ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

むかし、イスラムでは地図は南が上だったらしい。

我々は、頭の中の基本図が北が上になっているようで、南が上だと変だ。

南を上にしたり、東を上にして地図を見てみた。
自分に、距離や位置での思い込みがあることがよく分かった。

前回、金曜日はエッセイ教室だった。
東シナ海の地図を逆さにしてみて、考えさせられた。


栄西と為朝と定秀                 中村克博


東の空が明るくなって、漁に出る小舟が数艘小さな帆を上げて沖に進んでいたが、それから一刻ほどして民家の集まる浜の方から手漕ぎの小舟がたくさん出てきた。
どの小船にも女が二人ずつ乗って艫で一人が櫓を漕いでいる。
そのうちの二艘が為朝の乗る聖福寺の船にも近づいてきた。
惟唯はとなりの若い僧にいった。
「物売りのようですね。何を積んでいるのでしょう」
「干物の魚か貝でしょうかね」
南宋の船には兵士がたくさん出てきましたね。物売りの小舟が取り巻いている」
もう一人の若い僧が朝日を右手にかざして、
「臨安からは早くても五日ほど、新鮮な野菜が欲しいでしょうね」
「いや、私なら冷たい清水が飲みたいですね」
「お二人は航海に出られることもあるのですか」
「はい、南宋には何度か交易の仕事でまいりました」 
二艘の小舟が目の前に近づいて、縄梯子が下げられた。
聖福寺の船からは役目の水夫が小舟に下りて行った。
「おお、野豆(のらまめ)を買うようですね。それに干し大根、焼アゴ
「おお、五島の手延べうどん、きょうは久しぶりにアゴ出汁のうどんが食べれそうだ」
 二人の若い僧は腹が減っているのか、うれしそうだ。
「それを私は壱岐で初めて食べました。博多にもありますか」
 先ほど船で朝餉の粥を食べたばかりだが惟唯も食べ物の話はうれしそうだ。
「博多にはまだ麺を細長く切ったものはありませんね。薄く延ばして平たい」
「私は宋の慶元でうどんを食べましたが、そのときは長く引き伸ばした麺で、肉や野菜を炒め、とろみをつけたウマ汁をかけてありました。」
 もう一人の若い僧が薀蓄をつけたして、
「饂飩と書いて(ウントン、コントン)などと言っておりました。西域のウイグル族が起源だと聞きました。あちらではラグマンと言うそうです」
「小舟に、葉っぱのついた木の枝がたくさんありますが、ビワの葉のようですね」
惟唯がたずねるように言った。
「ビワの葉には薬効があります。涅槃経にもそのことが書いてあります」
「ほう、そうですか・・・」
奈良時代光明皇后がつくられた「施薬院」では病気の人々に、びわの葉の療法が行われていたそうです。」
「ほう、そうですか、ややっ、ビワの実もたくさん買うようですぞ」

丁国安の船が宇久に着いたのは昼過ぎだった。
平の浦に次々に入ってきた五隻の宋船は西に向かって投錨した。
一艘の艀船(はしけぶね)が待っていた。
艀は、南宋の軍船に立ち寄って二人乗せ、たがえず丁国安の乗る宋船に向かい、為朝の聖福寺の船に着けた。
 為朝はみんなで甲板にそろって、それを待ちわびていたように迎えた。
丁国安が疲れた様子もなく日焼けした笑顔で縄梯子を上ってきた。
再会した為朝に抱き合わんばかりの挨拶をかわした。
そのあとから南宋の官服を着た二人の男が縄梯子に手をかけた。
丁国安は二人の宋人を、為朝は次郎と惟唯を、それぞれ引き合わせた。
この船の船長が聖福寺の二人の若い僧を丁国安に紹介した。
その様子を為朝の直属の武士たちが九人、惟唯の仲間たちが十一人、芦辺の水夫たちが十六人、それに、この船の兵士や水夫たちが整然と見ていた。
為朝たちは、そのまま船尾楼二階の船室に移った。

船尾楼二階の船室は窓も扉も開け広げられて風がよく通った。
四角い卓いっぱいに大きな絵地図が広げてあった。
地図は、ほぼ正方形で、地図の上方向に琉球が描かれ、北東に下がって奄美大島が続く、さらに下がって種子島と小さな鬼界ヶ島、すぐ下に薩摩があった。九州全体は北東の隅に描かれて、その西側に済州島、そのすぐ北に高麗の南はしが少しばかり描いてあった。
それらが東支那の海をはさんで対岸に南宋の首都、臨安府(杭州)、杭州湾をはさんで下に慶元府(寧波)があった。
「ほほう、みごとな海図ができましたな。このようなもの初めてです」
 丁国安が嬉しそうに言って、立ったままで見入った。
 若い聖福寺の僧の一人が椅子に座りながら口をひらいた。
聖福寺にある高麗や宋の地図と九州の地図との位置関係を考慮しました」
「博多と筑前が少しばかり大きすぎるようですね」
 もう一人の僧がこたえた。
「はは、私も作りながら、そのように思っていました」
琉球の地図は以前に臨安でイスラムの船から私が買い求めたものですね」
イスラムのは南が上ですね。島々の位置がおかしいのではありませんか」
「いや、だいたい、いいでしょう。琉球はもっと小さいかもしれませんね」
 そう言いながら丁国安は磁石盤を取り出して鬼界ヶ島のそばに置いた。
「それが指南盤ですか、はじめて見ました」と惟唯が声を出した。
「そうです。地盤とか、また水に浮かべるのは指南魚とかいいますね」
「この船にもありますよ。交易船にはみんなあります」と船長が言った。
 しばらくは海図を見ながら話がはずんでいた。為朝の近くにいた南宋の官服を着た一人が為朝に話しかけた。為朝には通じない。
言葉は通じなくても為朝はその意を解したようで、やおら椅子から立って腰の太刀緒に手をかけた。
「わしの太刀に興味がおありのようだ」
 みんなが為朝の方を向いた。
 為朝は英彦山の定秀が打った愛用の太刀を腰から外して南宋の官人にわたした。
 南宋の人は為朝の太刀を押し戴くように受け取った。
「太刀をあつかう作法も我らと同じようですね」と次郎が言った。
南宋は大量の刀を我が国から買い付け、基本的な取扱い方も伝えられます」
 博多で生まれ育った丁国安は日本を我が国と言うのも自然だった。
 南宋人は太刀の拵えの全体を見てから鍔や柄頭などを珍しそうに見ていた。
「どうぞ、刀身を出して、ご覧ください」為朝の言葉を丁国安が通訳した。
 宋人は為朝に黙礼して、太刀の刃を上にして切っ先まで抜くと鞘を卓の地図の上に静かに置いた。
 太刀を両手で構えて峰の通りを見ている。手元を引き寄せ、刀身を横にして、鍔元から徐々に目線をあげて食い入るように見ていた。
「軽い、反りが深く形がうつくしい、地肌の文様が不思議だ」
宋の言葉で言って、刀身に頭を下げて鞘にもどした。
為朝は愛刀を腰につけながら、
「貴官はどのような刀を使われるのか」と丸腰の宋人にたずねた。
「戦地では両刃の剣を下げますが、使うことはありません」と丁国安が通訳した。
「我が国から買い付ける大量の刀はどうされるのか」
「兵に支給しますが、とくに騎兵は反りのある彎刀(わんとう)を使います」
丁国安は大和の言葉になおした。そして、ほほえんで二人の若い僧を見ながら、
「日本では僧侶も太刀を身に着けますよ」と宋の言葉で話した。
「宋ではありえない。将軍で帯剣しない人もいる」と宋人がこたえた。
「我々も、いつもは刀を身に着けることはありません。このたびのお役目は戦でありますので、このように法衣の上から太刀を佩いております」と若い僧が宋の言葉で話した。

席が静まり、丁国安が評議の始まりを告げ、これからの航海計画について話し始めた。
部屋のすみに何度も目をやって、飲み水を探していた。
飲み物の用意はなかった。咳払いを二度した。
「明朝早く、博多の船三隻に宇久平家の武者が乗ります。鎮西奉行の武藤様もご承知です。それから、我々十一隻の船団は宇久を出て八代に向かいます。八代では平家の武者をお迎えして、私の船四隻に分乗していただきます」
丁国安は一呼吸入れて、まわりの様子をうかがい咳払いを二度して話を続けた。
「為朝様が乗られます聖福寺の船と私の乗る船には船倉いっぱいに菊池の米を積み込みます。ほかの船にも底荷としての米を積みます。手配はすでに聖福寺がしております」
「為朝様の御曹司はいかがいたしましたか」と惟唯が言った。
水俣からお乗りいただきます。薩摩平氏、阿多の忠景様の本拠地からすぐです」
「八代からではないのですか」
「八代でしたが、水俣に変更しました」
「風聞では肥後の国阿蘇郡の平忠景様のところと聞いておりましたが」
それを受けて聖福寺の僧の一人がこたえた。
「いや、薩摩平氏です。阿多一族は隼人の末裔で今も隠然たる勢力があります」
「島津氏とのかかわりはいかがですか」と次郎がたずねた。
「阿多一族が同調すれば薩摩は治まります」
 もう一人の僧が言葉をついだ。
「御曹司と阿多の武者は為朝様の船にお願いします」
 為朝はうなづいたが表情はうかがえなかった。
水俣では聖福寺の船に積んでいた米と宋銭が底荷は残して降ろされます」
水俣から坊津にむかいます。そこで谷山から来た島津の船に合流し、私の船の米と宋銭を島津の船に積み替えます。十一隻の船底に残った米と宋銭は、すべて琉球の王宮に運ばれます」
丁国安が話を締めくくった。
                                平成二六年七月四日