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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

「栄西と定秀と為朝」の続きを書いた。

今週、エッセイ教室はないが、続きを書いていたらA4で4ページになった。
来週のエッセイ教室までには、長くなりすぎるのでブログに載せた。
夕方、家内と一緒に映画を見たあと、娘と三人で食事をした。
栄西と定秀と為朝、どうかね。読みよる」
「うん、さらと読んだよ」
「どうかね」
「うん、何が言いたいのかわからんよ」
との、論評だった。 
そうだろう、と思った。


それで、続きだが、場面は英彦山の定秀のところへ移る。


 

 為朝と栄西が乗った小早船が八挺だての艫を合わせて静かに唐泊の港に入ろうとしていた同じ頃、定秀は英彦山の屋敷にいた。肩と腰に受けていた傷はほぼ治っていた。ただ右の肩は、保元の乱のときに崇徳上皇をお守りして白川北殿を退くとき受けた深い刀傷に、この度の矢傷が重なって少し動かしづらい。濡れ縁から、川辺の向こうの山に盛りを過ぎたシャクナゲの花がちらほらと見える。白いウツギの花が見える。よく見ればあちこちに小さな花が白くかたまって、こちらは今が盛のようだ。別棟の離れを見舞おうと定秀は庭に降りた。離れには一人の傷ついた武者が養生している。先日この屋敷を襲った者の頭目だった。あの折は二一人の刺客が送られてきたが七人が死亡し、九人が重傷を負い、五人が無傷で捕らえられた。定秀の方は四人が死亡し、四人が重傷を負った。大友能直には豊前・豊後の守護、さらに鎮西奉行として源頼朝から正式な沙汰はまだ出ていなかったが、能直の股肱である古庄重能が配下の軍勢と共に先行していた。豊後といえば宇佐神宮の荘園、緒方荘の荘官であった緒方惟栄(おがたこれよし)を思い出す。


少々長くなるが、ここらで事の成り行きを説明する必要がある。読む人には退屈かもしれないが、ここのところの事態の辻褄を納得すれば後の物語がすすめやすい。辛抱して読んでもらいたい。


 為朝は一三歳で尾張権守家遠を後見として豊後にやってくると、肥後の国阿蘇郡の平忠景の娘を嫁にし自らを鎮西追捕使と称して、三年のうちに九州の豪族、菊池氏や原田氏などを服従させた。その折に主戦力となる豊後の大神一族の先鋒として働いたのが緒方惟栄だった。
 久寿二年(一一五五年)、為朝は朝廷の再三の呼び出しに応じて二八騎のみを従えて京に上る。その中に豊前の豪族である紀の姓を名乗る定秀がいた。為朝と定秀たちは、そのまま保元の乱(一一五六年)に参戦する。為朝は武運つたなく敗れ捕らえられて伊豆の大島に流され、定秀は深手を負い奈良東大寺の千手院に隠れ出家するが、ここで千手院派の鍛刀技術を十年あまり習得した。その間に平治の乱(一一五九年)が起こり源氏は敗れ為朝の兄であり、また頼朝の父である源義朝は殺される。それからは平清盛の平家全盛の時期が二〇年ほど続くことになる。東大寺を退出した定秀は豊前の故郷に帰って僧定秀として刀を打ちながら隠棲していたが、英彦山に迎えられ三千坊の学頭を務めることになった。 
 そのころの緒方惟栄平清盛の嫡男、平重盛と主従関係を結んでいたが、時代は動き治承三年(一一七九年)に平重盛が四二歳の若さで病のため死去する。翌年の治承四年(一一八〇年)には源頼朝が挙兵し、さらに治承五年(養和元年一一八一年)には平清盛が死去した。平家の凋落は、後の世で語られる平曲の声明(しょうみょう)を聴くとおりであった。緒方惟栄は宗家の佐伯氏、臼杵氏、長野氏、大野氏、高田氏ら豊後の大神一族を従えて平家に反旗をひるがえす。
 旧恩への高慮を願う平家に対して「こはいかに。昔は昔今は今、その義ならば九州の内追い出し奉れ」と言い放ち、手始めに豊後の国の目代を追放する。寿永二年(一一八三年)、九州武士の松浦党や菊池氏、阿蘇氏などを広範囲に動員してに都落ちしてきた平家を太宰府から攻め落とし、さらに翌年の元暦元年の夏には平家方の宇佐神宮を八千騎をもって焼き討ちした。宝殿を破り、真宝を奪い、社殿に放火し神人を多く殺害した。
 元暦二年(一一八五年)の正月から二月にかけ源範頼(のりより)の平家追討軍が赤間関で窮地に立っていたところを兵船八二艘を出して支援し豊後芦屋浦に上陸させ橋頭堡の確保に貢献する。そして三月二四日にはついに壇ノ浦で平家一門は滅亡する。
 平家が滅んだ同じ年に元号が変わった文治元年の十月、なんと、朝廷から義経に頼朝追討の院宣がだされた。それに対し源頼朝は、時をおかずに義経の暗殺を土佐房昌俊に命じる。土佐房昌俊は八十余人の武士と共に義経を襲撃するが義経の反撃でこれは失敗する。翌十一月三日には御白河院源義経を九州の地頭、源行家を四国の地頭に任じて九州と四国の武士に従うように下文を賜った。即刻、院の下知に従う源義経源行家と共に緒方惟栄は京を退出して任地に向かったが十一月六日に、大物浦で暴風雨のため船が難破して住吉の浜に避難した。やむなく渡海を中止して、以来、鎌倉の追求を逃れて潜行することになる。 
 十一月九日には、これまたどういうことか頼朝にたいして、義経と行家を追補するように院の宣旨がだされた。下下には筋道が理解できないまつりごとではあるが、十一月二八日、北条時政が一千騎を率いて京に入ると鎌倉が求めていた守護、地頭の制度が朝廷から認められた。文治二年(一一八六年)五月、和泉の国に潜んでいた源行家が捕らえて淀の河原に引き出され首を落とされる。七月には惟栄も捕らえられるが、死一等を減ぜられ上野の国沼田の荘に流刑となる。しかし、何とも不思議なことに惟栄は沼田の荘を譲られて娘をめとり一子をもうける。
 文治四年(一一八八年)二月、源頼朝は奥州の藤原秀衡に庇護されていた源義経の殺害を命じる。翌年の四月三〇日、義経は衣川で襲われて自害する。源頼朝は七月に藤原泰衡の奥州に軍を進め、九月に奥州藤原氏は滅亡する。これでひとまず、頼朝の憂いははれ、朝廷はころをわきまえ事態の収束に動き始めたとおもわれる。建久元年(一一九〇年)十月、源頼朝は上洛した折に朝廷に緒方惟栄の赦免願いをだす。緒方惟栄は許されて豊後に帰る。建久三年(一一九二年)七月、源頼朝征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く。翌年の八月には弟の範頼を捕らえ殺害する。
定秀は自分より一回りも歳の数が少ない緒方惟栄の生き様の跡をおもうことがある。豊前、豊後の行く末を考えると鍛冶場にこもって、ひたすら刀を打ち続けるしか魂を休める手立てがなかった。豊後に大友が入ることはわかっていた。前衛として能直の重臣古庄重能が軍兵を引き連れて進駐した。大神一族はこれに激しく抵抗したが惟栄が条理を示し武を収めさせさせ大神一族は大友に宥和することになる。 
建久七年(一一九六年)大友能直が豊後守護となり鎮西奉行に任ぜられる。その年の十月一五日、豊後の佐伯で役目が終わったように緒方惟栄没す。享年五七歳。めまぐるしく変化する世の中をしたたかに生き抜いて一族を存続の流れに導いた武人だった。為朝や栄西とはほぼ同年配だった。この時点、つまり英彦山で定秀たちが襲撃をうけた後の今は、まだ緒方惟栄は死んではいなかったし、大友能直の官職の沙汰もでていなかった。

 
 事の成り行きを説明するに少々長くなった。ここのところの事態の辻褄を納得すれば後の物語がすすめやすい。話を英彦山の定秀の屋敷にもどそう。
   

 別棟の離れの部屋は天井も高くて南向きの障子は開かれていた。小さな玄関がついているが定秀は濡れ縁から上がった。武者は床に伏していたが気づいて体を起こそうとした。それをそばの女が支えるように手を添えた。
「起きなくてもよい。かなり回復したようだな」
「はい、おかげさまで、もう大丈夫です」
「いいえ、いいえ、まだですよ。あまり動くと奥の傷が開きます。思いを巡らすことも体を疲れさせます」
「なにか心配なことがあるのか、あれば口にするがいいぞ」
 先日の襲撃は、大神一族の臼杵、緒方、戸次(べつぎ)、阿南などの家の子郎党の中から選ばれた腕の立つ武者たちが行った。定秀屋敷の見取り図を頭に入れ、構造の似た緒方惟栄の家臣の家屋を使って周到な演習を重ねて手おちなく実行されたものだった。襲撃の目標は源八郎為朝ただ一人であった。あの日、栄西英彦山をおとづれて為朝と面談することは前々から大友の重臣古庄重能には知られていた。
「思いわずらうことはありません。ただ、使命もはたせず死にもせず、このような恩情をいただいておることが見っともなく・・・」
「主命に従うことは武門のならい。私情があってのことではない。そして、戦は時の運、負けることもある。命を惜しんではおるまい。恥じることではない」
英彦山の宿坊には、今も六名のお仲間が二箇所に分かれて傷の養生をしておられます。それを五人の無傷で元気なお仲間が世話をしています。お頭の戸次惟唯(べつきこれただ)さまが落ち着いておられる様子をみて、みなが安心しておれます」
 負傷者は頭の戸次惟唯を含めて九人だったが、そのうち二人は手当のしようがなく死亡していた。惟唯は襲撃の時に茶席の部屋に入ろうとして唐鐘の火鉢に頭を打ち付けた若武者だった。栄西の横にいた女は前差しで刺そうと構えたが、武者が気を失ったのでとどまった。のちの取り調べでこの若者は緒方惟栄が差し向けた大神一族の家の子で年少ではあるが賊の頭目であることがわかった。
「このたび、そのほうを采配した緒方惟栄殿は、元は我らと一緒に為朝様の麾下で九州を暴れまわったこともある。このたびの一件は表立てしないことが互のためだと脈絡をつけて通じてある」
「ことの成就にはかかわらず、沙汰があるまでは帰参せず修験者となって身を隠せと命じられておりますが、私は山の中を歩くのはいやです」
「惟唯さま、おもしろい。ならば、この屋敷にいつまでも居てください」
「為朝様の存在が大友の気がかりであれば、緒方惟栄殿のお立場も大友にとっては同じようなことではないのか」
「それは、どういうことですか、惟栄様はご自分のことは考えにないようです。大神一族の生きるすべを講じておられるだけのようです」
「そこよ。命を惜しまず、義も忠もない。ものの善悪など人の都合で決まると思うておるなら、大内にとって、やっかいであろう」
「鎌倉は・・・大内様は・・・、為朝様が九州の勢力をまとめることを危惧しておられ・・・、惟栄様は命に従い為朝様を襲わせたと思いますが・・・、その惟栄様が厄介とは・・・」
「惟唯さま、考えごとは傷にさわります。いまは、おやすみください」
 部屋のすみの風炉に大きめの鉄瓶がかけてあった。先程から湯気が勢いよく注ぎ口からでていた。南面した縁側は障子が大きく開けられ朝日が差して、北の少し開けられた窓障子に鉄瓶の湯けむりはなびいていた。女は薬缶から水をつぎたした。
「傷が治れば、その方たちを緒方惟栄殿のもとへ返そうと思っていたのだが、それは望まぬようだな。大友の古庄重能は事を大きくしたくないようだ」
「ならば、みんなで、ここに、英彦山においでになればよろしいのに」
 水をつぎたして、女は床のそばに戻った。床の上に正座している若者を屈託のない笑顔で見つめた。
「帰ることもならぬ。修験者となって山を歩くのは嫌となれば、その方も陸の上では、おり場所はないようだな」 
玄関の方で気配がして、しわがれた声が聞こえた。
「お体をお拭い(おぬぐい)しようとおもいまして・・・お話中ですか」
「いや、いま終わったところだ。もう帰る」
「そうですか、では、あがらせてもらいます」
障子が開けられて老婢が小ぶりな盥(たらい)をかかえてかがんでいた。玄関に板張りはない。上がり框と障子のあいだに板敷きが細長く張られている。老婢の後ろに水桶を持った若い武士がついている。身ぎれいで屈強そうだが丸腰である。部屋の中に向かってゆっくり頭を下げた。惟唯を見てさらに目礼をした。
 定秀は濡れ縁にでて庭に降りた。玄関の方から履物をはく音がして女が小走りで出てきた。西の空が少し曇ってきたようだ。
「お預かりしたままの前差し、持っていてもいいのですか」
「その合口で惟唯を刺そうとしたのであったな。あの時お前にやったものだ。使うことはなかろうが、板目の綺麗な平作りで、大切にするがいい」
「惟唯さまは、このまま当屋敷に住まうことはかないませぬか」
「それは本人が望まぬだろう。今度の襲撃でこちらにも死者や怪我人が多数出ておるが、それらには家族がいる。妻や子供たちもいる」
「・・・ならば、もうすこし傷が癒えるまではおいてください」
「それはかまわぬが、お前はもう子供ではない。武家の娘としてわきまえねばならぬこともあろう。あの者をみなと離しておるのは頭だからだ。達者な者の行き来は思いのままだが談合はできまい。頭が、あの者が動かねば、みなも動かぬ。大事がおきぬよう気を配って傍にいるのがお前のつとめだ」
 定秀は少し庭を歩いた。女がおくれてついてきた。母屋の裏を通り抜けて、過日襲撃を受けた茶会の離れにさしかかった。庭の土があちこち入れ替えられ、砂がまかれていた。警護の武士が二人、こちらに気づいて立ち止まってお辞儀をした。定秀はそれに応え、間をおいて女の名を呼んだ。
「沙羅、・・・博多の栄西様をたずねてみるか、まえから、宋の国の話を聞いてみたいと申しておったな。惟唯殿が元気になったら、あの者に送らせよう」
女は近くに寄って定秀の顔を、言葉のおくをはかるようにのぞいた。雨が降ってきた。東の空には朝日が輝いているが、山では珍しくない糠(ぬか)のような小雨がおりてきた。
「あら、きつねの嫁入りでございますね」
雨の中を歩く振り分け髪に雨の雫が光っていた。