ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中、エッセイ教室に行った。

お盆明けの久しぶりの教室だったが参加者はいつもの半分だった。


きょう提出した原稿は、


         勝新太郎兵隊やくざ              中村克博


 お盆前に映画のDVDを三本レンタルしてきた。そのうちの一本が勝新太郎の「兵隊やくざ」だった。慌ただしく過ぎたお盆の十三日、食事を終え風呂に浸かって妻がひと段落ついたころ夫婦でテレビの前に座った。僕が高校三年生の頃、自宅の一軒隣が大映の映画館だったが、この映画はそこに掛かっていた記憶がある。なぜ、こんな昔の映画を観ようと思ったのかよくわからない。五十年以上前の白黒映画だが観るのは初めてだった。
場面はソヴィエト軍と川を挟んで対峙する関東軍の国境警備基地、勝新太郎の演じる出来の悪い上等兵とインテリでリベラルな感じの上等兵田村高廣が扮してコメディタッチにえがいている。僕はソファーに寝転んで観ていた。規律の悪い軍隊で将校たちの尊厳もない、反戦映画と言うよりも、ただ、ただ、日本陸軍を馬鹿にしたストーリーで、観なけりゃよかったと思って観終った。
しかし、この映画、「兵隊やくざ」はシリーズ化され昭和四十年(1965年)から昭和四十七年(1972年)までに九本作られている。さらに、田村高廣がこの作品で昭和四十一年(1966年)に第十六回ブルーリボン賞で最優秀助演男優賞を受賞している。封切り当時は人気があったようだ。原作は有馬頼義という大衆小説、社会派推理小説で活躍した旧筑後国久留米藩主有馬家の第十六代当主というから驚いた。

ネットでこの原作者のことを調べてみた。

伯爵有馬頼寧の三男として東京市赤坂区青山に生まれる。頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹・澄子は足利惇氏の妻。兄二人の早世と病弱により早くから伯爵家を嗣ぐことを決められる一方、有馬家と母の実家・北白川宮家の複雑な家庭環境を肌で感じる多感な幼少期を過ごした。母貞子は北白川宮能久親王の第二女王女子。昭和十六年(1941年)に兵役に就いて満洲に渡る。敗戦後、農相だった父が戦犯容疑者として拘禁され、財産差押えを受ける。家は貧窮生活に転落し、古道具屋、ビルのガラス拭きやアコーディオン弾き、友人が編集していたカストリ雑誌『アベック』の常連執筆者、『日刊スポーツ』の記者などで生計を支えた。

原作者は旧筑後国久留米藩主、有馬伯爵家の跡継ぎだが複雑な家庭環境で育ったらしい。学生の頃から文筆家を目指したようで貴族であったが一兵卒として満州に出征したようだ。競馬の「有馬記念」は父頼寧の功績を称えて命名されたらしい。昭和二九年(1954年)、『終身未決囚』が認められ、第三一回直木賞受賞。

このころの日本社会の状況はどんなだったのだろう。

昭和二十六年(1951年)九月八日に調印されたサンフランシスコ平和条約が翌昭和二十七年四月二十八日から発効し我が国は主権を回復した。これ以降の経済復興がすさまじい、昭和三〇年(1955年)から昭和四八年(1973年)までの日本の実質経済成長率は年平均一〇%を超え、欧米の二〜四倍にもなった。
昭和三一年(1956年)、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化 」の結びで「もはや戦後ではない」と記述、この言葉は流行語になった。神武景気といわれ、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が家電『三種の神器』と宣伝され普及し始めた。さらに昭和四〇年ころのいざなぎ景気の時代には、カラーテレビ・クーラー・自動車が新・三種の神器として国内需要を牽引した。これらは頭文字をとって3Cと呼ばれた。

昭和三九年(1964年)には東京オリンピックが開催された。これを機にカラーテレビとその映像娯楽が急速に家庭に浸透していった。当時、「兵隊やくざ」を喜んで観ていた日本の国民は日本が経済発展に邁進していた時期になっても、自らも戦った大東亜戦争を太平洋戦争と呼び、旧軍を卑下する風潮は変わらずに残っていた。
そして、その風潮はいまだに残っている。戦前戦後の歴史を見直す機運はあるようだが、贖罪や自虐の意識が社会をおおいかぶさるように感じるのはなぜか、ネットに手がかりはないものか調べてみた。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は占領政策として、大日本帝国憲法の廃止と新憲法の制定、神道指令、教育基本法改正、教育勅語廃止、財閥解体などを進めたが、これに並行して、戦争への罪悪感を日本人の心に植えつける宣伝計画、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)を日本占領政策の一環として推進した。その手始めに、アメリカが作った太平洋戦争史は、連合国軍の占領下にあった日本で、昭和二〇年(1945年)十二月八日より十回にわたり連合国司令部記述として全国の新聞紙上に連載された。
文芸評論家の江藤淳はこれについて、太平洋戦争(大東亜戦争終結後、連合国軍最高司令官総司令部GHQによる「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析した。また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している。
また、GHQはアメリカから見た「太平洋戦争の真相を日本国民に知らせる」ためのラジオ番組を作った。それは「眞相はかうだ」「眞相箱」「質問箱」と名称を変えながら、三年にわたりお茶の間に日本の犯罪を告発し続けた。真実の中に虚偽を巧妙に散りばめ「帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した」との観念を植え付けるGHQの思惑は成功し、いつしか日本人の歴史観や戦争観を規定した。
「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」によって「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入し、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であり、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落した米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」としている。

 「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」のなかに日本の家族制度を破壊する仕組みがあると思うのだが見つけ出せなかった。
 今日、ネットで見たニュースに次の記事が出ていた。

自民、「占領政策」を独自検証 新組織立ち上げへ
自民党が、終戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策東京裁判、現行憲法の成立過程などを検証する新組織の設置を検討していることが15日、分かった。戦後70年を機に、東京裁判で争われた内容や憲法制定の背景を振り返ることで「正しい歴史認識」を確認し、今後の改憲議論に反映させる考えだ。
  新組織では、GHQが占領中、全国の新聞に「太平洋戦争史」を連載するなどして戦勝国側の歴史観を浸透させた「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」や、東京裁判が「侵略戦争」と認定した背景を検証。WGIPや東京裁判が戦後の歴史教育に及ぼした影響についても議論する。
 また、安倍晋三首相が「原案をGHQの素人がたった8日間で作り上げた代物」と評する現行憲法の成立過程も振り返り、憲法改正に向けた国民的な議論も盛り上げる。
  稲田朋美政調会長はかねて「東京裁判の判決は受諾したが、判決理由に書かれている歴史認識のすべてに反論が許されていないわけではない」と主張し、検証の必要性を指摘してきた。
新組織は稲田氏のもとに設置され、早ければ今国会中にも議論を始める。
 自民党では、朝日新聞が誤りを認めた慰安婦報道の影響などを検証する「日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会」(中曽根弘文委員長)が月内にも提言をまとめることにしており、新組織は特命委を引き継ぐ形とする案もある。

「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム」によってつくられてきた我が国にまつわる戦後の歴史観や国家統治の仕組み、それに外交や軍事について、立ち位置の変更を求められる時期に来ているようだ。しかし、なにが真実か正義かは時々の都合で変わる。さて、これからどんな真実や正義が我々の前に現れるのか、だれがどんな都合でそれらを広めていくのだろうか、とくと自分の判断で見さだめたいものだ。
平成二十八年八月一七日