ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日金曜日、エッセイ教室にいった。

先週の第五金曜日は休みと思って行かなかったが、教室があったらしい。
今日のエッセイの表題は


  食べるということ             中村克博


僕は食べるのが早い。家での三度の食事もそうだし、友人とレストランで食べるときも、大勢で食べる宴会でも食卓に料理が置かれるとただちに休みなく食べ続ける。食べているときにほとんどしゃべらない。ただ、いきなり話しかけられると咄嗟に返事をしてしまい喉を詰まらせることがある。特に母から話しかけられると条件反射で返事をしてしまい目が白黒になるほど喉につっかえる。
年取った母は九十歳を過ぎる頃から小鳥みたいにちょこちょこと少しずつ時を置いて気が向いたときに食べるようになった。そのうち一緒に食事の時間をとることが少なくなった。母は自分の食事は自分で作るのが好みのようだ。弟の嫁が数日おきにいろんな手作り料理を持ってくる。喜んで食べているがホンの少しで残りは僕がいただく。僕の妻も時々出来たてを皿に入れて走るが少しだけ箸をつけた感じだ。母の孫の嫁が手作りのケーキを届けるときには大きな喜びの声が聞こえるが食べたかどうかは確認していない。
母は足がおぼつかないときがあるが、それでも自分で料理をしない日はない。それも量が半端ではないときがある。同じものを三日も食べていることもある。僕もそれをいただくがなんとも旨い。なんという料理か分からない。醤油だけの簡単な味つけだが懐かしい味だ。懐かしさはおいしさの要素にもなるらしい。この味付けを一つ二つ妻が覚えてくれるとありがたいと思う。僕の食べる料理は妻がつくる。母は作っても食べてくれる人がいない。何かの都合でお昼を食べそびれた僕が、母屋に行って母が作ったものを僕がモノも言わずに一気に食べるとうれしそうだ。
 先日、長男が僕の机に座って僕の本を読んでいた。弟がくれた食通の書いた本で連作が二冊ある。「この本、もらっていいか」という。「まだ目を通しただけで読んでいない」というと「お父さん、こんな本、読まんやろう」という。「お父さんは資料のような本かハウツーもんばかり読むやろう」という。「僕はこんな本が好きやし、楽しくなる。読みたいのでくれ」といって持っていった。息子は僕が食事を食料の供給ぐらいにしか思っていないような誤解をしているようだ。まるで車にガソリンスタンドのノズルから給油するように思っているようないいかただ。
そんなことは決してないのだが、確かに僕の子供のころは食事を楽しんで味わって食べるという雰囲気はなかったのかもしれない。喋りながら食べるのはよくないと思っていた。おいしいとも言わないが感謝していただくように教わったようだ。もちろん、まずいなどとは思うだけでとんでもないことだったと認識していた。おかげで何でもおいしくいただけるが、しかし味の感覚が少し劣っているのかもしれない。作る人からすれば手応えがないのかも知れない。
 朝のコーヒーがはいると、僕はパソコンのメールチェックをしたり、インターネットのニュースに目を通しながら左手のコーヒーカップを傾けながら右手はマウスを動かしている。そんなとき、妻の声が後ろから聞こえる。「コーヒーは一緒に飲みましょう」と笑っている。「あ、ごめん」といって席を移るが妻が三口もしないうちに僕は飲み終わっている。そして所在なくそわそわしている。コーヒーは水分の補給ではないのだと最近になってわかった。何もしない時間を共有する心地よさが少しわかってきた。あとの食事も少しゆっくり、味わっておいしくいただく、それに軽い話も大切な食事の時間だと思うようになったのはありがたい。
 食べることでの習慣で、この他にもう一つ、三年前から気づいたことがある。僕は三度の食事を決まった時間にきちんと食べるということに疑問を持つようになった。自然の動物は、食べたいときに食べる、と言いたいのだが、そうではない。いつも腹を空かしているのが普通だろう。ライオンやワニのように食いだめするのもいるだろうが、おおかたの動物は鳥も猪も魚も一日中食べ物を探し続けている。おおかたの人間だけが食事を決まった時間に三度も食べている。それで僕は時間が来たからでなく腹が減ったら食べることにした。さらに、ときには腹が減っても食べないで空腹を体験して感じるようにした。すると、この方が体にいいことがわかった。 
 先日、次男夫婦からバーベキューをしようとの誘いがあった。夕日がまだ西の空にあったが花冷えというのだろう寒かった。厚手のコートを着込んで割り当てのオニギリを籠に入れて運んだ。敷地の中の大きなシダレサクラの下にテーブルが出してあった。息子の嫁の父親が炭の火をおこしていた。僕は手近な竹を切って火吹き竹を作って焚き付けを手伝った。すぐに嫁のお母さんと嫁と次男が食材や飲みものを抱えて家から出てきた。みんな楽しそうに笑っていた。たまたま妻の弟たちが来ていたので飛び入りで参加した。 
食事を毎日いつも一緒にすることは家庭を形成する根本的で大きな要素なのだろう。夫婦が家庭を作ってそれが集まって家族ができる。家族が食事を共にすることは家族を形成するための必要な基本的な条件ではないのだろうかと思う。食べることは人が生きていくために必要な栄養素を取る大切なことだが、そのこととは別に、それを一緒にすることで、回を重ねることで人と人のつながりに、かかわり合いに段々に近くて濃い関係ができてくるような気がする。
夫婦がお茶を飲むのは水分の補給とは別に、お茶の時間で今という時間を共有することなのだろう。今が連続して月日がながれて夫婦はともに歳をとっていくのならコーヒーをパソコンと向き合って飲むのはやめようと思う。そこにほのぼのした言葉があればよし、ことばはなくてもコーヒーの時間は心をともにすることが大切だとわかった。そのうちにコーヒーの香りやあじわいがもう少しは分かるようになるかもしれない。 
                      平成二五年四月四日