先週の金曜日はエッセイ教室だった。
「貝原益軒を書こう」の二回目を提出したが、分かりにくいと、
いろんな指摘をされた。物語の中で時代の違いが分かりづらい、
話が入り組んでいる。と・・・
それで、数日かけて、かなり書き直した。
貝原益軒を書こう 二 中村克博
昨夜からの雨は明け方には止んで、雲間からの朝日に桜の若葉が輝いて黄金色に見える。風が強くて羽織の裾が乱れ飛ぶようだ。城の石垣が近くなると、お堀に沿って植えられた荒々しい木肌の松が見えてきた。松葉の先に水玉が光っている。
久兵衛は先日の長老、重臣方への進講の様子を思いだしていた。長崎と平戸での探査報告を二日のあいだ朝から夕方まで、皆様お務めとは言え途中さぞ退屈されたことだろうと反省していた。それで、今日の忠信公へは報告書を事前に提出しておることだし、ご一緒の近習の若侍たちへの話でもあるので工夫せねばと考えていた。
北の丸の城門が近くなった。見上げると青い空が広がっていた。荒砂を踏みしめる音が湿っていたが、帯に挟んでいた股立ちを元に戻した。門番に木札を示して切り戸をくぐった。梅の木が見える。花が終わった枝に小さな葉が一斉に芽吹いていた。忠信公には本丸の御殿でお目通りすることになっている。北の丸を通って本丸の門に着くと案内の藩士が待っていた。
御殿では大刀を預け足袋を替え、一六畳ほどの部屋に通された。上段の間はなく床の間には書が掛けてあった。香炉が置かれているが焚かれてはいなかった。床を背にして文机がひとつ置かれ、そこから畳一畳ほど開けて、その両脇に同じ文机が四卓ずつ並んでいた。久兵衛は四卓の内、床近くの奥に座った。すぐに若い侍たちが六人入って座に着いた。久兵衛の隣は空席だった。案内して来た侍が正座して短い口上を述べ六人の紹介をした。頃を見はかるように忠真公が入室すると、近習たちが座卓から下がり叩頭した。久兵衛もそれにならった。
久兵衛が進講を始めて半時もせず、忠真公が近習に向かって、久兵衛に質問と意見を述べることをゆるした。事前に渡された報告書を読み、長老や重臣からの話や、意見の交換もしたようで堰を切ったように三人が一緒にしゃべりだした。
そのうちの一人があらためて、
「太閤様が筑前の箱崎で発せられた伴天連追放令のあともキリシタンの布教は改まらず、ついには二十六人のキリシタンが長崎に送られ磔にされますが、なぜに、こうまでも秀吉公は伴天連を毛嫌いになったのでしょうか」
久兵衛が、
「捕縛された一行は左の耳たぶを切り落とされ、鼻をそがれ、京都・大坂・伏見・堺の市中を引き回されたあと、ほぼ徒歩で長崎へ送られます。護送中、更に二人の逮捕者を加え一行は二十六人となります。極寒の季節、約一ヶ月の道のりを長崎西坂にたどり着きます。着物を脱がされ、直ちに磔刑が執行されました。長槍で左右から何度も突かれます。遺体は一ヶ月以上、磔のままさらされたといいます」
聞き終えると、しばらく間が空いた。
一人の近習が、
「キリシタンは勢力を強めると我国の伝統ある神社仏閣を各地で破壊しました」
さらに、もう一人が、
「伴天連は火薬の素になる硝石一樽を日本娘五十人と交換して、獣のごとく縛って船内に積み込んだと、天正少年使節団の書にあるそうです」
久兵衛が、
「肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国や南蛮にまで転売されていくのを見たのだそうですね」
待っていたように、近習の発言がつづく、
「イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルは布教を貿易の条件にしておったのですね」
「土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員が申すには、スペインは多くの国を攻め取る前に、まず伴天連を送り込んで住民をキリシタンにするのだと」
「それで、伴天連は追放したいが硝石は欲しい」
「南蛮の商船とイエズス会士の扱いが明確でないのですね」
話がはずみ、場がなごんできた。
二人の近習が続いて発言した。
「硝石は堺の納屋衆がポルトガルやスペインの商人から独占して輸入しておったのですね。インドのゴアからアユタヤ、マラッカ、それにマカオを経由して鉄砲や大砲、硝石や火薬などのほかにルソン壺や安南の染付壺など、どうも千利休、茶の湯との関連も見えてきそうですが」
「太閤様が千利休を追い詰め死罪とした理由に、大徳寺の山門に設置された草履姿をした宗易の木造とありますが、これも解せぬ話で、やはり硝石が絡むのではありませんか、貝原様はいかが思われますか」
久兵衛は忠真公をちらりと見て、
「私には私見を述べることは許されておりません。ただ実際に見聞した事実のみをご報告するように申し付かっております」
近習の一人が不満そうに、
「この場では各自が思うがままに語り合うのだと承知しておりますが」
さらに次の者がつづいた。
「探索した事実のみと申しても、出来事のすべてでは到底ありえず、限られた物事から全体を類推しなくて判断は出来かねますが」
久兵衛は近習からの突っ込みを直には受けずに、
「南蛮貿易やキリシタンについて我が国の方策は、近隣の出来事だけでは判断しかねます。スペイン、ポルトガル、オランダやイギリスなどの本国での互いの関りを踏まえることが肝要と考えます」
近習たちは合点したように意見が続いた。
「キリシタン大名の大村純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進し、有馬晴信が浦上を寄進しイエズス会本部が置かれた。まるでポポルトガル領のマカオのように」
「それを知った秀吉公の怒りというより、惧れかもしれませんが・・・」
「そのころ太閤殿下だけでも鉄砲の数では本国のポルトガルとスペインを合わせても多かったし性能も格段にいい」
「スペインもポルトガルも我が国には武力侵攻ができませんね」
ここで、久兵衛が、
「それどころか太閤殿下はルソンのスペイン攻略をも考えられたかもしれない」
近習たちの発言はてんでんばらばら、になって、
「同じキリシタンというが、ポルトガルはローマが本山のカトリック、オランダはプロテスタントで互いに仇敵ですね」
「宗派ちがいは、どこでも仲が悪い」
「あんがいに、我国のように、国入り乱れて戦国の世だったのでしょうか」
「スペイン、ポルトガルとオランダは本国では戦争状態で、それは今より数年前まで八十年も続いていたのですね」
「貝原様、オランダはそれまでスペインの領土だったのですね」
「いや~、私には、まだ、そこのところが、良くわかっておりません」
したりとばかりに近習が、
「そうですね、でなければ島原の乱で、オランダの商船二隻が反乱軍の城に艦砲射撃を行った理由は見えてこない」
横に座る近習が話を継いで、
「それは、つい最近十五年ほど前、江戸徳川様の時代になっての話ですね」
久兵衛が補足するように、
「伊達政宗公は大型の船を仙台藩で造り、支倉常長に太平洋横断を命じました。フィリピン総督のドン・ロドリゴとフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロをともないスペイン領のメキシコに向うのは四十年ほど前のことですね」
他の近習があとを受けて、
「ソテロと支倉常長はメキシコから更に大西洋を渡りスペイン国王さらにはローマ教皇に政宗公の使節として会いますが、やはりスペインは布教を貿易の条件にしていますね」
「貝原様、スペインとポルトガルはキリスト教布教と異国の征服を抱き合わせにする訳はなんでしょうか」
久兵衛は笑って答えずに見当違いな話をした。
「宣教師のルイス・ソテロは後年江戸にもどってきますが、禁教令が厳しく肥前大村に送られ火炙りにされます」
「徳川三代将軍のころにはキリシタン弾圧はもう徹底しておったのですね」
「さすれば、島原の乱はポルトガルの最後のあがき、だったともいえそうですね」
久兵衛は、近習たちの勢いにタジタジだった。
忠真公の顔がほころんでいる。
平成三十一年四月五日