ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

台風がやってくる。

台風18号屋久島の西約250kmを東北東に移動中

夏も終わって、大風が吹けば、蒲の穂も黄色い花も飛んでしまうだろう。
八木山の稲はすべて刈り取りがすんでいるが、リンゴへの被害が心配だ。
今年は雨が少なくてリンゴの実は小ぶりだが甘味は増していて、すこぶる美味だ。


昨日はエッセイ教室だった。
提出した原稿は、先日の福岡市民劇場の話だった。


紙屋町さくらホテル               中村克博


 福岡市民劇場の今月の演目は、こまつ座の「紙屋町さくらホテル」だった。この日は、一週間続く公演の最終日で、いつもより一時間早い十二時半の開演だった。八木山の自宅を早めに出かけ、お昼を会場の「ももちパレス」のレストランでとることにした。
妻がメニューを見ながら
「なにを食べますか」と問うので、
「スパゲッティ」といったらパスタを注文していた。
最近はスパゲティとは言わないようだ。パスタと言うらしい。学生のころ、スパゲティといえば茹で麺をケチャップでからめたトマト色のものだった。そこに、せいぜいハムかソーセージの薄切りとタマネギが入っていた。それが、いつしかパスタと言うようになって、それの種類がやたらと多い。
「どれにしますか」と種類を問われても困る。
「白いのを…」と言った。
 いつもは「赤いの」とか、せいぜい「ナポリタン」とか言うのだが今日は白いのをたのんだ。妻は「もう、」と言う表情をして、ホワイトソースの中から何かを選んで決めてくれた。
子供のころは、食べ物を何が食べたいとか、ましてマズいとか、おいしいとかも、表現しないような教育を父からされたような記憶がある。出されたものを押しいただくように米粒一つ残さないように食べる。それも速く食べる。それでも、母は僕が「おいしい」と言えば喜んでくれたし、ときには「なにが食べたいね」と聞いていたような思い出もあるのだが…

 緞帳が上がると小さな机を挟んで長谷川清、元海軍大将とGHQに所属する日本人の取り調べ官が対話している。昭和二十年十二月の東京巣鴨プリズンの一室との設定だ。長谷川清が「自分はA級戦犯だ」と自首してくる場面なのだが、この状況は原作者の井上ひさしの創作だろう。

Webで調べると、長谷川清は実在の人で終戦時は海軍大将。昭和二十年二月、軍事参議官の長谷川は海軍特命戦力査閲使に任命され、火薬廠・鎮守府・水中水上特攻関係を査察した。六月十二日に海軍の戦備について士気は高いが物資不足で不備であることを天皇陛下に奏上した。昭和二十一年十一月二十一日、GHQによるA級戦犯容疑で約二ヶ月間、巣鴨刑務所に収監された、とあった。

この演劇では広島で慰問活動をしている「さくら隊」に新劇の飛び入り役者として参加する長谷川清が登場する。実際にはそんなことはあり得ないのだが、広島原爆の被爆によって「桜隊」が九人の演劇隊員の生命を奪われたのは事実らしい。
舞台の上で「自分はA級戦犯だ」と長谷川清に言わしている井上ひさし天皇の戦争責任にも長谷川清の台詞でふれている。しかし、創作と分かっていても、こんな台詞をサラリと挟んでいいのだろうかと暗然となった。

福岡市民劇場会報、潤・S21に、演劇スタッフ井上麻矢の「前口上」と題する一文が載っている。

井上ひさしが本格的な演劇に取り組むようになったのには多くの人の影響があります。そのお一人が本田延三郎氏。演劇プロデューサーとして、井上演劇の誕生に一番功績が大きい人です。
(途中省く)
北海道・函館の出身の本田さんはバリバリの左翼。戦前からプロレタリア活動に参加し、小林多喜二とは獄中で知り合ったそうです。何度か公安や特高に捕まり、三年という長い年月を獄中で送っていた筋金入りの共産党員です。若かりし日、井上ひさしはこの本田さんからそういった実体験を聞いていて、それは作品の骨子を創るのに大きく影響を与えたと私は思っています。
(途中省く)
戦中・戦後の責任に対する思いが「紙屋町さくらホテル」には色濃く出ているようです。

長谷川清をWebで調べると、海軍特命戦力査閲使を仰せつけられた長谷川大将は、海軍の戦力を物心両面から調査、検閲して六月十二日、陛下に奏上した、とある。
要旨は次のようであったらしい。
「各地、各部隊を査閲した結果、士気は上がっているが、資材は不十分。施設は不完全で製品は故障が続出している。特攻兵器は幼稚で、特攻隊員の訓練ははなはだ不足。軍令部の計画は紙上プランにすぎない。空襲のため作業力、輸送力はますます低下している」。
アメリカの戦時工業力と比べて、日本の貧弱な工業力はいかんともしがたい段階に来ている」とも奏上した。
昭和天皇は「そうだろう。私にもよくわかる」と言って、沈痛な表情を浮かべておられたどうだ。
ところが、この長谷川海軍大将の奏上の前に、すでに六月八日には、御前会議が開かれ「徹底抗戦、最後の一兵まで」と国策が決定されていたらしい。
しかし、これをきっかけに、昭和天皇のお気持ちは和平へと傾いていったと言われている。そうであれば長谷川大将は、日本を終戦に持ち込む契機をつくったとも言えるのではないだろうか。そして、アメリカの占領が終わって戦後の復興が成った昭和四十年頃、長谷川清は、「一日も早く憲法を改正して国防力を持たないと、非常に危険です。生活が豊かになるのは結構ですが、国防に無関心すぎます」と言っていた記録があるそうだ。

表現の自由は結構だし、そうできる社会はありがたいのだと思う。しかし演劇とはいえ、実在した人物の事象を実名のままで事実と違う表現をして、揶揄また批判をしていいのだろうか、まして海軍大将となれば個人の範疇を超え国として公のものだ。従軍慰安婦南京虐殺の捏造は我国を棄損させる敵性行為だが、この舞台は深く考えれば、これに類するような演劇表現になりそうで難しいことだと思った。

ところが、井上ひさしの言葉に、
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」というのがある。
このことは作文や演劇だけではない、生きる上でも肝に銘じなければと、心がけたい言葉だと思っているのだが、これの実行は難しい。
さらに、「井上ひさしの作文教室」という本ではエッセイを書く人への提言として、
自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書く。
前置きなしで、いきなり事件の山場、核心に迫る。
基本的に文章はなるべく短く書く。
「私」とか「僕」といった自分を指す人称代名詞はほとんどの場合、全部削った方がいい。
主語は文の中で使わないほうがいい。
「まだ」「さぞ」「どうも」を効果的に使うと良い。
「〜という」「〜に関して」「〜について」はどれだけ使わないで済ませるかが勝負どころ。
「が」は初めて登場するものに使用され、「は」はすでに登場しているものに対して使われる。
ありがたい教えだと思う。井上ひさし、やはり素晴らしい。
平成二十九年九月十四日