ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

貝原益軒を書きはじめた。

今日はエッセイ教室だった。

やっと、どうにか、貝原益軒を書きだして一回目の原稿を提出した。

 

貝原益軒を書きはじめよう               中村克博

 

 晴れてはいたが空は鈍い青色で遠くの景色が薄っすら煙って見える。紫川に吹いている昼下がりの海風はまだ冷たかった。常盤橋の人通りは多い。この橋から上流には大きな船は上れない。川口の両岸には帆を降ろした弁財船がひしめいて舳先を並べていた。どの船にも人の動きは見えるが積荷の上げ下ろしはない。川辺に沿った通りは人の姿はまばらで、町屋が軒を連ねる中に茶屋がぽつぽつと店を張っている。茶屋の縁台に腰をおろしている久兵衛は皿の饅頭を手に取った。

貝原益軒、字は子誠,通称は久兵衛。号は損軒,晩年に益軒と改めたとあるが、この物語には久兵衛を用いようと思う。

 

船溜まりを見ていた久兵衛は連れの武士に問うように言った。

「船荷の積み下ろしは朝のうちに済ますようですね」

「そのようだ、今は赤間関の汐まちをしているようだな」

久兵衛は顔をもどした。

「それに、風まちも・・・ 船は風しだいですからね」

おだやかな日差しが暖かだった。桜の枝に蕾がふくらんで見える。

「それにしても、お城の天守は立派ですね。南蛮造とかで空に届きそうだ」

「小笠原家は譜代大名だからな。権現様の血筋でもある」

そのとき、お茶を注ぎ足していた茶屋の老女が口をはさんだ。

「このお城は、前の殿様が、細川さまがお創りになったのでございますよ」

つよい言いぐさが何やら誇らしげに聞こえた。

久兵衛が応えた。

「ああ、そうでしたね。忠興公がバテレンの技術を取り入れたのですね」

それを聞いて年老いた女は、うろたえたようで左手にした茶盆が傾いた。茶碗が滑って熱い茶が久兵衛の袴の膝にこぼれてきた。咄嗟に連れの武士が袴をつまんで持ち上げた。久兵衛の足元に茶碗が転がった。

「ああ、申し訳ありません。すぐに取り替えます」

女は茶碗を拾って店の奥に小走りで入っていった。

 

「うかつでした、バテレンと言う言葉がさわったようですね」

「なんと、そうであったか、しかし今の小倉にキリシタンはおらんだろうに」

「いや、いやわかりませんよ。忠興公の奥方が明智光秀様の娘ガラシャ夫人、小倉藩主として入部された当時の小倉は、住民七千たらずにキリシタンが二千人、この年だけで約四百人が洗礼を受けたと言います。ドン・ルイス・セルケイラ師が小倉を通過した時も厚遇されて、この年、もう一つ教会を建てたそうです」

先ほどの年老いた女がやってきた。お盆に茶碗と干菓子の皿がのっている。先ほどの粗相を詫びて、そそくさと戻っていった。

 女が店の奥へ去ったのを見とどけて連れの武士が言った。

「しかし、寛永九年(一六三二年)、細川氏に代わって小笠原氏が小倉にやってくると翌年の寛永十年には中浦ジュリアン神父が小倉城下で捕まり長崎送りになるな」

「そうです。中浦ジュリアンは長崎で穴吊りの拷問を受けますが改宗しないために殉教します。この拷問は深さ六尺程の穴に足を縛って逆さにされますが、耳に血抜き用の穴が開けられ、それで簡単に死ぬことはできません。棄教するか死ぬかです」

連れの武士は茶を一口飲んで、

「詳しいな。貴公はまだ生まれてもおらんだろうに・・・」

久兵衛は眼差しをふと上げて数をよんでいる。

「今年は承応元年(一六五二年)、私は二十二歳ですから、今より二十年ほど前の出来事ですね」

「これまでにも江戸幕府キリシタン禁教令は何度も出されておるが、長政公は一早くご領内のキリシタン弾圧に乗り出だされたな」

「はい、慶長十八年(一六一三年)のことですが、黒田を追いかけるように翌、慶長十九年に江戸幕府によるキリシタン追放令が発布されます」

「おかしなことだ、長政公もお父上の如水公もキリシタンであったのに・・・」

久兵衛は入れ替えてきた茶碗を手にして、

「そうです。如水公は慶長九年三月二十日(一六〇四年四月十九日)、京都伏見藩邸でお亡くなりですが、死の間際、ご自分の「神の小羊」の祈祷文とロザリオを持ってくるよう命じられ、それを胸の上にして、 ご自分のなきがらは博多の神父の所へ運ぶこと。御子息、長政公が領内の神父たちに好意を寄せるように、さらには、イエズス会に二千タエス(約三二〇石に相当)を与え、うち千タエスを長崎の管区長に、千タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てるように遺言されたそうです」

「わからんな、如水公が亡くなられて十年もせずに、なぜ長政公は心変わりされたのか、江戸幕府に先駆けてまで領内のキリシタンを弾圧されたのだろうな」

「そうですね、このあたりの成り行きは難しい、家康公、いや権現様はイングランド人のウイリアム・アダムスを二五〇石取りの旗本に取り立てたのは慶長十二年(一六〇七年)のことです。相模国逸見に所領も与え、朱印船貿易を許されています」

「わからんな、島原の乱がおきたのは寛永一四年十月(一六三七年十二月)だが、それより前に幕府の方針が変わった訳はなんだろうな」

先ほどの老女がやってきた。

 

久兵衛様は夕餉の支度は昨日と同じ時刻でよろしいでしょうか、お連れ様はいかがなさいますか」

「はい、私一人、きのうの時刻にお願いします」

「私は城内の賄いに間に合うように帰らねばなりません。ここの魚の煮つけは旨いと聞いておるので相伴したいのですが、なりません」

久兵衛は話をつづけた。

岡本大八事件というのがあります。慶長十七年(一六一二年)幕閣本多正純の与力でキリシタン岡本大八が、肥前キリシタン大名有馬晴信を偽って収賄し、大八は火刑、晴信も死罪に処された事件ですが江戸幕府の禁教政策のきっかけとなったとされています」

「いや、いや、そのような些細なことで、このような大転換はあるまい」

「私もそう思います。平戸オランダ商館は、慶長十四年(一六〇九年)にオランダとの正式に国交が開けた時に松浦隆信公によって平戸に設置されました。一時閉鎖された時期もありますが長崎に移転するまで、三十年間も活動しております」

「オランダ商館ができてからは、スペインもポルトガルも平戸には来ておらんな」

「はい、そうです。オランダの船にまじってイギリスの貿易船も軍艦も来ておりますが、ポルトガルもスペインも来ていないようです」

「平戸にオランダが来るまではポルトガルが来ておったのに・・・」

「そうです。ポルトガルはオランダが来るまでです。それまでの平戸には弘治元年(一五五五年)でもキリシタンは五百人を超えて、平戸松浦の当主、松浦隆信様もインドの管区長へ宛てた手紙に「予がキリシタンになるのも目前のこと」とまで言いっておるそうです。豊後からヴィレラ神父一行が平戸に到着するすると、十字架に向かう行列の前で四十人の銃手が並んで幾度か銃を撃ち、港ではポルトガル船が祝砲を発しと記録があります」

「しかし、慶長十八年に伴天連追放が将軍秀忠公から発令される」

「はい、キリシタンは国法によって禁止となる。それまで独自の判断でキリシタンを容認してきた諸大名は、これ以降は一斉に厳しい禁教となります」

 

久兵衛の足元で黒猫がニャーとないた。連れの武士が干菓子をつまんで投げた。鼻を近づけただけで、またニャーとないた。

「この茶屋の飼い猫かな」

「いや、ノラ猫が勝手に住み着いたようで、他にまだ二匹いますよ」

猫は連れの武士を見上げている。

「貴公は小倉に来て三日になるが忠真公にはお目通りできたのか」

「いえ、まだですが明日はようやく、近習の人たちとご一緒のところで祖述することになっております。」

「長老、重臣方への進講はどうだったのだ」

「はい、二日のあいだ朝から夕方まで、長崎と平戸で二年あまりの探査報告ですが、オランダ人から直々に見聞きしたことに関心がおありでした」

くだんの老女がやってきた。

「冷えてきましたよ。夕餉には間がありますが、座敷にお上がりください」

「そうですね、根岸殿、いかがされます」

「いや、貴公は明日が大事、身共は体ならしに、お城をひと回りして帰ろう」

天守の白壁が夕日に染まっていた。黒猫がニャーとないた。

平成三十一年三月