ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

橙色の赤い花が沢山咲いている。

朝起きて、ふと見ると、明るいオレンジ色の花が咲いていた。

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花材にいいだろうと、たくさん切ってきた。

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夕方、エッセイ教室から帰って来て見ると一段と開いて夕日でもうつくしい。

 

エッセイ教室に提出した貝原益軒の原稿は根岸なにがし、が登場して流れが変わった。

 

 

貝原益軒を書こう 七                  中村克博

 

 

 小雨が降って少し寒かった。久兵衛と根岸が便乗する小笠原藩の関船が備後福山藩の鞆ノ浦に入港しようとしていた。日没にはまだ間があったが空と海の色が同じ灰色で暗く、遠くに離れていく因島と弓削島がひとつの大きな影に見える。小倉を出て十日余り過ぎていた。上関、御手洗の湊に立ち寄ったが風向きが悪かったり、風が変わっても潮の流れが逆だったりで予定よりも船路はかなり遅れていた。

二人は大きな帆の前に立っていた。ここなら風下で雨も風も防げる。風が強くなって船足が早い。先ほどから左舷近くに島が見えている。若葉の緑をもくもくと重ねた森の木々が後方に流れていくのが心地いい。

久兵衛は首に手拭いを巻いて寒さをしのいでいた。根岸は手拭いを大小の柄に被せて雨滴を避けている。根岸が腕組みをして前方を見ながら、

「備後福山藩の初代藩主は水野勝成公だな」

 久兵衛は首の手ぬぐいの先を襟元に押し込みながら、

「そうですね、今は二代目の水野勝俊公で質実な倹約家で信任あつい名君です」

左舷の島が通り過ぎると間もなく港が見えてきた。

「立派な民家が大層見える。これは博多や赤間関よりも立派かも知れぬな」

「それはないでしょう。人家は千余戸ほどと聞いております。博多は一万戸以上はありますよ」

 水主が帆を降ろす準備を始め両舷から沢山の櫓が出されると帆が下された。雨が体にあたって濡れるので二人は甲板の中に入った。船内は多くの人が狭間から外の様子を見ていた。

鞆の浦には福山藩公認の遊女屋が四軒ほどあるそうだ。中でも奈良屋には遊女が五十人も居って、評判がいい」

「そうですか」

「小倉のお城で、剣術の稽古が終わってみんなで飯を食いながら、いろいろ教わっておったよ。公務で江戸や大坂に行く折に鞆の浦には必ず立ち寄るらしい。馴染みの女ができた者もおるようだ」

「そうですか」

久兵衛は近くにいる小倉藩の武士が気になっていた。狭間から外の景色を見ながら話をしている二人の壮年の武士の話し声が聞こえる。

 根岸は回りを気づかう様子はなく、

鞆の浦がこのように栄えておるのは、いい遊女が大勢おるからだな」

久兵衛は話の受け答えに戸惑って、

鞆の浦は瀬戸内の東西、真ん中に位置して、潮の満干で潮流の逆転現象が起こります。つまり三刻おきに潮目が変る。潮待をする必要があります。それに鞆の浦は、沼隈半島の南東に位置して東には仙酔島があり大風を防ぎます。このことが古代から鞆の浦を繁栄させた理由です。瀬戸内の潮と潮が東西から出会う場所。たったそれだけのことが長い歴史の中で鞆の浦に重要な役割を担わせてきました」

「そうか、土地の位置が大切な要素になるのだな。東西の潮と潮が出会う場所か、女と男が出会う場所でもあるな」

室町幕府は、ここ鞆の浦足利尊氏公が天皇からの院宣を受け取ったことから始まります。そしてそれから二百年あと、織田信長公に京を追われた最後の将軍義昭公は、毛利氏の加護で鞆の浦に幕府を開きますが結局滅んでしまいます。そのため、足利は鞆に興り鞆に滅ぶ、といわれています」

 根岸は久兵衛の話を聞いていないようで、

「そう言えば、長崎にも有名な遊郭があったな。お主は長崎での暮らしは長かったのだし、さぞ馴染みの女を思いだすことがあるだろうな」

「いえ、そのようなこと・・・、長崎には遊女は丸山・寄合町あわせて千人以上おると言われます。文禄のはじめ、博多の恵美須屋が長崎に古町遊里を開いたのが起源で、その後、古町から丸山にうつります」

「ほう、博多の女をな、そうなのか」

寛永年間に市中に散在する私娼を丸山の隣、寄合町に集め公許されます。丸山遊廓は我国で唯一の外国人を遊客にした特色をもちます」

「お主も、そこで、ほとばしる行いをしたのだな」

「根岸様、どうもおかしいですよ。何をもやもやしておられます」

「お主は、もやもやすることはないのか、丸山での馴染みの女の名を白状せい」

「京の遊女に長崎の衣裳を着せ、江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋に遊びたし、という話があります。紐解くと、女の器量は京、意気がいいのは江戸、青楼は大坂、そして衣裳の素晴らしさは長崎と言う事になります」

「ほう、土地土地でとな、特徴があるのだな、器量よしは京なのか・・・」

「それから鞆の浦では、太閤様ゆかりの能舞台が毎年もよおされます。江戸や京都や大阪そして城下町でしか演じられない能を見る機会があります。呼ばれる役者の顔ぶれは、一流役者が流派を問わず集められます。これは、天下の大商人がひしめく鞆の浦だからこそできます」

「そうか、国中の文物が東西で行き交う拠点なのだな。長崎に上がる南蛮の物資もここを通って大坂や京や江戸に運ばれるのか、高級な遊女が集まるはずだ。久兵衛、上陸したら、さっそく出かけるぞ、楽しみになってきたな」

近くにいる小倉の武士たちは二人の話をおもしろそうに聞いている。久兵衛はきょろきょろとまわりを見て、

「わ、私は船を下りることは許されておりません。根岸様お一人でどうぞ」と小さく言った。

 根岸は一瞬、空中を見て考えるふうであったが、思いついたように、

「御手洗の湊に船泊した折のこと覚えておろう。宵闇の海にカンテラを灯して漕ぎよって来ておった、おちょろ舟、を覚えておろう。沖合の船に詰めている船員たちのところへ屋形船に四人ほども遊女が乗っておった。鞆の浦にもおるはずだ」

「私は結構です」と久兵衛は素早く言った。

令和元年七月四日