ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中、エッセイ教室にでかけた。

昨日の大雨にかわってカンカン照りだった。

床の間に自分で花をいけていたら、満開になっていた。

今日、提出した原稿は、


     名刀雪隠忠義              中村克博

福岡藩伝の柳生新影流を習っている。いまだに下手くそだが、飯塚から一時間ほど車を運転して大濠の福岡武道館にある柳心会の道場まで毎週金曜日、通い続けて六年になる。道場では模擬刀を使って稽古していたが、どうにか基本刀法の形だけは真似ることが、できできるようになったころ、
師範から脈絡もなく、
「まだ真剣を使ってはいけませんよ」と言われた。
 なぜ、真剣を使いたい僕の気持がわかるのだろうと思った。
「そうですか、まだですか…」
 少し不服そうに聞こえたのか、
「そうです、思わぬ怪我をしますよ」
ところが実は入門して一年もしないうちに、家での稽古には真剣を使っていた。茎(なかご)を擦り上げた無名だが保存刀剣の鑑定書が付いたのを数振り、とっかえひっかえ振り回していた。ところが、いつものように座敷で正中一文字を斬り下すべく抜刀したときに左腕の肘に近いところに切っ先が突き刺さった。無名だが鑑定では志賀の関とある反りの深い刀だった。
怪我をするときにはよくある現象だが、このときも時間がスローモーションで流れた。ゆっくり、尖った切っ先が腕の中に一センチほど入っていくのが左目に見えた。しかし大した出血もなくバンドエイドを十文字に張っていたら治った。ほまれ傷が今でも半袖からのぞいている。師範の注意を受けて一週間もしないうちだった。いまだに師範には内緒のはなしだ。
そのころ、インターネットの刀剣オークションで和泉守兼定を手に入れていた。少し擦り上げてあるが二尺四寸ほど、銘はしっかり残っている。切っ先から二筋の樋が茎の中まで通り、大丁子乱の波紋で反り八分五厘、身幅があり美しい刀だが、鑑定書がないので真贋のほどは定かでない。
家の稽古では、もっぱらこの兼定を使っていた。この刀が気に入って、行きつけの刀屋で拵えを新調した。柄も鞘も新しくなり鍔はいろいろ取り換えて楽しんでいた。家では振り回していたが、どうしても道場の稽古で使いたくなった。ある日の稽古が始まる前に、師範の前を素通りして宗家のところに刀を持って座った。
「宗家、兼定です」と差し出した。
宗家は刀を押し頂き、刀を両手で捧げて深々と頭を下げて、作法にのっとって刀身を抜いて拝見していた。
「みごとな刀ですね。いやぁ、すばらしい」とありがたいお言葉だ。
 すかさず、お伺いした。
「宗家、この刀を道場で使ってもいいでしょうか」
「もちろん、結構です。気をつけてお使いください」
「そうですか、ありがとうございます」
僕はうれしくて、頭を下げて斜め後ろにいた師範を見たら、苦笑いしているようだった。その日から数年、僕は道場で兼定を使っている。三年ほど前だった、英彦山神社の奉納で巻き藁の斬試があった。左右の袈裟斬りが、気負いなく素振りのように刃が通った。
床几に座った宗家の声が、
「おみごと」と、すがすがしく聞こえた。

最近になって和泉守に飽いたわけではないが、ちがう刀を振って見たくなった。僕の友人の先輩は毎週の稽古に違う刀を持ってくる。しかも二振りも持ってきて稽古の途中で取り替えることがある。まるで技に合わせて取り替えるようだ。なるほど愛洲移香斎のころの影流は反りの深い長身の太刀を使うはずだ。そうか、戦国末期と幕末でも刀法も刀の姿も違うだろう。
僕は肥前忠吉を持っている。白鞘に入っているので居合の稽古に使うには拵えを作らねばならない。鞘書きがある。肥前国忠吉 初代 刃長二尺三寸 と書いてある。茎を見ると目釘穴は二つ、元穴は金で埋めてある。ところが鑑定書は三代になっていたようだ。これに拵えを作ろうと、先の友人に話した。
「えっ、それはすごか、しかし、もったいのうはなかですか」
そんなにいいものか、もったいなくはない、刀は使って意味がある。反りは六分五厘、研ぎ減りはないが身幅は一寸ほど、のたれの直刃で品がいい、刀なのに、観ていて心が安らかになる。
刀屋に拵えの製作を依頼しようと電話した。
「中村さん、それが、ほんとうなら、やめたがいいばい」
「なんで…」
「その刀は四百年も人が大事に伝えたとばい。あんたは、今それを預かっとうだけばい。まだ何百年も伝えなならん。立派な拵えば作って、何かの日に床の間に飾っとくならいいばってん。居合にあんたが使うちゃならん」
「そうですか…」
 そんなにいいもんだとは、業物とは知っていたが、さっそく出してきて鞘を払った。そう言われれば、そんな気がしてきた。黄色い封筒に入った保存刀剣鑑定書を開いてみた。あれ〜、銘 肥前国忠吉(五代)と書いてある。なんだ、五代か、初代でも三代でもないようだ。
そのことを、先の友人に話すと、
「忠吉の四代か五代、それは確か…、雪隠忠義というイワレのあるもんです」
「なんですかそれは、雪隠、セッチンですか」
「そうです。不義をはたらいた女房を間男ともども雪隠にまで追いつめて四つにしたとですよ」
「えっ、そげな刀、たまらんですね」
 後日調べたのだが、雪隠忠義は四代だった。僕のは五代だから雪隠ではないが、その嫡男が打った忠吉のようだ。忠吉は初代と三代が重要文化財級で四代は大業物、そして五代はどうなのか知らないが、きっと夫婦仲の良い円満な家庭大事の跡取りだったのだろう。これなら稽古に使えそうだ。
                         平成二十八年六月三十日