ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日、午後からエッセイ教室の食事会

エッセイ教室の食事会には十三名ほど参加した。
会員の生徒さんが多くなって教室は満員状態だ。
夕方から居合の稽古に行った。道着が汗で重くなっていた。


「メリーさんの羊」                  中村克博


パソコンを開いてワードの画面をボ〜っと眺めていた。エッセイ教室に提出する原稿の書き出しを考えていたら小学校から朝の放送が聞こえてきた。コーヒーカップに手を伸ばしたらまだ熱くて飲めそうにない。半分開けた窓から涼しい風が入ってきたが空は曇ひとつない。今日も暑くなりそうだ。近くの小学校から「メリーさんの羊」が英語の歌詞で聞こえてくる。この時間になると小学校から聞こえてくるのは決まってこの曲だ。生徒が登校する時間なのだろう。
この曲は昔からときおり耳にする。ほのぼのとしたいい曲だが毎朝毎朝きまって聞かされると熱苦しさを感じる。さらに曲が終わるとマイクで「グッドモーニング、何たらかんたら」と言いはじめる。アメリカの民謡に続いて朝の挨拶をたどたどしい英語で聞かされては、これが毎日では、いかにボ〜っとした頭でも考えてしまう。

ネットで「メリーさんの羊」を検索してみた。どうも実際の出来事から生まれたアメリカの童謡らしい。

Mary Had a Little Lamb
メリーさんの羊
一八一六年春のとある朝、メリーと父親が羊小屋の様子を見に行くと、生まれたばかりの二匹の子羊がそこにいた。ところが、片方の子羊は元気がなく親羊が放置して動かなかった。そこでメリーは父のゆるしを得て、そのかわいそうな子羊を自分が育てることにした。メリーがかわいがって育てた子羊は、やがて元気になってメリーの後を付いて歩くほどになったある日、物語はここからはじまる。
ある日、メリーと弟のナサニエルが学校に登校すると、なんと後ろから子羊がついて来ていた。メリーは困ったが、いたずらっ子の弟ナサニエルはおもしろがって、そのまま教室内に子羊を連れていくように提案する。メリーは子羊を机の下に隠してショールを掛けていたが、メリーが先生に呼ばれ、教室の前方に行くと子羊がついてきてしまった。メリーは恥ずかしさでうつむいていたが、教室内の全員が爆笑して大騒ぎになった。
翌日になって、教室で喜んだ一人のジョン・ルールストンという学生が、その様子を手紙にしてメリーに渡したらしい。この手紙が原型となって、小説家のサラ・ジョセファ・ヘイルという人がそれを詩にまとめ「メリーさんの羊」ができあがった。時としてイタズラは世界中に知られてしまうこともある。というおはなし。 
 
歌詞・日本語訳(意訳)

1 Mary had a little lamb
   Little lamb, little lamb,
   Mary had a little lamb
Its fleece was white as snow,

子羊飼ってたメリーちゃん
ちっちゃな羊 ちっちゃな羊
子羊飼ってたメリーちゃん
雪のように白い子羊を

2 Ev'rywhere that Mary went,
  Mary went, Mary went,
  Ev'rywhere that Mary went,
  The Lamb was sure to go.

メリーちゃんが行くところ
あっちへと こっちへと
メリーちゃんが行くところ
子羊は後を離れない

ユーモラスな歌詞が西部開拓の牧歌的郷愁をさそう。しかし何も日本の小学校でアメリカの童謡と英語の挨拶が登校生を迎えることはないだろう。選曲や朝の放送の内容は誰が考えているだろうかと先生を想像する。何人かの先生とは下校時、車の窓ごしに挨拶したことがある。校長先生が転校で代わると挨拶にお見えになる。先生たちは僕から見るとみんな若くて感じがいい。年代は三十過ぎから六十まではいかないようで女性が多い。一九六〇年代から一九八〇年代ころ生まれた人たちだろう。この時代は一九九一年にソビエト連邦が崩壊してアメリカの単独覇権が確立した。自由貿易圏の拡大で文化や民俗、イデオロギーや国境にとらわれないグローバリゼーションという言葉が一般の家庭にまでひろまった世代だ。
グローバル企業が地球上のどこの国とでも自由に貿易ができるように、経済・政治・社会などの体制をアメリカ型に変えることを意味している。この世代はそのような時代を経験したことと関係があるのだろうか、いや文部省の小学校学習指導要領に関係があるのだろうか、いや、今はグローバル化の反動でナショナリズム国家主義国粋主義が台頭しそうな勢いがある。案外に小学校で「メリーさんの羊」をながして「グッドモーニング」と挨拶させるのは私などの反感をかもして自国文化の重要さを喚起するため逆説的な民族意識の高揚を狙っているのかもしれない。その先に教育勅語のゴールがあると思うのは考え過ぎだろう。この暑さのせいだ。
平成三十年七月十九日