妻の花教室の生徒さんがツヅラ葛で籠を編むそうだ。
八木山を出発したときは雨が降っていたが
一時間ほど走った現地は晴れていた。すがすがしい山歩きだった。
車を停めて、山に慣れた上川君の案内で一時間近く登った。
来月のはじめ、籠を編む参加者が10人ほどらしい、
山の斜面にびっしりとカズラが張っていて採集は簡単だった。
下りはスイスイと楽だった。カズラの量も十分らしい。
帰りに別の山に入って大きな松ぼっくりを沢山採集した。
花教室ではクリスマスや正月の飾りに使うそうだ。
上川君は焚きつけに使うらしい。よく燃えるそうだ。
八木山に帰り着いて5時前5分、あわててリンゴ園に走った。
大きなリンゴを買った。大きいが濃密でさっぱりして、おいしかった。
先週の金曜日はエッセイ教室。貝原益軒は13回目の連載になる。
貝原益軒を書こう 十三 中村克博
夕餉を済ませて久兵衛と根岸は再び甲板に上がった。月が出ていた。風は冷たかったが食事部屋での慌ただしい熱気をさますのに心地よかった。船は順風で船足はおだやかだった。食事を済ませた武士たちがあちこちにたむろして月明かりの風景を眺めている。静かな話し声は聞こえるが騒ぐ者はいなかった。小豆島が右舷に見えていた。
久兵衛が船尾の方、遠くの闇を見ながら、
「岡山は遠くになりましたね」
「岡山に立ち寄らなかったのがよほど心残りと見えるな」
「拙者の祖先が備前吉備津宮の神官であったそうで、できれば参詣したいと思っておりました」
「ほう、吉備津宮のな、鬼退治の桃太郎伝説で有名だ」
「はい、御竈殿には、御祭神により退治された鬼の首が埋められているという伝説があります。現在も鳴釜神事が執り行われ、御釜の鳴り具合によって吉凶禍福を占うという神事だそうです。その霊験は天下に有名であります」
「この地は桃もうまいが、黍団子が有名だ」
「境内のすぐ近くに桃太郎に討伐された鬼、つまり温羅(うら)を祀る温羅神社があり、地元ではうらじゃ祭りといわれる温羅を慕うお祀りがあります。温羅の民は製鉄技術などを伝え、地元の人たちの発展にも貢献したとも言われています」
「ほう、そうか… 備前は昔から刀の産地だが神代の昔から鉄の技術は伝わっておったのか、そういえば貴公の差料は確か備前ではないのか」
「はい、備前長船七兵衛の尉祐定の作で元和三年の裏年紀がありますので、まだ新しいうぶ刃が残っています。このたび京に赴くため父に頂いたものです」
「ほう、そうか、明日の朝、顔を洗ってから拝見したいものだ」
「明朝は明石海峡を通過しますので船がゆれます」
「そうだったな、では、海峡を通って波が穏やかになってみせてくれ」
「はい、根岸様の差料はお父上から譲られたものですか」
「いや、父からは相州物をいただいておるが、いつもは肥前国忠吉の初代を差しておる」
船は小豆島を抜けたようで風が変わって帆が音をたててしばたいた。水主たちが帆綱を操作して風に合わせている。進路も少し右舷の方に向けたような気がした。船足が速くなった。
「そのような名刀をいつも差しているのですか」
「そうだな、そなたの警固を申し付かっても、実戦のない世の中だからと思っていたが、昨夜のようなこともあれば考えねばならぬ」
「そうでしょう、どんな名刀でも切り結べば刃こぼれするでしょう」
「数合打ち合えば刃はノコギリのようだ。刃筋を外せば曲がるし折れることもある」
「黒田の家中は備前長船を差す方が多いようですが、肥前の忠吉は少ないようですね」
「そのようだ。寛永十四年の島原・天草一揆に初陣したのだが、それを祝って黒田忠之公から頂いた我が家の家宝だ」
「そうですか、忠之公は名物好みのようですからね。博多の神屋宗湛から長政公の遺言と称して、名物茶入、博多文琳を黄金二千両と知行五百石と引き換えに召し上げられたことは茶人でなくとも有名な話です」
月が上って時折り雲間に隠れるようになった。甲板にいた武士たちが部屋にもどりはじめた。二人に挨拶して通りすぎる。
根岸は挨拶を丁寧に返して、
「太閤殿下からの所望をも固辞したという明国から舶来の小壺だそうだな」
「拙者も以前、拝見したことがありますが丹波の茶入に色合いが似ておると思いました」
「ほう、そうか見たことがあるのか」
「はい、盆の上に乗せられたものを外見だけですが手をついて拝見しました」
「拙者は刀剣甲冑の類はときおり展覧されるさいに出かけておるが」
「博多文琳の文琳とは果物の林檎のことで茶入の形状分類ですが、私が見ますにこの茶入の外形は林檎というより肩衝にちかい。ずんぐりと丸みはありますが肩が平たく角ばって独特の形です」
「そうかなぁ、どこにでもありそうな、うどん屋の爪楊枝入れにも似たような小壺はあるが」
「そのようなことを、うかつに言うと咎めをうけますよ」
「はは、は、貴公に言われるとはおもしろい」
「お上に意見を具申するのは拙者のお役目、決して諫言ではなくとも、それで咎めをうければ致し方のないと心得ます」
「はは、そうむきになるな」
「黒田家のお家騒動は拙者の生まれる二年後、寛永九年の出来事ですが、黒田家筆頭家老栗山大善様の諫言が騒動の発端になるのですが、あれだけの騒動でお家は安泰、一人の死罪もなく、お上は名君に、諫言の最たるものですね」
「拙者にはわからん。体が冷えて来たな」
令和元年十月三日