ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

きょうのエッセイ教室は貝原益軒について書いた。

いつものように書き終えて、妻に見てもらうと機嫌が悪くなった。。

テッセンの花が咲いていた。 二枚目に撮ったのはホワイトバランスの設定がまずかった。

ベレンダに小さなバラが咲いている。見ていると楽しくなる。


今日出したエッセイの原稿は、
 
    貝原益軒について                  中村克博


 朝起きて散歩に家を出て歩くと旧国道が交差している。車はめったに通らない。二、三年ほど前に八木山バイパスの通行が無料になって、この旧国道は車の量が少なくなった。タヌキやイタチが撥ねられたのを見かけるので夜はイノシシやシカなども往来に利用しているのだろう。この道を横断すると、広くはない高原の田園風景が広がり、今ごろは田植えを終わって間もない一面の水田が朝日を映している。すぐに八木山川にさしかかる。旧国道から山麓までの中間地点だ。その橋を渡って農道を左折すると間もなく右手に大きな石碑が見えてくる。この四十坪ほどの石垣の宅地は貝原益軒が八歳から十一歳まで生活した場所らしい。八木山は益軒が幼少の時期、貝原家の知行地だったそうだ。この道は僕が散歩のときによく通るのだが、これまで貝原益軒については、せいぜい養生訓とか「接して漏らさず」とかに思い当たるくらいでそれ以上は考えたことは無かった。  

 戦後七十年たって、日本国憲法の改正がこれまでとは違う機運で政治課題になっている。ここに来て国のありかたが、あらためて不可欠な条件として問われているのだと思う。皇位継承について国民の関心が高まっている。民間では後継者問題で企業の経営危機がしばしば起きている。大企業でニュースになったのだけでも大塚家具にロッテ、出光興産、セブン&アイホールディングスなどだが全国の中小企業では枚挙にいとまがないだろう。もっと視点を下ろしてみると、親と子それぞれの家庭のありかたや夫婦の関係にまで行きつく。社会が大きく変わるときには国の寄って立つ基本的な条件も変わるのだろう。家庭での秩序や夫婦のかかわりも根本的な考え方が見直されねばならないのだろうが、こうなれば相続税や家族制度との関りも出てくる。憲法だけでなく民法のありようも考えを問われるのかも知れない。

 貝原益軒の著述に女大学というのがある。僕は「女大学」という書き物があったのは知っていたが、それが貝原益軒のだとは知らなかった。まして読んだこともなかった。それを今回読んでみて驚いた。四千字ほどの文章だし、わかりやすく簡易なのですぐに読める。
 読んでみて、びっくり驚いたのを幾つか抜粋すると、
出だしの、次の文章などは、まだ良い方だが、

   女子は成長して他人の家へ行き舅姑に仕える者なれば、男子よりも親の教えをゆるがせに(=安易に)すべからず。父母が寵愛して自由に育てれば、夫の家に行って必ず気随(=きまま)に振る舞い夫に疎まれ、また正しい舅の教えを耐え難く思い、舅を恨み誹って仲が悪くなり、ついには追い出され恥をさらす。女子の父母は、自分の教えなきことを言わずして、舅夫が悪いとのみ思うは誤りなり。これみな女子の親の教え なきゆえなり。

女は形(=容姿)よりも心の勝れるを善とすべし。心映えの悪い女は心騒がしく、眼を恐ろしく見出して人を怒り、言葉が荒く物の言い方が悪く、口聞きて人に先立ち人を恨みねたみ、我が身を誇り人をそしり笑い、自分が人に勝ったという顔でいるのは、みな女の道に違えるなり。女はただ和らぎ従いて、貞信(=まこと)に情け深く静かなるをよしとす。
 僕でも、これは、なるほどと思えるところもあるが、

 それでは、この教えはどうだろう、
   婦人は別に主君なし、夫を主人と思い敬い慎みて仕えるべし。軽んじ侮るべからず。総じて婦人の道は人に従うにあり、夫に対するに顔色言葉使い慇懃にへりくだり、和順(=素直に従う)なるべし。おごりて無礼なるべからず、これ女子第一の務めなり。夫の教訓あればその仰せに背くべからず。疑わしきことは夫に問うてその下知(=指揮)に従うべし。夫が問うことあれば正しく答えるべし。その返答がおろそかなるは無礼なり。夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従うべし。怒り争いてその心に逆らうべからず。女は夫をもって天とす、返す返すも夫に逆らって天の罰を受けるべからず。

悪しからず先にまいります。
   嫉妬の心、ゆめゆめ起こすべからず。男が淫乱なれば、いさめるべし。怒り恨むべからず。妬み甚だしければ、その気色言葉も恐ろしくすさまじくして、かえって夫に疎まれ見限られるものなり。もし夫に不義、過ちがあれば、自分の顔色を和らげ、声を柔らかにして諫めるべし。諫めを聞かずして怒れば、まずしばらくやめて後に、夫の心和らぎたるときに、また、諫めるべし。必ず気色を荒くし、声を荒らげて夫に逆らい背く事なかれ。およそ婦人の心ざまの悪い病は、和らぎ従わざること、怒り恨むこと、人を誹ること、物妬むこと、知恵浅きことなり。この五つの病は十人に七、八人は必ずある。
そうか…ひょっとして、この時代の女性…益軒がこうまで言わねばならないほど奔放自在だったのかもしれない。標語など、およそ人が出来ないことを書いてあるもんだ。では次ぎに、
    女は陰性である。陰は夜で暗い。だから女は男に比べて愚かで、目の前のしかるべき事も知らず、また人の誹るべきこともわきまえず、わが夫わが子の災いとなるべき事も知らず、罪もない人を恨み怒り呪詛し、あるいは妬んで、自分が一人立派と思っても人に憎まれ疎まれてみな我が身の仇となることを知らず、たいそう、はかなく浅ましい。

    子を育てても愛におぼれて行儀悪く、このように愚かだから何事も我が身をへりくだって夫に従うべし。昔の法律に「女子を産めば三日床の下に寝させる」という。これも男は天で女は地を象徴するから、すべてのことについて夫を先立て自分を後にし、よいことをしても誇る心なく、また悪い点があって人に責められても争わず、早く過ちを改め、何度も人に言われないように身を慎み、また人に侮られても腹立ち憤ることなくよく堪えて物を恐れ慎むべし。このように心得れば、夫婦の仲おのずから和らぎ、行く末長く連れ添って家の中が穏やかなるべし。

   右の条文は幼いときからよく教えるべし。また書き付けて折々読ませ忘れることなからしめよ。いまの世の人は、女に衣服道具など多く与えて婚姻させるよりも、この条文を十分に教えることが一生身を保つ宝なるべし。昔の言葉に「人は百万銭を出して娘を嫁がせることは知っていても、十万銭を出して子を教育することは知らない」という。誠なるかな。女子の親たる人、この真理を知らなければならない。

まあ、以上のような論調ですが、
貝原益軒は一六三〇年一二月一七日(寛永七年一一月一四日)に筑前国福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。一七一四年(正徳四年)に没するとある。元禄年間は一六八八年から一七〇四年だというから元禄時代の真っただ中に生きた人のようだ。徳川家が幕藩体制の基礎を整えて政治の基調が武断政治から文治主義に転換する時期だ。経済は農業生産が増大し、貨幣経済が発展し商品の流通が急速に拡大していた時期である。江戸、大阪、京都ばかりか地方の都市も繫栄して武芸を励み軍事にたずさわる武士の存在意義が問われ新たな道徳規範が必要になった頃だった。
大阪夏の陣が一六一五年(慶弔十九年)に終わり徳川政権になって七十年あまり、現在と同じように長らく平和で豊かな社会が続いたが、いろんな歪みも大きくなって、ここらで新たに社会の仕組み作りが必要になった大転換の時期なのかも知れない。
平成二十九年五月十八日