ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の朝、今年初めてのエッセイ教室にでかけた。

目が覚めると雪が積もっていた。

20cmほど雪はつもっていた。途中、妻の花市場に立ち寄って出かけた。

日があがるにつれ青空が広がってきていた。峠を降りるにつれ雪は少なくなっていく。

「気楽にエッセイ」の教室から二人も、北九州文学賞の大賞受賞者がでていた。
先生は嬉しそうだった。教室にとって名誉なことだ。 エッセイ教室のあと新年会があった。


今日、提出した僕のエッセイはこんなだった。



         英彦山にお参りした           中村克博


 正月四日、英彦山に出かけた。英彦山は標高一二〇〇mで福岡県田川郡添田町大分県中津市山国町にまたがっている。北岳、中岳、南岳の三峯からなり古代から神が宿る神奈備の山として信仰されていたらしい。中岳山腹に英彦山神宮があり山頂には上宮がある。平成一七年からは参道起点の銅鳥居近くから参道終点の奉幣殿まで全長八四九mのスロープカーが設営され運行されている。八木山の自宅から一時間半ほどのドライブで、ときおり日差しがのぞく曇り空だった。石炭が産業エネルギーの主役だったころには賑わっていた田川の後藤寺の交差点を右折するとまもなく田園風景が広がった。走るほどに遠くの暗く沈んだような冬の山がしだいに近くなっていった。
神宮に至る山道の入口にチエーン規制の看板が立てられて道路を半分ふさいでいたが道路は乾いていたし、スタットレスタイヤを取り付けたばかりなので看板をやり過ごして上っていった。ときおり速度を落として下ってくる車とすれ違った。登山者の姿を見かけては追い越していった。道の曲がっているところや法面の急なところを通ると道路は白く光っていた。残雪が凍っているようだ。ブレーキの効き具合を確かめるためにペダルをゆっくり踏んでみた。何度か試してみた。そのつど車は難なく制御できた。スタートレスタイヤの効果は絶大だ。過信は禁物だ。参道近くの駐車場には車が一〇台ほど止まっていたと思う。駐車場の上にログハウス風の駐在所があった。このまま車で鳥居の下まで行こうか、それとも、ここに停めて歩こうかと思ったが、とりあえず駐在所の判断を聞くことにした。雪の階段を妻が用心深く上っていった。玄関のガラス扉を開いて中をうかがっていたが中に入ってガラス扉が閉まった。しばらくして笑顔で出てきた。駐在さんは留守で奥さんと話していたようだ。なるほど、時間がかかった様子が想像できた。話の結論は徒歩で山道の階段を登るのは無理だ。特に降りるのは危険ですらある。登山靴にアイゼンを付けていないと這って登るしかないようだ。
引き返してスロープカーを利用することにした。下り道の運転は用心した。日陰に黒く光って見えるところは道路が氷になっているようだ。左の窓越しに見える急な法面には大きなツララが何本も重なって氷の鍾乳石のようだ。美しいので車から出て写真に撮った。靴が滑って危うく尻餅を突くところだった。妻は「あれを撮って、これは美しい」と、はしゃいでいても車から出てこない。  
スロープカーの駐車場はたくさんの車が止まっていて空いている場所を探すほどだった。駅には土産物売り場や山伏の資料館があった。スロープカーは一本のレールをまたぐモノレールで展望のいい大きな窓で音もなく乗り心地が良かった。車内のアナウンスによれば英彦山山形県羽黒山奈良県熊野の大峰山とともに日本三大修験山とされるそうだ。下に山伏の房舎跡などを眺めながら遠くに深い山々を望んで一五分ほどで終点に着いた。修験道の盛んな頃には三千余りの僧坊、四九窟を擁して大名に匹敵する兵力を持って武芸の鍛錬にも力を入れていたらしい。天正九年(一五八一年)秋、大友義統の軍勢から攻められ一ヶ月あまりの戦闘の末に多くの坊舎は焼け落ちて死傷者は多く、以来それまでの勢力を失ったらしい。
奉幣殿に参拝した。「始めに鈴を鳴らすのですよ」と横の妻が言った。白く光る小雨が降っていた。ミゾレというには幼すぎる。コートに掛かると白い小さな粒はすぐに水玉に変わった。境内は人の姿が多くはないが、手を引かれた小さな子供やお年寄り、若いカップルなどさまざまだった。この境内で昨年の一一月に居合道の奉納をしたのを思い出す。あの時も小雨が降ってきた。個人演武のあと斬試をやった。巻きワラを二本切った。演武の所作をしながら一本の巻きワラを二度ずつ切るのだが、所作を大切なところで一箇所間違えた苦い思いがよみがえってきた。
英彦山平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて修験の僧たちが刀を打っていたらしい。名の残っている僧鍛治に僧定秀とか時代が下がって了戒などがいる。豊後には国宝や重要文化財にいくつもが指定されている行平の太刀が有名だが、僧定秀は、その初代刀匠の父親とも師匠ともいわれている。定秀、元々は豊後の豪族で紀太夫といい代々郡司を勤めていた一族だったらしい。源為朝が鎮西八郎と称して豊後にいた頃に保元の乱が起きた。定秀は為朝に従って上京して崇徳上皇にお味方したが敗れて奈良の東大寺にのがれ出家した。為朝は逃亡を続けたが病に罹り、ついに捕らえられて京に送られたが武勇を惜しまれて助命され伊豆大島に流刑となった。崇徳院仁和寺に出頭するが意を得ず鳥羽から船で讃岐の国へ配流された。東大寺に逃げ込んだ定秀はその子院である千手院に近い東の谷で千手院一派に鍛刀の伝法を習った。後に英彦山に迎えられて三千坊の学頭を務めながら千手院の技法を伝えたとされる。これを書いていて、調べてわかったことだが鎮西とは九州を鎮める事らしい。大宰府はむかし鎮西府といったらしい。自治体名は現存しないが飯塚市にはむかし鎮西村があった。今も八木山の麓、嘉穂郡鎮西村大字大日寺に鎮西村役場がある。近くには飯塚市鎮西中学校などがある。
境内を少し歩くと体が冷えてきた。茶店でぜんざいを食べたあと、社務所に行って刀のお払いができるかと尋ねた。窓口の若い神官が奥から上の神官をお連れしてきた。「お清めはできます」と笑顔でいわれた。昨年一一月に新影流が居合の奉納をしたことを覚えておられた。「事前にお電話ください。準備してお待ちします」と言われた。
 平成二五年一月一七日