ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

床に壺が活けてあった。

幽玄を写真に出来ないかと、いろいろやったが無理だった。


水漏れしていた壺を何とかして落しなしで使えるようにした。妻がさっそくカエデを活けて水漏れの検査をしていた。

明後日はエッセイ教室の日、夕方からは居合の稽古がある。
提出予定の原稿をブログに載せることにした。



        居合の道場で                   中村克博

 前回、居合の道場で稽古の合間に全員集合がかかり宗家の周りに集まった。話は折り入ってのお願いのような内容で短い謙虚な話だったが、宗家の気持ちがよく分かって心苦しい思いさえした。


「福岡黒田藩伝の柳生新影流の宗家は私であり、愛洲移香斎の流れをくむ柳生新影流の本流です。室町時代から四百年も五百年も伝わる古式兵法の技を可能な限り正確に後世に伝えることが使命だと、自分に課せられた責任だと思っています」
 道場で稽古の合間なので深い話はできないが、さらに話はすすんだ。
「黒田藩伝を名のる新影流の道場が他にもありますが、そこでの演武を最近ユーチューブで見て驚きました。師範の演武が先代の蒲池宗家の技とまるで違う、説明がなければどの技をしているのか分からないほどで何とも困ったことだと思った。このような誤った、おかしな技を黒田藩伝柳生新影流と称して広められたのでは、腹立たしいと言うより恥ずかしい思いがしました。これでは、先代の蒲池宗家に申し訳ない」
僕は宗家の前に端坐して聞いていた。話されながら大きな目が光って、さらに話は核心に触れる内容になった。
「最近になって、この道場でも基本刀法で技を勝手に変えている人がいます。私は先代から伝えられた技を、そのまま正確に伝えている。それが宗家としての使命であり相伝であると思うからです。基本の型は型通りに身につけてください。お願いします」


宗家の短い話は終わったが物足りない内容だった。しかしトップの基本方針だと思えばあれで十分だ。あとの具体策作りは師範など幹部たちの役割だろう。居合に限らず芸の伝授は弟子が師匠の真似をすることから始まる。これは家庭での躾もおなじである。親から子に祖父母から孫に、口伝もあるが真似の要素が大きい。躾が悪いと言う、子供のことを指しているようだが、これは親のことを言っている。要は躾をしていないのである。        
いま柳心会の道場では主に師範が指導しているが指導を受けた技を別の師範が飛んできて、その場で訂正することがある。指導を受けた者は戸惑うが、それより訂正された師範の面目は丸つぶれだ。まず始めに、基本の整理が必要ではないのか、
では、どうするか、思い付きの案だが、門弟の一人を選び道場の中央で演武してもらう。本人の免許の範囲で技を指定して一本一本を三度ずつ、それを皆が見る。演武が終わると師範や高段者がそれぞれに指摘論評しながら自らやって見せる。それを見ている宗家が師範と高段者の技を門弟の前で修正する。それを踏まえ、再度、師範や高段者が正確に演武する。これを月に一度でもやれば、門弟の前に師範たちの技が統一され蒲池宗家以来の正しい技が相伝される。真が伝わり、それが道場の芯に繋がると思うのだが…、  

  
問題の指摘をするだけなら不平不満と同じだ、解決しないことが組織を蝕む。ここで対策を打つとは指揮官先頭の気概だろう。やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば… とは山本五十六の言葉だ。
守破離は茶道にも華道にも能の風姿花伝にも言われる。もとは甲陽軍鑑に語源があるらしいが真行草に通じる。徹底した稽古は真の格を体得する守格、名人となれば形式にとらわれず破格に演じ、新しく流派を起こして離れるのも良しとする。居合も名人と自覚すれば破格にも演じるだろう。型破りの異質は大切だ。疑問と刺激、切磋琢磨は組織を強くする。しかし道場に芯がなければ異質に振り回される。
また道場には国旗が掲げてある。誰も入退場するときに一礼するが決まりがあるわけではない。道場に入るときに靴を出船で脱ぐがこれも決まりはない。神社の奉納で神殿に上がるときには入船のまま脱ぐが、これには決まりがあるようだ。戦後七十年、家族制度も社会的規範も変わった、いや、なくなった。決まりがなければ何でもありだ、価値観の多様化と言うらしいが道場でも同じ現象が起きる。私見を言うのは勝手だが他に強要すれば争いにもなる。見解はその人だけの正義だからだ。そのたびに宗家に御伺いを立ててはおれまい。それで規定がいる。そうなれば問題は起きる方がいい、その度に規定を作れるからだ。ただ規定を禁止に置き換えてはならない。禁止で解決できれば簡単なことだが組織は閉塞する。管理と支配、排除と差別の組織になる。規定は解決の具体策でなければならない。そうすれば方針に沿って各自が自分で判断するようになる。基礎が強固に、芯が通り組織は安定する。ただ規定作りは宗家主導でやるのが肝要だ。でないと牝鶏晨すの例えになる。


当面の問題はいくつかあるが、門弟が個人的な宴会で行う居合演武もその一つだ。宗家の了解を得ているが、これが問題だ。未熟な型を宴会などで衆目のまえに披露することになる。宴会の参列者はそれを新影流の居合だと思って感激の拍手を送る。 ユーチューブで流している他流のおかしな演武とどう違うのか、どちらも演武する本人は正しいと思ってやっている。宗家が他流の演武をユーチューブで見て困ったことだと思うなら、これは恥ずかしい矛盾だ。
なら、どうするか、思い付きだが、宗家が師範を一人でも二人でも派遣する、できれば宗家も参加するといい。その指導で門弟が演武すれば流派としての責任が取れる。当然ご祝儀は頂く。これを発展的に活動すれば、政財界の式典、公共ビルの落成式、大型商業施設の開店式などにも出演することになる。柳心会のホームページに出張演武の演目を載せ、広める活動は師範がおこなう。これをやれば柳生新影流を正しく世間に広めることになるし会の財政も潤うと思うのだが…、       不遜ながら居合を経済活動に置き換えれば、流派の名がブランドであり、商標にあたる。技や型が商品であり品質だ。幹部は社員、門弟は当然にお客様である。売上をあげ、利益を高めるには、ブランドに品位と歴史的物語の独自性をもたせ差別化をはかる。商品は豊富に高品質、高性能に美しさを重視する。そして業態はサービス業、お客様は神様となる。 


ここまで書いて、古式剣術はそんなものではない、との声が聞こえそうだ。武士道とは何だろう、剣戟とは、古の武人たちの精神性にふれ、それを感じることを、それを居合の稽古で、鍛錬で修養できないものか、そんな思いで道場に向かう人もいるだろう。それなら、これまでの話とは対策がまったく違ってくる。 


新陰流の創始者上泉信綱とされる。黒澤映画で有名な「七人の侍」は彼がモチーフだそうだが、この戦国末期の新陰流が柳生宗厳に伝えられ柳生新陰流が誕生する。そして柳生宗厳・宗矩の親子が黒田長政の仲介で徳川家康に謁見する。これにより宗矩は家康の家臣となり、のちに徳川秀忠の兵法指南役となる。さらに徳川家光の兵法指南役となり家光に新陰流を伝授し剣禅一如の兵法家伝書を著す。これで将軍家御流儀としての江戸柳生新陰流が完成したことになる。  

             
それから、時代は太平の世を二百五十年ほど過ぎて幕末の山岡鉄舟をみることになるが、鉄舟が安政五年に記した「修心要領」には「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや、然らず。余は此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり」とある。上泉信綱から柳生宗矩、そして山岡鉄舟と剣技は続くが、これは米の飯に例えれば、おにぎり、ホカホカ飯にタクワン、それとカレーライスほどに違う。 

                        
鉄舟が剣法を学ぶのは、ただ心胆練磨の術を積み、心を明らかなものにすることによって、自分もまた天地と同根一体なのだという理を釈然と理解できる境地に到達したいという目的があるだけである、という。流派がどうだとかこうだとか、どうでもいいことで、その人自身の心の鏡に写る通りにしていけばよい。ただ励むのだ、それよりほかに道はない、と山岡鉄舟はいう。                  
そして明治維新から百五十年、はたして現代人はどんな剣術をするのだろうか…
                           平成二八年五月四日