ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

アイ&カルチャ天神の「気楽にエッセイ」の講座に出かけた。

第一と第三の土曜日、西日本新聞TNC文化サークルのエッセイ講座に行く。
今回は2度目の原稿を提出した。



 むつかしい話・・                       中村克博 23・8・19

 教えられて気付いたのだが、今年のお盆のお月さまは本当に明るい満月だった。眠っていて窓から差し込む月明かりで目が覚めたほどだった。お盆明けの今週金曜日は「気楽にエッセイ」の講座がある。提出する原稿はまだ出来ていない。その理由をお盆前後の忙しかった日々のせいにすることにした。それで今回も自分のブログに書いた以前の文章の中からおもしろそうなのを選んで参照、いやほとんど引用した。
本題に入る前に話を挟むが、僕がヨガを始めたのは5年ほど前だった。60歳になってまもなく脳梗塞になった。救急車で運ばれてひと月ほど入院していたが退院した時には平衡感覚が十分には回復していなかった。50mほども歩くのに難儀していた。車にも自転車にも乗れなかった。見かねた娘が僕を近くのヨガ道場に連れて行った。女性ばかりのヨガ道場でいやだったが3カ月も続けていると少しずつだが機能が回復していくのを自覚した。しばらくして週一回のレッスンを週三回に増やした。三年もすると平衡感覚も他の障害もほとんど元に戻っていた。今では脳梗塞になる以前よりも元気になっていると思う。ヨガによる自然な自己の回復力はありがたいと思う。という訳でヨガは今でも続けている。

 それでは話を戻そう。
 今年の春三月の終わり頃天気のいい日だった。ヨガの先生たちが八木山の自宅の庭にやってきて椎茸狩りをした。それぞれが袋いっぱいのキノコを採取したあと座敷に上がってもらってお茶にした。そこで、いろいろ話題が弾むうちにヤマ・ニヤマの話しになった。
 
  欄外になるがヨガで言うヤマ・ニヤマとは
   Yama(ヤマ)禁戒
   不殺生、他を害さない。
   真実性、誠実性。 
   盗みをしない。 
   禁欲。 
   物欲から遠ざかる。
   Niyama(ニヤマ) 勧戒
   体と心を清潔にする。
   満足、足るを知る。 
   苦行。 
   学ぶこと。 
   神聖なもの(神)への献身。

 
ヤマ・ニヤマ、なるほど同感ですと言うこともできる。幼児を教育する時の話ならそれでいいのかも知れない。しかし、大人が生きるうえでの定義とする場合には、よく考えれば簡単には聞き流せない言葉だと思う。
 ヤマ(禁戒)は、地球上の宇宙でのすべての人事について言っているのだろうが、自分の身の回りの人間関係に限ってもそう簡単なことでないことがわかる。たとえば、国家権力の警察や軍隊を支持する場合に、それはどんな意味になるのか・・  暴力や殺すことを肯定しているのではないのか??  いじめるな、これを当然な事だ、まったく卑劣な行為だ。というのは簡単だし、実際に僕も普段にそう思っている。が、ヨガに本気で取り組もうとしている社会人についての信条になりえるのか、と考えた場合にはどうだろうと思う。集団内部で、あるいは集団同士で、経済活動としての業界で、さらには国家間で、優位に立つ一方が競合相手に打撃を与える、物理的に経済的に心理的な肉体的な苦痛を与えることは、どの社会のどの時代にもみられる。 これは人類の普遍的な、さらに言えば人間特有の習性であるとは言えないのか?? 
 
 いつだったかテレビを見ていると中東の砂漠で生活するベドゥインの映像が流れていた。砂漠には何もない、水もない、羊しかいない。このとき思ったのだが、モーゼが十戒を授かったのは数千年前の大昔のこと、エジプトから紅海を渡って、大勢の避難民と一緒にシナイ半島をひたすら東へ、不毛の砂漠を何年も何十年も、ハニーミルクの土地は気が遠くなりそうに遠かったはずだ。
 数千年前の食うや食わずの難民の群れの多くは文字も読めないし、だいいち紙もない。学校や病院はあったのだろうか、定住しなければ畑は作れない、だから野菜も麦もない。人々は毎日を何とかして食いつなぎ子供を育てて生きていくことで精根尽きたことだろう。さすらう難民の群れは、互いに盗みあい、嘘をついたり約束破りも多かったのだろう。そのための諍いはあちこちでの殺し合いになったし、女性を一人にするとどうなったか。
 モーゼがシナイの山で授かったという十戒は、そのような場面を想像しなくてはいけない。そもそも標語とはみんなが守らないことを書いてある。あたり前なら標語にならない。十戒という戒律は、このような彼らが生活するための必須条件、部族の厳粛なオキテだったのだろう。

六、殺人をしてはいけないこと
七、姦淫をしてはいけないこと
八、盗んではいけないこと
九、偽証してはいけないこと
十、隣人の家をむさぼってはいけないこと

 十戒の後半だが当時の彼らの社会ではこんなことが日常あちこちで起きていた証しなのだ。それを現在の自分の社会に当てはめるから違和感がおきる。それで、なにか深い意味があるのだろうとムリな解釈につとめれば余計にちぐはぐになる。そのまま解釈すればいい。仲間を殺すな。他人の女を犯すな。盗むな、と・・  これを守らせるのに絶対の権威が必要だったのだろう。そのため十戒の前半には神のこと親のこと、それに休みがくるのだ。と思った。なるほど、これに反対する人は少ないだろう。そうだ当然だと肯定した後の頭は概ね受け入れやすくなっているもんだ。

一、主が唯一の神であること 
二、偶像を作ってはならないこと
三、神の名をいたずらに取り上げてはならないこと
四、安息日を守ること
五、父母を敬うこと

 これで、なんだか僕の積年の謎が解けた気がした。十戒は数千年前の野獣のような人間の群をまとめるに必要なぎりぎりのオキテだった。それを現代人が今の自分にあてはめては戸惑うのが当たり前だ。現代では当然すぎる基本倫理なのだが、それを人類が実行しない事実も知っている。誰もが望むことだが実際には現代でも誰にもどこの国にもできはしない。

 いろんな宗教が同じような意味の道徳に沿った生き方を戒律としているようだ。道徳的な規制によって自分の環境と協調した生活が送れるようにしている訳だが、これがホントに出来れば解脱した存在、究極の境地、涅槃の状態なのだろうか・・ それは一切の束縛からの離脱、すべての苦悩から解放、絶対の自由の境地に達すること、とされているようだが・・ しかし道徳や戒律で束縛して、どうして自由が得られるのか僕にはわからない。自由とは束縛の無い状態、あるがままの思い、行為ではないのかと・・・

 宗教の戒律はどれも似ている。それは、むしろ不自然でもあるのだが反論もできない。だから、数千年も宗教の戒律として生きているのだろう。ヨガの基本理念であるヤマ・ニヤマをこれと似ていると思ってしまう。「ヨガ八支則」という八段階ある行法の最も重要な最初の入り口ヤマ・ニヤマ・・ 精神が及ぼす考えや言動と体の症状とは関係が密接だと説いてあるのは分かるが、僕はヤマ・ニヤマをいまだに納得できていない。こんなことを言いたかったのに、この時にもやはり伝わらなかったようだ。また屁理屈を言い始めたとみんなを困らせたようだった。

生徒さん達の論評と先生の指導で、いい文章になった。いくつかの文章作法を新しく理解できた。