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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

タブレットコンピュータ

欲しかったタブレットがもらえた。

今日はエッセー教室だった。
タブレットコンピュータのことを書いた。


タブレットコンピュータ              中村克博


 先日、ドコモショップに立ち寄った。ドコモカードからの通信料の支払いを通常使っているカードからの引き落としに変更する手続きをした。感じのいいスタッフさんがテキパキと処理をすませてくれた。
僕は前々から聞いてみようと思っていたことがあった。
「あの〜、タブレットをタダでもらえるのですか」
 少し、恥ずかしい思いがしたが言ってみた。
「はい、キャンペーン中です。いくつか機種がありますのでお好きなのをお選びください」
 やはり、そうらしい、わくわくして僕はアイパッド・エアーを選んだ。B5サイズの大きさで厚さは6ミリほど、さっそく使えるようにしてくれた。さらに通信料の見直しもしてくれて妻と一緒の支払いで、これまでよりも安くなるらしい。そういえば、数年前に妻のアイパッドアップルストアで買ったときは僕も欲しかったが高価だしアイホーンがあるので我慢したのを思いだす。それを今回、アイパッドをタダでくれて通信料まで安くなるという。なぜこんなことがおきるのか、いまだにわからない。
家に帰ってからさっそく使ってみた。パソコンよりも起動が早い。スイッチを入れると同時に画面が開き、そのままインターネットの操作ができる。携帯電話のできるところなら場所を選ばずどこでも使える。検索エンジンを使うこともニュースを見ることもパソコンと同じだ。操作が簡単で早いので電子辞書の代用にもなる。メールの送受信もパソコンと同じようにできるしワープロ機能でエッセイの原稿も書ける。便利でありがたいが、これでまた気を休めるための何もしない時間が減ることになる。

使い慣れてきたある日、アイパッドでユーチューブを開いていろんな動画を見ていた。東日本大震災の記録映像を見ていた。現場に居合わせた個人が撮った映像は緊迫感があって当時のニュース画面をテレビで見たときの興奮がよみがえってきた。津波が押し寄せ人が逃げ惑い、家が流され大きな船が町の中を建物を破壊しながら動いていく、動画を撮る人も逃げながら叫ぶ声も入っている。なんとも凄まじい。そんな動画がたくさんアップしてある。長時間ソファーに寝転んで観ていたら首が固まって動かなくなっていた。体を動かさずに想像だけで興奮して血圧が上がったのだろう気分が悪くなった。
もう夕方になっていたが血圧と体の動きを同調させるため作業着に着かえて庭仕事を始めた。梯子をかけて大きな木の枝を切ってツルツルテンの柱にした。これで日陰になって枯れかけていた椿や柿の木が夕日にあたって嬉しそうだった。切り落とした枝を運んでいたら汗びっしょりになった。気分がよくなっていた。大きな幹は明日にでもチェンソーで切り倒そう。
庭作業を終えて作業着のまま母の部屋に行って報告した。
「あの大きな木は、なんの木やろか」
「なんの木やろかね」
「茶室の前で柿の木にかぶさっとる」
「そうね、それはおおかたコブシの木やろう」
「コブシの木はまだ何本かあるよね」
 春になると白い花を咲かせる、あの木か。枝は落としても、まだ根元から切り倒していなかった。よかったと思った。

 アマゾンに注文していたアイパッド・エアーのケースが届いた。これで一段と使いやすくなった。机の上で画面の傾斜を選んで使えるし、持ち運びにも本体を保護するし、ケースの蓋を開くと同時に起動して画面が開く、なんとも機能的だ。家にいるときも、妻の買い物について行くときもアイパッドを手放すときはない。この日もひまさえあればアイパッドをいじっていた。子供のころ、日がな一日、飽きもせず大きな百科事典をあちこち開いて読みふけっていたのを思いだす。
その日の夕方、食事のあと今度は卓上のパソコンを操作していたら画面が見ずらい。中心のあたりは見えるがその周囲の上半分がモザイクがかかったようになっている。パソコンの映像にモザイクがかかっているのかと思ったがそうではない。僕の目玉の周囲の景色がチラチラ流れるように見えているのだ。目薬を差したり、目をつむって静かにしたり、顔を洗ったりしたが、治らない。もう寝るように言われたので早い時間だったが眠った。朝になったらいつものように見えたので安心したが、目の病院につれていかれた。別に何ともないとの診断だった。

 随分まえになるが、むかしむかしイスラムの偉い聖職者の言葉に、心は足とともに、心は足のあるところに、だったか、そんな教えを読んだ記憶がある。インターネットであまりに長い時間をバーチャルな世界に身を置くと心と体が離れてしまうのかもしれない。心ここにあらず、の状態を機械的に作り出しているのかもしれない。体に良くないのかもしれない。いずれにしろ程度の問題だろうが目が見えなくなるほど見続けてはいけないのだろう。
平成二十八年九月二日