどある。二階の様子は分からないが、客室が五つ以上はありそうだ。客の部屋はほぼ満席のようだ。布団部屋は二階にあるのだろう。そこに船から逃げて来たという島の男が二人潜んでいて、薩摩の武士がそれを取り押さえにきたらしい。 

 根岸が今日の夕方、小雨の中を関船から屋形の艀に便乗して鞆の浦の湊に上ったのはふた時ほど前のことだ。小笠原藩の定宿で夕餉を済ませ、気心の知れている藩士に外出したい事情を正直に説明すると有名な遊郭を避けて頃合いの揚屋を教えてくれた。あたふたと一人で宿を抜け出してきているが宿の門限までには帰らないとまずいことになる。

 

 女が根岸の方に向きなおって、

「こんなことになって申し訳ありません。奄美の身内のおじさんが薩摩の侍に追われています。昨夜おそく疲れ切った二人がここに逃げ込んで来ました」

 根岸は黙って聞いている。女は根岸の顔を見て問わず語りに話をついだ。

「その晩は体を休め、路銀をいくばくか渡し今日の夜が深まるのを待って夜明け前に鞆の浦を抜け出す手筈をしておりましたが・・・ 私のおじさんたちは捕まれば拷問されます。そして島の人たちも罪もないのに連座で斬り殺されます。飢えた島では多くの子供たちが、いいえ、私の妹の乳飲み子も、出ない乳の代わりに重湯を飲ますこともできません。自分たちが作った黒砂糖を子供が舐めても親子ともども酷いお仕置きをされるのです」

 女はそこまで話して根岸の反応をみている。根岸は無表情で聞いているが目は遠くを見つめるようだった。場末の揚屋であっても福山藩公認の遊郭であれば薩摩の武士も勝手に立ち入って部屋を検めることはできまい。事を荒立てることはできず船番所には届けもしていないはずだ。帳場にいる薩摩武士は一人のようだが、恐らく目立たぬように裏口にも手配しているだろう。通りにも数人潜んでいるかもしれない。

 女の両目から涙があふれて流れた。両手をついて根岸を拝むように、

「お武家様、お願いでございます。おたすけください」

 根岸はどうすべきか、思案してもわからない。

 すると女は鏡台の引出から布にくるんだものを出してきて根岸の膝の上に置いた。

「これはお返しいたします」

 先ほど根岸が渡した花代のようだがその何倍もの小玉銀だった。

「お願いでございます。おたすけください」

 女がにじり寄って根岸の腰に縋りついた。胸のふくらみが、乳首の感触が手の甲にふれている。顔をうずめたままで女が覚悟したように言った。

遊郭で刀を抜くことはご法度、まして武士の喧嘩は両成敗、切腹でございましょう。二人を連れ出しても薩摩のお侍は手出しができません」

 根岸は考えることをやめた。

「あいわかった。布団部屋の二人を呼んでまいれ」

 女が顔を上げた。女は少女に向きなおって目で言い付けた。少女はすぐさま階段を駆け上がって行った。根岸は立ちあがった。銀の小粒が膝からばらばらと落ちた。

 女が座ったままで、

「どのような算段ですか」と問うた。

 根岸は応えず刀の下げ緒を束ね、刀を左手に持って廊下に出た。人の気配のある帳場の方に歩いて階段の下で待った。すぐに少女が下りて来た。続いて旅の羽織を着た身なりのいい初老の男が菅笠と振り分け荷物を下げて、その後からこざっぱりした旅姿の若者が風呂敷で巻いた道中差を右手に持って下りてきた。二人の出で立ちは旅行中の商家の主人と手代といった格好を装っていたが憐れなほどに表情と仕草がそぐわないのが一目で見てとれた。

 部屋から出てきた女が根岸の後ろから、

「私が玄関の方で騒ぎます。そうすれば裏の見張も表に急ぐはず、頃合いを見て裏口から出てください」と小声だがきっぱりと告げた。

 根岸はやさしく説き伏せるように、

「無用なことをいうな、理合は時の運に及ばぬものだ」

 根岸は少女に、先を案内して履物の用意するように言った。帳場の前で薩摩の武士が女将とにらみ合っている傍を根岸は歩きながら軽く頭を下げ通り過ぎた。女将は驚いた様子だが切迫した気持ちを隠して愛想を取りつくろった。

「お帰りですか、ありがとうございました」と言って三人の後を追って来た。

 薩摩の武士は答礼して上目遣いに後ろの二人を見咎めた。

「あいや、待たれよ。お尋ねすることがある」

 根岸は無視して歩きながら、『敦盛』の一節を呟くように謡いはじめた。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬものの~~」

 口ずさむ抑揚はでたらめだが屈託ない微吟が玄関に向かう。その後を旅装束の二人と女将が続いた。薩摩の武士は一瞬たじろいだが、人を食ったような根岸の吟詠を見て、それが不安を隠そうとしているものと解した。薩摩の武士は、腰の刀の鍔元を握って小走りに根岸の前に躍り出た。

「またれよ。後ろの二人に用向きがある」

 根岸がにっこり笑った。

「ここは遊郭でございます。抜けば切腹です。外は雨も上がって月が出て、船の上なら定めも外れ海にも出られましょう」

 薩摩の武士は了解したように玄関を出た。根岸は少女が用意した履物に足を通した。旅姿の二人は草鞋の紐が結べない。指がかじかんだように震えていた。女将が手伝った。通りで待っていた薩摩の武士が歩きはじめ、外に出た三人は後に従った。新たな薩摩の武士が二人背後にいた。ほどなく路地に入った。六人が一列に並んで通るほどの道幅で月明かりが届かない暗闇だった。潮風が通り抜けた。路地から出ると広場になっていた。波除の石垣堤防がある。その先は海のようだ。波の音が近い。

 先頭の薩摩武士が立ち止まって向きなおった。

「ここらでよかろう。二人を渡していただこう」

「ならぬ」根岸はにべもなく言った。

「ならぬとはいかに、先ほどの言は欺くためか、おぬし卑怯な奴だ」

「卑怯かどうか、試してみるがよかろう」

 詮方なしと薩摩の武士は腰の刀を左手で外に捻りながら柄を下向きに腰を沈めた。右手を柄に添え瞬時動きを溜めて、

「一時の慰み女に立てる義理はなかろう」と言った。

「義理はなくても交わした情がある」と応じた。

 薩摩の武士は這いつくばるような低い姿勢で斬り上げるようにゆっくり抜刀した。刀の柄を右のこめかみの高さに、刃先を真っ直ぐに立てて構えた。足を大きく開いて膝が着くほどに低い。そのとき後ろにいた旅姿の若者が根岸の右横に並ぶように出てきた。なんと、風呂敷から出した道中差を抜きはらった。手放した鞘が転がり虚ろな音がした。正眼に構えた若者が根岸の前に出た。根岸は咄嗟に体を右に大きく移したが薩摩の武士はかまわず低い姿勢のまま体ごと左右に半身、半身と体を入れ替えながら進んで一撃した。若者は左首の根元から右の脇腹まで体が二つになるほど斬られて前のめりに転がった。すかさず刀を返し根岸に斬り込んだ。根岸はひと足踏み込んで横一文字に抜刀し左足を大きく引いて峰で腰骨をしたたか打ちつけた。薩摩の武士は体勢をくずしても、さらに切り込んできたが根岸は軽く祓い右手首を打った。骨の折れる音がして刀が落ちた。

 控えていた薩摩の武士が二人、先ほどと同じように下から斬り上げるように抜刀した。二つの動きがまったく同じだった。刀の柄を右のこめかみの高さに、刃先を真っ直ぐに立てて構えた。足を大きく開いて膝が着くほどに低い。と、そのとき声がした。

「お前たちの手に負える手合いではない。引いて死人を運べ」

 根岸を見て、

「恐れ入った。無念だが詮方ない。旅人を連れていかれよ」と言った。

 根岸は一礼して刀を収めた。この薩摩の武士は腹を切るのだろうと思った。

                             令和元年八月二九日