ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

僕の初めての著作、「アテナの銀貨」が出版された。

この小説をいつから書きはじめたのだろうと、ブログの日付をさかのぼってみた。
2013年4月19日のエッセイ教室に提出した原稿に「想像で書くのは大変だ」
というのがあった。これを読むと書きはじめの経緯が思い出せた。

思いかえせば僕にとって、かなり大それたことに取り組んだもんだと思う。
初めのころは書く時間の何十倍もの時間を物語の背景を調べることに費やした。
どんな衣服を着ていたのか、食べ物は、食器は、住いの間取りは、屋根は茅か板葺きか、
旅行は徒歩か馬か、街道の状態は、特に船の事は詳しく調べた。何しろ九百年前の海洋冒険小説だ。

書き出して数か月ったったころ、いつものように資料になる書物を読み返して疲れていた。
そうすると夢の中で不思議なことが起こり始めた。登場人物が勝手に動き出して話し始めたのだ。
風が吹いて、海がうねって、帆がはらむ。僕はそれを文字にするだけだった。


書店での発売は今週末からと聞いていたが、アマゾンではすでに発売されていました。
友人、知人、親戚に子供たち、一冊進呈したいのは山々ですが、買ってください。
お願いします。よろしくお願いいたします。そして、アマゾンに書評をいただければうれしいです。


昨日はエッセイ教室だった。


ヨガを始めて十年になる                     中村克博


 十年ほど前の十一月も残り少ない、もうすぐ師走になるころだった。後頭部がズキズキと脈打つたびに痛む。それが一週間以上も続いていた。治りそうにないので近場の脳外科専門の病院に出かけた。CTかMRIか忘れたが丸い穴の中を寝台ごと通された。
そのあと診察室で僕と同年輩の医者が頭の中の連続写真を見ながら、
「心配ありません。異常は見あたりません」と言った。
「なんで、頭が痛いのですかね〜」
「肩こりでしょう」
 あくる日も頭が痛む。どうもおかしいので、もう一度、昨日の病院に行くことにした。自分で車の運転をするのが心配なほどだったので、たまたま家の坂道を階段にする工事をしていた左官さんの車で送ってもらった。病院では大勢の患者さんが待合室にいたが、順番を待たずに、すぐに昨日の器械にもう一度通された。
 そのあと診察室で昨日の医者が、
「やはり、どこにも異常はありませんね」
「なんで、頭が痛いですかね〜」
「肩こりでしょう」
 タクシーを呼んでもらって家に帰り着いた。タクシーから降りると歩きづらくて吐き気がした。左官さんたちが心配そうにしていた。まだ昼前だったが布団で眠ることにした。こんなとき十年前に死んだ妻がいればとは思わないことにしていた。少し眠ったあと、起きて机に座っていた。お茶を飲もうとするが喉を通らない。気管に入りそうになって飲めない。そのうち左肩が下がってきた。左手が動かなくなくなってきた。右手で先ほどの脳外科病院に電話した。たしか、そのときは卓上電話だったと思う。例の医者が出た。
「家に帰ると吐き気がして、水が飲めません。だんだん手が動きま…」
 そこまで、言ったとき、受話器が叫んだ。
「うちに来てはだめです。すぐに救急車、救急車。自分で行ってはダメですよ。いますぐ救急車」
「はい、わかりました」
 すぐに「119」に電話して救急車の依頼をした。1、1、9、とボタンを押すのがまどろっこしく感じられた。待つ間もなく、すぐに救急車のサイレンが聞こえてきた。部屋を出て靴を履いて歩いて行こうとすると救急隊員が二人、僕を支えてくれた。
「車まで歩けますか、だいじょうぶですか」
「どうも… だいじょうぶ歩けます」
 救急車の中にどうにかたどり着くと、なんと、母が先に乗っていた。杖を突いてベンチに座っている。びっくりした。母は三日ほど前に退院したばかりだった。大腿骨を骨折してボルトを入れる手術して一ヶ月以上も入院していたのだが、何とも大正生まれは気丈なもんだ。
救急車で飯塚病院の救急病棟に運ばれた。若い医者たちが三人ほども待ち構えている部屋に車のついた寝台で運ばれた。すでに看護婦さんが患者用の衣服に着かえさせていたと思う。すでに、光る壁に僕の頭の中の写真がズラッと張り出されていて、医者たちがそれを見ながら意見交換をしているようだった。
「うㇺ、この写真ではわかりませんね」
 離れていて聞きづらいが、こんな会話が聞こえてくる。

 その日の深夜、集中治療室にいた。点滴の瓶が二個ぶら下がっていた。左の腕も手の指も足も動かなかった。鼻と口を覆う青いプラスチックのマスクが掛けてあった。しかし嚥下ができないので口から唾液が出てくる。そのため、酸素マスクは外されていた。右手て唾液をふき取るのが面倒だった。呼吸がしにくい、特に吸う息がうまくできない。喉が狭くなっているようだ。右手を動かすと息苦しくなるので口を拭くのを最小限の動きになるようにした。目で見る機能も耳で聞くのも問題はなかった。
 集中治療室は沢山のベットが並んで深夜でも明るかった。大きなガラスで仕切られた隣の部屋に看護師さんたちがいて部屋の様子が見れるようになっていた。僕の枕もとで弟たちと医者がボソボソト話しているのが聞こえる。
「呼んでおいた方がいいでしょうか」弟の一人の声がする。
「遠くにいる方がおられますか」と医者の声。
 どうも、僕の子供たちのことを言っているようだ。僕が死ぬとでも思っているのだろうか、と思った。僕は呼吸がしにくいだけで頭ははっきりしている。右の手足は動かせるし元気も回復していた。ただ、指を少し動かしても息が苦しくなるので動かないようにしているだけだ。あくる朝、目がさめると子供たちの心配そうな顔が並んでいた。

 次の日だった。静かな集中治療室の入口で声がする。
「ここは、入室禁止です。面会できません」と看護婦の声が響く。
「俺はいいと」と聞きなれた声。
「もう、こまります」とあきらめる声。
 僕は白いシーツの毛布で頭から顔を隠して右目だけ出した。腕も右だけ出して肘をL字に力なく立ち上げ手首は曲げて彼の来るのを待った。足音が近づいてきた。僕は目の焦点を白い天井の一点に決めて虚ろを装った。足音が止まって大きな顔が僕をのぞいている。僕は焦点を合わせず天井の一点を見ている。点滴の管や検査機の電線が白いシーツの中に入って、排尿のための管がベッドに下げられたビニール袋に届いている。僕は右手首を力なく横に振るわせて痙攣を演じた。観察する目が驚いたようになったようだ。それを何度か繰り返した。その度に顔を近づけたり離したりしている。シーツの中の口が半分ニンマリしていた。左半分は唇も動かない。友人の驚いた眼が光っているようだった。足音が寂しそうに遠ざかって後ろ姿を見送った。笑いをこらえていたが少し悪い気がした。

おかげで症状は日々良くなって二週間で集中治療室をでて個室に入った。動かなかった左手も、どうにか動くようになっていたが、左半身の触覚がなかった。熱さも寒さも痛みも感じなかった。水はコップからは飲めずゴムチューブを喉に押し込んで飲んでいた。食事も同じように飲む流動食だった。それでも、おいしくない味はわかった。狭くなった喉を拡張するためにチューブを飲んで喉で膨らます治療をくりかえした。夜は寝る前に看護婦さんが体温と脈を測りに来るのが楽しみだった。手首を触れる優しい手を握りかえしたら、「だめですよ」と優しく言われた。担当医は結婚を間近にした青年だった。
僕のヨガのことを書こうと思っていたら、導入部分が長くなってしまった。ヨガの話はこの次になるようだ。
平成二十九年八月三日