ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

根岸が暗殺をはたらく理由が明らかになる。

庭にシャガの花が咲いている。お茶の稽古につかった。

f:id:glucklich:20210403233504j:plain f:id:glucklich:20210403233518j:plain

昼間は初夏のように暑かった。街中は27度もあったそうだ。

f:id:glucklich:20210403233530j:plain f:id:glucklich:20210403233542j:plain

お茶の稽古、従兄弟は桑小卓(くわこじょく)の棚点前をしていた。

茶の湯の温度は、かすかに湯気が立ち松風が聞こえるような、釜の鳴る音がいいようで・・・

 

先週のエッセイ教室では、みんなの論評は手厳しい指摘が多かった。

あの時代に、ユダヤの話しが 、このようにできるのだろうか、、

暗殺の理由が説明できていない、とか、歴史的に根拠が明確なのか、と言うような、、

暗殺の部屋が八畳で、そこに六人もの人がいて剣戟ができるのだろうか、、

手裏剣を左手で、左前の襟元から、どのようにして取り出すのか、、

それで、八畳を十畳に変え、ほかに説明を詳しくした。一ページ増えて三ページになった。

どうにか、根岸が暗殺をはたらく理由が明らかになった。と思うのだが・・・

 

貝原益軒を書こう 三十六             中村克博

 久兵衛と根岸は玉林院の茶室にいた。龍光院で根岸が公家と黒田の武士を暗殺してから、まだ一刻ほどしか過ぎていなかった。息のある公家に止めを刺し、棒手裏剣を回収した。それからすぐに老僧にしたがい隣接する玉林院の裏庭を通って本堂から離れた茶室に通された。

玉林院は龍光院の北側に隣接する大徳寺塔頭で、互いの本堂は二十間ほどしか離れていない。通された茶室は八畳で、炉にかかる茶釜から湯の沸く静かな音がしていた。室内は明るかった。床には書がかかり花もいけてあったが、久兵衛は先ほどの惨劇から心が抜けだせずにいた。

 根岸が床の掛け軸を見ながら、

「何と書いてあるのだろうな」ボソッと言った。

 久兵衛は意識をとりもどすように、

「はっ、な、なんと・・・」と言って、床の書を見た。

「柳緑花紅、柳はみどり、花はくれない・・・ どんな意味でしょうね」

鳥の鳴き声がギッ、ギッ、ギッと聞こえた。

久兵衛が鳥の声に耳を傾けるように、

「静かですね。何事もなかったように・・・」と言った。

 

 茶道口の襖が開いて老僧がお辞儀をして入ってきた。穏やかな笑顔だった。手に白足袋を二組持っていた。

「履物が無くて、庭を歩いて、汚れておりましょう。これをお使いください」

 若い僧侶が蒸した手拭いを二人に手渡して、汚れた足袋を引き取っていった。新しい足袋に履きかえて、久兵衛は湯気の立つ手拭いで顔をおおった。いい気持で気がゆるむようだった。根岸は部屋にはいる前に、蹲(つくばい)は使わず、用意してあった湯桶の湯で丹念に返り血を洗っていたが、白い蒸し手ぬぐいは薄く血の色が染まっていた。

 老僧がその様子を見ながら、

「おつとめ、大変でしたね。この場で、ねぎらいの言葉が見当たりません」

「お心遣いありがとうございます」と根岸がこたえた。

「心労をおかけして、申しわけございません」と久兵衛が言った。

襖が開いて、少し大ぶりの茶碗に薄茶がはこばれた。老僧のすすめで、久兵衛が茶碗を取り込んで、「いただきます」と両手をついてお辞儀をした。根岸もそれにならって茶を飲んだ。

老僧はみずからも茶を飲んで、

「うすく、たっぷりと立てております。ゆっくり、めしあがりください」と言った。

 久兵衛が茶碗を両手でかかえたままで、

「主命とはいえ、私には、なにが、どうなっておるのやら、わかりません」

 老僧は茶碗を抱えた両手を膝にのせて、

「そうでしょうな、黒田家としても、非常にむつかしい時世の代わりようでしょうね」

「そのようですが、なぜ、このようなことを・・・」と、久兵衛がたずねた。

 老僧は根岸を見て、

「先ほど、お亡くなりになった黒田のお侍は黒田支藩、秋月の重臣ですね」

 根岸が、しかりと、うなずいた。老僧はつづけて、

黒田長政公は、叔父の黒田直之様を秋月に配備されましたが、その直之様は熱烈なキリシタンで名をミゲル惣右衛門と称されます。それから二年ほどのある日、明石掃部守重・ジョアンという武士が直之様をたよって秋月にやってきます。三百人のキリシタン武士がいっしょでした。この御仁、神出鬼没、またの名を明石全登ともいい、関ヶ原で、大坂の陣で、家康公を悩ませた有名な猛将です」

 久兵衛が口をはさんで、

「その明石掃部様と、こたびの主命とはどんな、かかわりがあるのでしょうか」

 老僧は、うなずいて、

「話は長くなりますが、まぁ、お聞きください」とつづけた。

明石掃部様は宇喜多秀家公の姉君を妻として五人のお子にめぐまれ、家臣中最大の領地を有した武将です。黒田如水公の母が明石一族の出でもありますな。それで、黒田家とは親族になります。キリシタン二十六人を長崎まで護送したのも明石全登様のお役目でしたな。関ヶ原の戦では西軍に属し、本戦では宇喜多勢の先鋒として奮戦しますが、小早川秀秋の寝返りで西軍が破れ、宇喜多家が滅亡すると、黒田家にむかえられ黒田直之様の領地筑前秋月に隠れました。ところが大坂の陣がおきると、元和元年(一六一五)豊臣秀頼公の招きに応じて五人の御子息とキリシタン部隊を率いて豊臣方に味方し、家康公を大いに悩ませます。大阪城が燃え落ちると、行方も生死もさだかではありません。長男は宣教師でした。四男はヨセフといい大坂城で戦死、次男の内記パウロは城を脱出し、一時広島に身をひそめたようです。先ほど根岸殿の手にかかって亡くなったのはその御子息のお一人です。由比正雪の乱とのかかわりを疑われておりました」

 話を聞いていた根岸は、目をつむって、ただ瞑目していた。

 久兵衛が老僧の話をたしかめるように、

明石掃部様はキリシタン二十六人を長崎まで護送したのですか、豊臣秀吉公のバテレン追放令はイエズス会の宣教は厳重に取り締まっても信仰そのものは、それほどきびしくはなかったのですね。この時代、キリシタンが黙認されていましたね。ところが島原の乱がおきます」

島原の乱以降は信仰も厳しく禁じます。それにくわえ、昨年の由比正雪の事件でも、キリシタンと不逞浪人など、御政道への不満分子が複雑に結びあっております。これに懲りたと言いますか、これが機会になったのか、江戸幕府キリシタン禁教をさらに徹底しようとしています。イエズス会より、さらに昔のむかし、奈良時代景教が伝わっており、それとのかかわりまでもが案じられ・・・」

 久兵衛が思い当たったように、

「えっ、私の先祖は備前吉備津神社の神官で祖父の代より黒田氏に仕えておりますが、吉備津彦神社は秦氏に由来します。秦氏景教とだといわれます。奈良時代のころです。私が長崎でオランダの医師から教わった話では、近年になって日本に来たのはスペインのサンフランシスコ・ザビエルで、ローマ・カトリックイエズス会です。キリスト教ユダヤの地から西に広まったのがローマのカトリック、東に伝わったのが景教ですね」

 老僧がうなずいて、

「日本には八百万の神様がおわします。古代から、いろんな人が、いろんな神様とやってきた。神道はそれらを迎え入れ融合しています」

 久兵衛が恐る恐るたずねた。

聖徳太子様は実は、仏教でなく景教の教えをお持ちだったのでは・・・」

 老僧は少し考えて、首をかしげながら、

「たしかに、名を厩戸皇子と言われますし、斑鳩宮の遺跡や太子道の方位など、不思議なものがありますな。秦氏始皇帝の末裔といわれ弓月君の直系子孫にあたる。秦河勝秦氏の族長で、聖徳太子の信頼をえて活躍しました」

 久兵衛は、さらに話をつっこんで、

秦氏がやって来るもっと昔・・・ 古代のユダヤの人たちが日本にやってきて伝えた古代のユダヤ教が、神道にはとけ込んでいるとおもいます」

 老僧はふかくうなずいて、

「そうです、古代ユダヤ教景教とはちがいます。秦氏が来る奈良時代より、もっとまえ、キリストが生まれるもっと昔の古代ユダヤ教は、秦氏の伝えた景教とは違います。神道には古代ユダヤの習慣や生活様式に似たものが、たくさんあります」

 それまで、話を聞いていた根岸が口を開いた。

「いろんな人がいろんな信仰を持つのは勝手ですが、それが武力で御政道に刃向かっては世がみだれます」

 老僧がうなずくように頭を上下して、

「そうですな。景教も古代ユダヤ教神道にとけこんだが、イエズス会キリスト教は長崎をマカオのようにしておった。要塞を造り神学校や病院を建てて信者を増やして勢力をのばし、日本を武力で支配しようとしておった」

 久兵衛が話をつなぐように、

「武力では日本にかなわないとポルトガルもスペインも退散しますが、彼らの残した残映がよからぬ不穏分子と結びついて島原の乱などの反乱を試みるからこまったものです」

「そうです。それで、こたびのキリシタン禁教は徹底したものになりますな。徳川幕府も三代続き、これまでの御政道を武断から文治にかえようとするとき、災いの種になるイエズス会キリスト教を根絶やしにします。そのために景教の痕跡も古代ユダヤの面影も根絶しなければなりません」

「えっ、とけこんでいる良いものまで、ですか」

 老僧が思いついたように、

「根岸殿にお尋ねしようと思っておったのですが、先刻の剣戟でお使いの手裏剣は左手で襟元から眼にとまらぬ速さで繰り出しましたが、どのようにして・・・」

 根岸は、しばし、たじらうようだったが、左手で上衿をめくって見せた。右襟の上に縫い付けられた、袋に入った棒手裏剣の端が一寸ほど見えた」

                            令和三年四月一日