貝原益軒を書こう 五 中村克博
障子の外から茶坊主の声がした。
「広間でのご進講いただく用意ができましてございます」
忠真公は少し障子の方に顔を向け、
「おう、もうそのような時刻になったか、あい分かった」
久兵衛が居住まいを正して場を移す挨拶をしようとすると、
「久兵衛、そのまえに、もひとつ尋ねたいことがある」
久兵衛はかしこまって
「は、はぁ、」と頭を下げた。
「おぬしは、鄭成功のことはどのように考えておる。平戸の生まれだそうだな」
久兵衛は予期しない事柄に話を振られて戸惑いながら、
「はい、父は鄭芝龍という明国の海商で、母はおマツといい、平戸の藩主、松浦隆信公の仲立ちだで、藩医田川七左衛門の娘とうかがっております」
「明はモンゴルの元を滅ぼしたほどの国であったが今では北方満州族の清が侵入して隆武帝を捕らえ処刑したようだ、国が危うい。鄭成功が徳川幕府に援兵を請う使者を送ったのは四年ほどまえになるな」
「徳川幕府は関与せずの姿勢で、たびたびの援軍依頼を断りますが、西国大名には明に加勢の軍を出そうという了見の大名もおるようでございます。また長崎には取り潰された廃藩の浪人武士たちが集まり、交易船にまぎれ込んで密航を企てるもようです」
「密航した日本の武士たちで編成した軍勢もできておるようだ。不穏な浪人どもが活躍できることはありがたいな」
「のちのち清国との関係を懸念すれば、密航したことでなければ…」
「その数が一万人以上、鉄人隊とかいう甲冑の重武装の軍と、倭銃隊という我が国の銃を使う兵とを日本から来た援軍だと宣伝しておるようだな」
「明だけでなく満州の韃靼族である清も日本人を恐れます。明国の沿岸を襲撃した倭寇の獰猛さは忘れがたく、朝鮮を蹂躙して北進し、豆満江をこえて満州まで攻めてきた太閤様の軍勢の思いも身にしみております。倭人の軍勢の恐ろしさを利用するのでございましょう」
「内陸は清がほぼ制圧しておるようだが沿海部は手が出せないようだな。鄭成功はたびたび内陸に兵を送り両軍は一進一退を繰り返しておるようだ」
「鄭成功の艦船は三百隻あまり、兵は陸と海で二十万といいます。厦門、金門の島に割拠して福建、広東、浙江の沿岸を経略し、さらに長崎、ルソン、ベトナム、シャムや南方の国々と交易して勢力を蓄えております。長崎には鄭成功の交易船は毎年、年に何度もまいります。明国の再興を窺いますが海では強大でも陸に上がっては、相手は騎馬をもっての陸戦を得意とします」
「我が国からの武器や武具の輸出はご法度であるが、長崎奉行は暗黙の了解で、大量の刀や鎧などが積み出されておるようだ。博多の商人も暗躍しておるようだが気がかりでもあるな」
茶道頭はしばらく話を聞いていたが、やおら道具を仕舞いはじめて、建水と蓋置、柄杓をもって部屋を出た。
「明国での戦は鄭成功の交易を活発にしております。莫大な戦費の調達が急務でありますのでオランダやポルトガル、スペインやイギリスとの摩擦が起きておるようです」
「特にオランダは長崎と台湾を拠点として独占しバタビアやインドとつながっておるなら、鄭成功の勢力とはいずれ衝突しそうだな」
「懸念されます。オランダはここ数年、国力が大きくなりスペイン、ポルトガルをしのぐようです。イギリスは国内が騒然として内戦状態のようで海外にまで手が回りません」
「西の果ての国々では、ここしばらくはオランダが勢力を伸ばしそうだが、我国も早く体制を整え国外の勢力に付け入られぬようにせねばならぬな」
「はい、徳川家はゆるぎない幕藩体制の構築を急いでおられます。国中の商品の流れを整え、海外交渉と交易を幕府が独占すること、貨幣の統一と鋳造を幕府が直接おこなうこと、陸海の交通路を整え支配することの四つを柱としており、そのため武家諸法度にて参勤交代を定め、五〇〇石積以上の大船の製造が禁止されておるのだと思います」
忠真公は茶道頭に向かって、
「徳川幕府が国中の諸藩を統御するのは武力、財政、良材が根幹だが、国威の要は皇室の存在だな。了和、そこもとは、このあたりのことをどのように考える…」
了和は手を休めて、考える間もなく即座にこたえた。
「武門のはじまりは古来から皇室の藩屏であります。幕府の存在はそのことによって納得できます。そもそも国の成り立ちは民あってのこと、世の中の秩序と役割をどのようにするのか、そのことが幕藩体制をゆるぎないものにすると考えます」
忠真公はしばらく考えるふうであった、
「秩序と役割とな… それをどのようにするのか…、久兵衛がこれから京へ上ってうかがい探るのもその手掛かりやも知れぬな」
了和は水差しを運んで挨拶し座をあとにした。
「そう言えば黒田家は大船建造の禁を破って大船鳳凰丸の建造をして騒動になったことがあったな」
「は、そのようなことも、恐れ入ります、広間で近習の皆様が控えておられます。あちらに出向いてよろしゅうございましょうか」
「おう、そうであったな、参れ参れ、わしも、しばらくして聴講したいが、遅れるゆえ始めておいてくれ」
忠真公が部屋をあとにして、まもなく障子が開いて、茶坊主が預かっていた久兵衛の脇差を捧げていた。
令和元年五月三十日