先週の金曜日、エッセイ教室にいった。
一月は休んだので今年初めてのエッセイ教室だった。
貝原益軒を書こう 四十九 中村克博
根岸は柳行李の中から風呂敷包みを取り出した。枚方の屋敷を出るとき、よねが持たせてくれたものだった。ポルトガル製の短筒で懐に収まるほどの大きさだった。火縄でなく火打ち石で発火するようになっていた。使い慣れた棒手裏剣の方がいいのだが、どうしても、と言って聞かず使い方を何度も教えてくれたものだった。
筒先を空に向けた。日が傾いて庭の木立がゆれていた。枝先の小さな芽吹きが色づいて見える。撃鉄を起こして引き金をゆっくり引いた。火打石が、当たり金をカチィと叩いて火花が散った。火薬も鉛玉も装填していないので発射音はしない。二度三度と筒先の向きを変えながら同じ動作を繰り返した。懐にしまい素早く取りだして撃つ動作を繰り返した。短筒が手に馴染んできた。
番頭が庭先を渡って来るのが見えた。おもむろに短筒を懐に隠すように入れた。縁側から声がした。ただいま二人の武士とさらに女人が一人連れ立って根岸をたずねて来ていることを知らせ、部屋に通すことの了解を求めた。
部屋に通されると年長の松下月之介と名のる武士がそれぞれの身分と目的地までの役目を説明した。このたびの用向きは江戸幕府の意向で柳生家当主宗冬様から直々に沙汰を受けていることを告げた。
柳生家は今より六年前の正保三年(一六四六年)に柳生藩初代の宗矩公が死去したことにより遺領一万二千五百石のうち兄の三厳(十兵衛)が八千三百石、宗冬は四千石を相続して柳生家から分家した。二百石が芳徳寺に寺領として分与された。このとき家督を継いだ三厳の石高が一万石を下回ったために柳生家は大名から旗本の地位に戻った。ところが長男の三厳が若くして没し次男の宗冬が代わって柳生家を継承したが、四千石を幕府に返上したために大名への復帰はなかったいきさつがある。
さっそく具体的な段取りについて話しはじめた。
「大坂からは監視役の柳生兵百人がついて浪人五百人は三隻の船に分乗します。和歌山と淡路の間を南下し徳島藩の浅川港に入ることになっております」
根岸が確かめるように、
「船は弁財船の五百石積を二隻、三百石積を一隻、堺の交易商が手配しておるのですね。それに五百人の浪人を分乗させ、積荷は拵えに入った大小の刀が千振り、火縄銃二千丁と大量の鉛玉を三つに分けて積む。火薬は積まないのですね」
松下月之介と名のる武士は茶を一口飲んでつづけた。
「火薬は乗せません。徳島の浅川ではいったん人も積荷も降ろします。警護には徳島藩から蜂須賀家の武士が厳重に港一帯を固めることになっております」
連れの女人が一礼して口を開いた。
「浪人の中には家族づれがおります。女や老人も子供もおります。その管理と世話のため私と他に柳生者の女子が五人同乗します」
松下月之介が女人の話をつぐように、
「浅川で人と積み荷を降ろすと監視役の柳生兵百人は弁財船に乗ったまま港を出ます。そこで数日以内に鄭成功が差し向けた大型のジャンク船二隻に乗り替えます」
「ジャンク船・・・ジャンク船とはどんな船ですか」
「明では船のことをチュアンと言うのですが、それをポルトガル人がなまってジャンクと言い始めたと聞いております。帆柱が三本ある大型の外洋船です」
松下は根岸の顔を見て続けた。
「徳島の浅川から明国の厦門までは半月ほどの日程ですが、途中で薩摩の鬼界ヶ島に立ち寄ります。鬼界ヶ島は別名を硫黄島ともいいます」
根岸が口を開いた。
「徳島までは監視役の兵士が同乗しますが、それからは我らだけの少人数になりますね」
「そうです。徳島からは鄭成功の明の船です。ジャンク船は明の支配下にあります」
「そうであれば、我らは明の船に乗った客人の立場ですか」
松下は少し首をかたむけて、
「・・・そうゆうことになりますかな。ただ・・・薩摩、いや琉球までは日本国の領域です。その先は徳川幕府の支配がおよびませんが・・・」
慶長十四年(1609年)、島津家は家康・秀忠の了解のもと、三千の兵で琉球に侵攻した。奄美大島をへて三月には沖縄本島に上陸し、四月に首里城に進んだ。琉球は敵せず敗れ尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。戦後処理として「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文の提出を薩摩藩へ命じられる。以降、島津家への貢納を義務付けられ、謝恩使・慶賀使を幕府に派遣することになる。柳生藩士の松下はそのように心得ていた。
根岸は少しばかり不安げな口調で、
「私の役目は浪人を、由比正雪の謀反に加担した残党五百人を大坂から明国の厦門まで鄭成功のもとに届けることですが、明国の支配下にあるジャンク船で五百人もの反乱武士を、私どもだけで、それをやるのですか・・・」
松下は申し訳なさそうに・・・
「じつは、我ら柳生の者たちは島津の鬼界ヶ島までです。それより先は根岸殿お一人で五百人の浪人を厦門まで連れていかねばなりません」
「なんと・・・」
根岸は思いもよらない松下の話に口をつまらせ目を丸くした。
松下は自分に言い聞かすように根岸に事の次第を説き明かした。
「ご存じのように島原の天草一揆は寛永十四年、今から十数年まえのことです。幕府軍の攻撃と後の処刑で、籠城した全員が残らず殺されます。老若男女三万七千人であったと言います。幕府の討伐軍側は総勢十三万近く、死者千百三十、負傷者六千九百六十とされます」
根岸は詳しいことは忘れたが記憶にあるのでうなずいていた。
松下が話をつづける。
「こたびの由比正雪の反乱は幸いに未然に防がれましたが、もしも実現しておれば江戸に駿府から尾張、大坂に京の都でと日本中にひろがり島原の乱以上であったかも知れません。しかも不逞の浪人だけでなく・・・ はばかられる話ですが、いくつかの有力大名家もかかわりがあるといいます」
根岸は深くうなずいて聞いていたが、
「由比正雪の一件はすでに首謀者一味は討ち取られ、囚われたものは拷問による取り調べ、引き回しの上即刻処刑されたと聞いております。関与を疑われた紀州藩主徳川頼宜公は江戸に足止めされ、まずは一件落着ではないのですか」
「そうかもしれませんがその後が大仕事です。反乱に賛同したり加担したものの人数は数知れませんし、嫌疑のある大名家の調べをどうするのやら・・・」
「それでは、このたび大坂から明国に送られる者たちは反乱に加担した罪人の国外追放ですが、五百人では少ないのではありませんか」
松下はきっぱりと根岸を諭すように、
「すでに密かに処刑されたものもおりますが、事の起こりは幕府による大名の取り潰しで世の中に主家を失くした浪人があふれ出たことが原因です。それの対策が御政道の要点でしょうが我らの関与すべき役割ではありますまい」
根岸は姿勢をただして、
「は、そうです。私はただ主命をはたすのみです。仔細は必要ありません」
松下はおだやかに表情をくずして、
「反乱は未然に収まっておりますし、浪人たちの暮らし向きや心情は幕府もわかっております。しかし、それでも各地で囚われた首謀者たちは死罪をまぬがれません。はかりごとの中心にいなくともキリシタンを改宗せず棄教を拒み死罪をのぞむ者たちは女子供の家族ぐるみです。幕府の方針が武断から文治に変わるとき、できれば罪に問わず密かに国外に追放するのではありませんか、五百人の放出は本人たちの希望でもあります」
柳生の女人が口をはさんで、
「それに、確たる話として聞かされたのではありませんが反乱にはスペインことイスパニアもからんでいるといいます。幕府に不満のある大名さらに棄教したはずのキリシタン大名家が反乱に協同すれば戦乱の世にもどります」
松下が困った顔をして、
「そのようなことになっては、イスパニアとポルトガル、ローマのバチカンのカトリック、
それらと争うプロテスタントのオランダとイギリスの・・・ もう訳が分からぬ」
根岸が思いついたように、
「そうなれば、徳川家とオランダが手を結び、反乱浪人とキリシタン大名がスペインと組んで島原の乱どころか大坂の陣や関ヶ原の戦いの再来ですね」
松下が広がり過ぎた話をおさめるように、
「いずれにしろ、起きもしない想像はこれくらいにして、このような重大な問題を密かに解決する手立ての一端を我らは担わされております。徳島を出れば徳川幕府に直接の関係はなくなる。薩摩を出れば我が国は関係がなくなる。鄭成功は以前から徳川家に援軍を求めていた。根岸殿はそのような役目をもって五百人を連れて行くことになります」
梵鐘の音が聞こえてきた。柳生の女人が空を見上げるように、
「あら、暮れ六つですね。話の続きは明日から船の上でいくらでもできますよ」
梵鐘は捨て鐘三つのあと、はじめゆっくり徐々に早く六回聞こえてきた。
令和四年二月十七日