ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日の午前中はエッセイ教室だった。

船の鐘を手に入れたので、それを題材にした。

 


エッセイ教室に提出した原稿は、こんなだった。

      船の鐘                             中村克博


 先月、五月二十七日は日本海海戦一〇七周年の記念大会が開催され、自衛艦隊の「くろべ 」艦上では黒田藩伝柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。僕は宗家や師範たちの演武を写真に撮る役目を言いつかっていた。居合の奉納が無事終わってから一人で艦内を見学して回った。艦内はどこも見学者でごった返していたが、艦橋の上にあるデッキまで上ると、そこは見学者の人影はなくて数人の若い水兵さんが配置されていた。
広くない甲板を興味深々で歩いていると。真鍮の艦鐘が光っていた。下から覗くと音を出す金属の玉、舌がなかった。
近くにいた若い水兵さんに、
「この鐘を鳴らすことはありますか」とたずねた。
「いえ、乗艦して二年になりますが、聞いたことがありません」
「ワッチの交代で八点鍾は鳴らないのですか」
「いえ、何ですか八点鍾…」
「夜間、四時間おきにワッチ交代の合図をする鐘の音です」
「いえ、鐘でなく、マイクで知らされます。ワッチは二十四時間で交代です」
「えっ、二十四時間も、寝ないのですか」
「いえ、寝ます。あ、交代で仮眠します」
 そんな、やり取りを思いだす。

 それから数日後、船の鐘についてネットで調べていたら、いろんな、おもしろい記事が幾つも見つかった。ヨーロッパの大航海時代の船の絵画には鐘が描かれているものが珍しくないらしい。鐘は悪魔を払い、雷や嵐を去らせる霊力があると思っていたようだ。出航時の銅鑼の響きも出船を告げる合図には違いないが、接岸中に船内に潜り込んだ陸の悪霊を追い返そうという意味が強いとの説がある。
船鍾は時間を告げるためにも使われるが、その場合には時鍾と言うそうだ。しかし、霧の中や火災発生時などの警鐘として用いられることもあり、その場合には号鍾という名で呼ばれるそうだ。時鍾は午前、午後とも、零時、四時、八時が八点鍾で、三十分経過する毎に一点鍾づつ七点鍾まで数を増やす。しかし、六時三十分、七時、七時三十分の三回に限って、一点鍾、二点鍾、三点鍾と変則的に打つそうだ。よくもまぁ、昔の船乗りは、こんがらがらずに時を刻聞き分けたもんだと感心する。
教会の鐘は何世紀も受け継がれて鳴り続けるが、船の場合には船の寿命が終わったからといって別の船に流用することは決してないそうだ。船の霊はその船の鐘に宿るとされているのかもしれない。ところで、時鍾の場合は「鳴らす」とはいわないで「打つ」または「たたく」という表現をするそうだ。「時の鐘を鳴らした」とはいわないで、「時の鐘を打った」といわなければならない。一方、号鍾の場合は「打つ」のではなく「鳴らす」のである。船鍾にも除夜の鐘の打ち方がある。十二月三十一日午後十二時の八点鍾に続いてもう八点鍾、合わせて十六点鍾というのがそれである。後の八点鍾は一年の終わりと、新年の始まりを告げるためらしい。十六点鍾を打った独身者は、その年、よい伴侶に恵まれるという言い伝えがあるそうだ。いろいろ調べているうちに、そうするうちに僕は船の鐘が欲しくなった。
ヤフーオークションを見ると手ごろなのが出ていたので、入札すると運よく僕に落ちた。二日も待たずに宅急便が届けてくれた。わくわくして梱包の段ボール箱を開いた。鳴らしてみるといい音だ。しかし、すごく汚れている。船で使われていたときには船員が手入れして輝いていたのだろうが、すぐに汚れを落としに取り掛かった。ピカピカに磨き終わると夕方になっていた。

夕食のときも、風呂にはいっても、寝るまで、どこに吊り下げようかと思案した。あくる朝、窓の外の軒下にぶら下げることにした。妻が、あれこれ高さや位置を指示してくれた。具合よく紐もあった。窓を開けると目線の少し上、いい感じだ。

 アメリカのポール・G・アレン氏が率いる探査チームは、二〇一五年三月三日、フィリピン中央部にある小さな海域、シブヤン海の水深一〇〇〇mの海底で武蔵の船体を発見したと発表したが、同チームはさらに同じの年八月七日、今度は第二次世界大戦中の一九四一年に沈没したイギリスの巡洋戦艦フッドの船鐘の回収に成功したことを発表した。同艦が北大西洋で戦艦ビスマルクによって撃沈された際に亡くなった千四百十五人の戦死者にとって、敬意を表するにふさわしい有形記念物としての役割を果たすことになる。としている。七四年間、デンマーク海峡の深淵に沈んでいたにもかかわらず、船鐘は非常に良好な状態にある。船鐘の回収成功について、NMRNの館長、ドミニク・トウェドル教授は「われわれは、一九四一年五月二十四日に巡洋戦艦フッドとともにビスマルクと戦った戦艦プリンス・オブ・ウェールズの船鐘を既に保有している。少なくとも気持ちの上で二隻の艦船を再び結び合わせることは、すばらしい」とコメントした。 
 そのプリンス・オブ・ウェールズのことだが、この戦艦は大西洋憲章(一九四一年八月十日)でのチャーチル首相とルーズベルト大統領が会談した記念艦である。一九四一年(昭和十六年)後半、イギリスは極東における最大の拠点シンガポールを防衛するため、「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする東洋艦隊を配備した。ところが、同年十二月十日、日本海軍航空隊はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを陸上から発進した攻撃機で撃沈した。報告を受けたチャーチルは「そこで私は受話器を置いた。私は一人なのがありがたかった。すべての戦争を通じて、私はこれ以上直接的な打撃を受けたことはなかった。」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。マレー沖海戦といえば世界の海軍史上で大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として記憶されるが、これも、多くの日本人に知らされていない歴史のひとつだ。 
プリンス・オブ・ウェールズマレー半島東岸沖の水面下六十八mに沈没していたが、二〇〇二年になって船鍾だけが海底から回収された。前出の通りプリンス・オブ・ウェールズの鐘はリバプールの博物館で展示されているそうだ。
平成二十九年六月一五日