ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の夜に活けていたのは白いサザンカだろうか。

今日はエッセイ教室、今年最後の日だった。
先生が「南窓録」背振山サザンカと題する自らの一文を披露された。
余韻というより残響がふさわしい。行数の何倍も後から想いが広がるようだった。

午前中のエッセイ教室から帰宅して昨夜活けられた白いサザンカを撮りに行った。
白い一輪は落ちて水盤の中に浮いていた。


今年の締めくくりのエッセイはこんなだった。                   


   どういう風の吹き回しか知らないが、       中村克博


 庭の樫の木に上って枝を切っていた。少し切っては木から降りて枝ぶりをながめて、また上って鋸を使って形を整えていた。昨日からこの木の剪定に取りかかっていた。門の横にあるこの樫を剪定したのは六年ほど前になる。脳梗塞による運動機能の障害を回復するためのリハビリとして思いついたのだが案外に面白かった。ところが体が元のように回復すると、活動範囲が広がって根気のいる庭の手入れには、さほど興味がなくなった。それで顧みられることもなくなった樫の木は六年も経つと枝が門の屋根にかぶさってこんもりと藪のように茂った。少しは気にはなっていたが数年そのままだった。
どういう風の吹き回しか知らないが数日前の朝ふと思いついた。天気はいいし冷たい風が吹いて気持いい。作業着に着変えて腰に手鋸を下げて梯子を担いで出かけた。手始めに手当たり次第に庭木を切っていたが、この樫を切る段になって少し考えた。枝の形だけでなく周りの木や背景との調和、門と関係を考慮しようと思った。六年前に枝打ちしたときは、考えなしにただ枝を落としていた。左半身が不自由だったので、やっとこさ木に登って落ちないように鋸を引いていたが、いい加減に枝を落として木から降りて眺めるとモッコクもモミの木もツバキも、つるりとした丸太ん棒か電信柱のようになっていたが気にもしなかった。今思えば母はどんなにか、がっかりしていただろう。 
枝に登って周りを見渡すといい気分になる。感慨に浸ったように六年前のことなどいろいろ思い浮かべていたら、バサバサっと羽音がして大きな鳥が飛び込んできた。と思ったらすぐにバタバタと飛び立っていった。山鳩のようだ。この木を住まいにしていたのだろう。飛んで帰ってくると枝の中に人がいたので慌てたはずだ。顔は合わさなかったが互いにびっくりした。この樫の木は六年前にはすでにかなり大きな枝を張っていて形ができていたのだが、今回さらに気に入ったようにできあがった。下から眺めても堂々として我が家のシンボルツリーのようだ。枝の高くに登って見渡せば遠く国道の向こうまで見える。高い枝に横木を渡して露台を作れば夏には木陰で気持ちいいだろう。などと空想していたら友人の車が上ってくるのが見えた。居合の先輩で先代の宗家から教えを受けていた老練の師範だ。昼前の十一時ころに来るはずだが、もうそんな時間になっていたようだ。この日、巻きワラの試し斬りに使用する切り台を一つ差し上げることになっていた。自宅で斬試の稽古をするようだ。 
経験を積んだ熟練の師範は若いときにはさぞかし機敏な剣さばきができていただろうと推察するが近ごろ足が覚束なくてよたよた歩くようになった。座敷に通してコーヒーを淹れ僕は居合の稽古着に着変えた。真剣を使いたかったが模擬刀を持ってきて正式に作法通りの挨拶をした。これからの時間は友人ではなく先生としての指導を受けることになると思って基本刀法、基本切り技から見てもらった。現在のやり方と古式のやり方を丁寧に教えてくれた。僕は覚えが悪いうえに勝手なことをするのだが先輩は木剣を持って気長に何ども手直ししてくれた。高齢の師範だが教え方には礼節がある。学生の体育会系のような関係ではないことを社会人としての互の尊厳を尊重することを踏まえて指導してくれる。この謙虚さは師範としての経験と技量に自信があって、さらに社会人としての使命をきちんと勤めているからなんだろうと思う。居合の前に社会人としての配慮が優先することを知っている。この人、酒を飲まない。先日、居合の仲間の忘年会があったが二次会のカラオケに終わりまで同道して、もりあがって楽しんだらしい。僕は宴会が終わりに近い頃、挨拶もそこそこにお暇していた。
 
 居合の忘年会は数日前の日曜日、天神のもつ鍋屋で行われた。天気は良かったが日が落ちると急ぎ足で歩いていても寒かった。会場の近くまで来ると道場での装いとかなり違う艶やかな女性剣士とであった。彼女が押している自転車をはさんで話しながら歩いていると数人の先輩剣士たちとも一緒になった。お店は古い和式の邸宅を利用した中庭のある作りだった。廊下も部屋も明かりは少しおさえられて板張りだが靴のまま上がれるのは便利だった。部屋に通されると宗家やマイク師範の笑顔が目についた。集合時間の一五分前だったが、お待たせしたお詫びの挨拶をした。部屋にある四つのテーブルは半分ほどの椅子に仲間の剣士たちが座って歓談していた。会費を払うときにプレゼント交換の品物を持参するのを忘れたことに気づいた。
どうしようかと思ったら、忘れてくる人がいるようなのでこれを使うようにと、所用で不参加の清水師範が品物を用意しているそうだ。そうか、なるほど見通しのいい人だ。ありがたい、使わせていただこうかと思ったが無意識に考え直して小走りで街にでた。今思うと、この師範から以前、帯を忘れて借り受けた時に「まだらボケ」と言われたことを執念深く意識の底に貯めていたようだ。なんと気の小さいことだと思うが、理性と情念は別の人格のようだ。言葉は言霊とも言うのがよくわかる。考えれば恐ろしいことだ。理性の前に無意識の情念で体は動くようだ。自分でも日ごろ人様に気楽に良くない言葉を吐いているのだろうと思うと自戒の思いが新たになった。クワバラ、桑原だと思う。
いろんな料理が出たが、どれもおいしかった。どんな料理がでたかは覚えていないが最初に出たのは生牡蠣だった。食べたかったが大事をとってテーブルを挟んだ斜め前の先輩に僕の分をすすめた。「いいのですか」と喜んで食べていた。彼は今週の稽古を休んでいた。彼自身の昇段免許の授与式だったが悪性ウイルスに感染して腹痛で苦しんでいたらしい。おかげで免疫ができているようだ。宗家が笑顔でピッチャーを持ってビールを注いでまわっている。アメリカ人のマイク師範もそれにならっていた。欧米では宴会で酌をする習慣はないだろうにと思うが居合の修練だけでなく文化にまで溶け込んで日本の精神を理解しようとしているように思えた。僕の方は仕事を引退してから会食で酌をする行為はなくなった。何となく自分の行為に違和感が感じられるようになったのだが、なぜかはまだ考えたことがない。テーブルではもつ鍋が食べごろに泡立っていた。
テーブルをはさんで前の席に老練の師範がいた。酒は飲まないがみんなの雰囲気に合わせて面白いことを話していた。そのうちにテーブルにあったツマヨウジの入れ物に手が伸びた。口に入れるかと思ったら耳の穴に入れた。どうも耳の穴を掻いているようだ。汚らしいので僕は止めるように言った。
「そんなことは家でやればいいよ。奥さんの膝枕でやってもらうといいよ」
先輩は抜き打ちの前の一瞬ふさぎ込むようなためらいを見せて、
「中村さん、ああたは新婚やき、そげんことできるとよ」と真顔で言った。
「そうですかねぇ」と何だか不都合を言ったようだった。
「だいいち、俺んとこは腹が出っぱっちょうき、膝に頭ば置いたら滑り落ちるばい」と笑った。僕の隣の先輩は小用にたっていた。席は入り乱れて、熱燗を持った酔客と空いた皿を下げる人が行き交い話し声は入り混じっていた。となりの空いた席に女性剣士がすわた。
たらふく食べて少々飲みすぎて、二次会に行く話が出ていた。僕はお暇することにした。それならプレゼント交換のくじを引くようにと幹事から促された。なんと愛洲の清酒が当たった。愛洲は移香斎の郷土、居合兵法の発祥の土地だ。幸先がいいと思った。
                            平成二四年十二月二〇日