ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

昨日の我が家、カシワバアジサイが活けてあった。

つぎつぎに、いろんな花が咲く季節だ。

以前からずっと敷地に咲いていたのだが、これもアジサイだとは知らなかった。

鉢植えの桑が実をつけた。地面に植えると大きな木になるだろうか。

ホタルブクロと言うらしい。もうそろそろ時期がすぎる。

妻が梅の枝を、いろいろ配置かえて、下いけの研究中だった。

昨日はエッセイ教室だった。
先日の海上での居合の奉納を題材にした。


海軍記念日護衛艦で居合の奉納。        中村克博


 五月二十七日は日本の海軍記念日だった。一九〇五年(明治三十八年)五月二十七日から翌二十八日にわたり、日本海対馬沖で日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対決した。六時二十一分、連合艦隊大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」この電文で決戦の火蓋が切られた。この電文は海軍史上、世界的に有名らしいが「撃滅セントス」までは暗号電文で連合艦隊司令長官からの発令だが、後半の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の部分は暗号でなく平文で秋山真之参謀が加筆したものだ。
十三時五十五分、東郷平八郎大将は連合艦隊旗艦「三笠」へZ旗の掲揚を指示した。このとき連合艦隊が使用していた信号簿でZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。この旗には「もう後がない」の意味もあったらしい。

実は、現在の日本に海軍記念日はない。戦前にはバルチック艦隊を撃滅したこの日を日本の海軍記念日に制定していたが、一九四五年を最後に廃止された。海軍も陸軍も消滅したのだから仕方があるまい。それで、この日は例年「日本海海戦OOO周年記念大会」に慰霊祭という形で海上自衛隊の行事が行われている。今年は自衛艦隊の訓練支援艦「くろべ 」艦上で黒田藩伝柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。宗家と三人の師範それに写真掛の僕はタクシーで奉納場所であるおとうと第九埠頭に停泊している自衛艦に出向いた。開会まで時間があるので船のまわりに歩哨の水兵がいるだけで参列者も見学者も一人もいなかった。船に近づくと士官が一人降りてきて宗家に挨拶して何やら話し始めた。階級章は肩章に太い金筋が二本に「星」、いや「桜」だ、それを一つ付いている一等海尉だ、旧軍の海軍大尉だ。
宗家はなんだか困った表情だった。大尉も申し訳なさそうな目をしていた。何やら宗家を説得しているが埒が明かないようだ。そのうち話がついたが、なんと、真剣の艦内持ち込みが出来ないらしい。これでは何とも間の抜けた居合の奉納になる。僕なら、「それでは申し訳ないが厳粛な奉納は致しかねます。帰らせてもらいます」と言いたいところだが、さすが宗家は器量が大きい。できないと判れば気持ちの切換がいい。それで、真剣は艦内で預かることになった。大尉がホッとした様子でみんなの真剣を束ねたバックを重そうに運んで行った。式典の時間が近くなると参列者の黒塗りのセダンが数台到着して、見学者の大型貸し切りバスが次々とやって来た。間もなくして「くろべ」は岸壁を離れて博多湾の中を進んだ。

居合の奉納が艦尾の甲板で始まった。空は晴れわたって湾内の波は静かだったが風は髪の毛がくしゃくしゃになるくらい吹いていた。もし、外洋に出れば「天気晴朗なれど浪高し」の状態だったろう。居合の演武はいつものように宗家の四方払いの神事から始まった。いつもと違うのは風の吹き荒ぶ海上だということだ。袴の裾が吹き揚がり袖がはためいたが、それが演武の迫力を一段と増したようで、真剣は取り上げられて模造刀だったが本身に負けない、いや本物以上に真上に輝く太陽の光を攪乱して参列者の肝胆まで照らしていた。時を移さずに清水師範と山崎師範の組太刀の演武が始まった。木剣を使っての演武だったが見学者からは驚嘆の声がカメラをかまえている僕の耳に届いていた。二人の着衣が風に乱れ、髪の毛が逆立って形相までもが猛々しかった。特に最近の山崎師範は剣筋に迷いなく武人らしい風格さえ出てきたようだ。剣は詰まるところ人格だと常々思うようになっているのだが、この人の先行きが楽しみだ。奉納を締めくくって最後におこなわれた宗家とマイク師範の組太刀は新影流の奥の深さを見学者に感じさせた。

居合の奉納が終わったので、写真掛の僕はお役御免で自由の身になった。さっそく艦内を見てまわった。軍艦だから通路は狭い。窓は一つもない。おまけに見学者が並んで蠢いているので先に進めない。至る所にパイプや配線がむき出しだ。階段は狭く梯子のようで傾斜がなくて、上り詰めると大きな鉄のハッチが口を開いていた。もし、留め金が外れて鉄の丸い扉が頭から落ちてきたら大変だと思いながら登っていった。
艦橋に上がると、ここだけは前方に四角い大きな窓がズラリと並んで広々と明るかった。口髭を唇の上に細く生やしているのが艦長らしい。微笑んだような温和な顔で、時々双眼鏡を顏にかざして遠くの進路を見ていた。そこには艦長以下、十人ほどの将卒がいたが、そのうちに女性が二人いて計器を見たり、窓から進行方向に目を凝らしたりしていた。その後ろには操舵輪を持つ舵取りがいた。舵は何とも小さかった。家で使っている湯呑を運ぶ木のお盆ほどもなかった。
窓から海をみている士官が、うしろに、
「取舵十五度」と伝えると
舵取りは
「取舵十五度、よ〜そろ」と言った。
僕は、それを聞いてうれしくなった。
舵取りに声をかけた。
「よ〜そろ、とは宜しいです。の意味ですか」
舵取りは一瞬驚いたように僕を見て、
「そ、そうです」と小さく答えた。
「そうですか、いつから決められたのですか」
「明治時代、海軍が出来たときです」と前を向いたまま答えた。
中世から、いや、もっと昔から九州や瀬戸内では操船用語に使われていた言葉だと、僕は言いたかったが、軽くお辞儀をして艦橋から外に出た。
風が強く吹いていた。艦橋の上にのぼる階段があった。手すりに手をかけると、若い水兵さんが「お気を付けください」と声をかけて僕の真下に待機した。梯子いや階段の上からは若い士官が手を差し伸べたが、手は受けずに一礼だけしてせまいデッキにのぼった。士官の帽子には黒い庇が付いている。庇が風を受けるので顎紐をかけている。その士官が信号旗を揚げる準備を始めた。Z旗がスルスルと大きなレーダーがゆっくり回転している近くまで揚げられた。四角い旗の対角線を十文字に交差して黄色を上に赤が下で紺色が右で黒が左のZ旗がはためき始めた。僕は何枚も何枚も写真に収めた。
この旗を東郷平八郎が掲揚を命じた日本海海戦、以降、日本海軍ではZ旗は特別な意味を持つこととなった。太平洋戦争(大東亜戦争)中の日本海軍では、大規模な海戦の際には旗艦のマストにZ旗を掲揚することが慣例化したそうだ。
広くない艦橋の上にあるデッキに真鍮の艦鐘が光っていた。下から覗くと音を出す金属の玉、舌がなかった。近くにいた若い水兵さんに、
「この鐘を鳴らすことはありますか」とたずねた。
「いえ、乗艦して二年になりますが、聞いたことがありません」
「ワッチの交代で八点鍾は鳴らないのですか」
「いえ、何ですか八点鍾…」
「夜間、四時間おきにワッチ交代の合図をする鐘の音です」
「いえ、鐘でなく、マイクで知らされます。ワッチは二十四時間で交代です」
「えっ、二十四時間も、寝ないのですか」
「いえ、寝ます。あ、交代で仮眠します」
最上階のデッキには見学者はいなかった。じっと立って海や空を見ている士官や水兵さんにいろんなことを聞いて回った。

ところで東郷平八郎といえば、日本が占領された翌年の昭和二十年、GHQが文部省に指令した教科書策定基準で日本の歴史から抹殺しようとした一人だった。教科書に絶対に載せてはならない人物は楠木正成乃木希典東郷平八郎の三人だった。GHQは東京裁判で自分たちの太平洋戦争史観を強制したが、それ以前の日本古来の歴史も書き変えさせた。憲法も作り替え、家族制度も崩壊した。これで日本を変えれると思ったのだろうが、うっかり肝心なことを忘れていたようだ。江戸時代から連綿と受け継がれてきた武士道が残っていたのだ。精神さえ滅んでいなければ、書かれた物は書き直せる。戦後初めて、小さな訓練支援艦の上で、真剣ではなく模擬刀と木剣ではあったが、軍艦の上で日本古来の武道の演武が行われたことが何か意味のあることのように思えていた
平成二十九年六月二日