ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中はエッセイ教室だった。

先月は第五週目があったので、一週間しか余裕がなかった。

時間が無い方が分かりやすい文章になる気がする。

 

 

貝原益軒を書こう  11                中村克博

 

 

 根岸は翌朝、藩の定宿でさわやかに目覚めた。昨夜の出来事は何事も別段のことは無かったように朝餉を済ませて小笠原の藩士たちと一緒に関船に帰って来た。久兵衛と甲板の上で顔を合わせると部屋には戻らずに水主たちの作業を見ながら話をしている。小笠原の関船は薩摩の船を待たずに出航するよう準備をしている。風も航海にはほどよく東の低い朝日が仙水島の山陰から海を黒々と輝かせている。甲板から鞆の浦の街が鮮やかに見えている。

久兵衛は目を細めて、

「そんなことが、あったのですか。それで、助かった一人はどうしたのでしょうね」

「拙者が持ち合わせていた銀を巾着ごと渡したが、捕まればそのことから繋がりが露見しないかと危ぶんでおる」

「巾着の根付に特徴がありましたから、それは迂闊でしたね。路銀は足りるでしょうが、しかし、どこに、どうやって行くのやら」

「歩いて行くのだろう、おそらく大坂だろう」

「大変でしょうね。無事にたどり着けばいいが」

「急な船出になったが、薩摩の船は待たずに、受け取るはずの荷物はどうなるのだろうな」

「薩摩の船は福山藩の管轄の外に出ることが先決のようですね」

「しかし、荷物の受け渡しをしなければ、小笠原も薩摩も互いの役目が果たせぬだろうに」

「身どもが聞いたところでは、天領倉敷の南、丸亀藩の近くにある本島の湊にはいるようです」

「なるほど、その辺りは幾つもの藩境が入り組んで、おるでな」

 

西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて二八の島々は塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、「しあく」とも読む。戦国時代には塩飽水軍(しわくすいぐん)として名高い。徳川家康から安堵を受けた御用船方は人名と呼ばれ、人名株により世襲され、政務は人名の中から選ばれた四人の年寄が勤番で執る自治が行われていた。 

 

 いくつもの大小の島を右舷左舷に交わしながら順調な航海で、丸亀藩に近い本島に着いたのは日没前のまだ海は明るい頃だった。湊に何艘かの廻船が碇を下している中に、薩摩のジャンク船はひと回りも大きく姿も異形で、すぐに目についた。前日から待っていたようだ。夕餉の用意か、釜戸を焚く煙が船からなびいていた。近くを通り過ぎると関船よりもはるかに大きい船であることが分かった。ジャンク船の上から大勢の琉球人か薩摩人かが関船を珍しげに見下ろしている。

 小笠原の関船が停泊すると、薩摩のジャンク船から艀が差し向けられて武士が五人乗船して来た。小笠原の武士たちが慇懃な作法があるよに出迎えて甲板下に案内した。根岸は五人の薩摩武士の顔を注意して見ているようだった。

 久兵衛につぶやくように言った。

「昨夜、手合わせした武士はいなかったようだ」

 久兵衛は当然だろうと、あの船には乗っていまいと思ったが、

「そうですか」と言った。

 

 間もなくもう一隻の艀がいくつもの甕を届けて来た。薩摩と琉球の酒のほかにも南国の果物を挨拶土産にとの説明があった。黒砂糖やほかの交易品の積み込みは明日の朝からになるようだ。

 

 根岸が昨夜を思いだすように、

「薩摩の示現流は切り込むときに発する裂帛の気合いは猿叫(えんきょう)とか、鶏の絞められる声などに例えられる独特の気合いだが、昨夜の薩摩の武士は無言であった」

 久兵衛は思い当たるように、

「それは、事件を他に悟られぬよう気づかったのでしょうか」

「そうだと思う、気合を止めて力は出ぬ。それに、奄美の若者が咄嗟に前に出たのも気を削がれたのだろう」

 久兵衛は話を合わせるのが務めと、

示現流は、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴であると聞いております」

「もう一度、いや、またして、あのような使い手とま見える場合どうすべきか修練せねば危ういな」

「薩摩者と勝負する時には初太刀を外せと言うのではありませんか」

 根岸は嘆息するように、

「それは誤解である。示現流にはいくつもの連続技がある。風聞通り初太刀に特化した薬丸自顕流なども、野太刀と疾走による打ち込みは凄まじく、初太刀を受けること自体が相当の手練がいる」

 久兵衛はそれ以上この話にかかわれなかった。

令和元年九月十二日