ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

今日、七月二日金曜日は「きらくにエッセイ」の教室にいった。

栄西と定秀と為朝」の続きを提出した。


      栄西と為朝と定秀(つづき)           中村克博


 丁国安は先ほど閉めたばかりの扉の方を見ていた。扉を通して外の様子を見ているようであったが、やおら扉に近づいて取っ手に手をかけ部屋にむかって言った。
「風がつよくなりそうですね。うねりも大きくなります。帆の風を少し抜きます」
 扉を半分ほど開いて慎重にするりと出ていったが外の明かりと一緒に風が吹き込んできた。丁国安が船尾楼の艦橋の手すりから主甲板にいる水夫頭に何やら話すと納得した水夫頭は大声で前に向かって指示を出した。出された指示は復唱するように水夫から水夫へ次から次に前へ前へと伝えられていった。まず前の帆の帆脚綱(ほあしづな)が徐々にゆるめられ、さらに主帆の帆脚綱を調整すると帆が受ける風が抜けて船足は少し落ちたようだが船の傾きがなくなった。
 丁国安が船室にもどると四人は椅子に座り卓を囲んで談笑していた。それぞれが茶碗を手に持って揺れを防いでいた。椅子も足の長い円卓も床に固定してある。椅子の背もたれは船が揺れたとき歩いている人が手をあずけて体をささえる役目もする。天井は低くて為朝の烏帽子がとどくほどだが、その天井には握るに具合のいい綱が部屋の端から端に二か所わたしてある。ところどころに鉤を通して綱にたるみをつけて、海が時化たときに手を伸ばして体を支持する工夫である。丁国安は部屋に戻ってきたが、みなの会話に気づかって軽く頭を下げて椅子に座った。栄西は持っていた茶碗を円卓に置いて問いかけた。
「風が強まったようですが、空もようはいかがですか」
「北風が少し強くなりましたが、いい風です。西から雲が出てまいりました」
「あなたさま、てみじかなお引き合わせはいたしております」
「申し遅れました、為朝様。これは、わたくしの女房でございます」
「先ほど、うかがいましたよ。海がお好きなようですね」
「宗像神社に属する宮司の娘ですが航海が好きなようです」
「私は綱首の妻ですからね。でも、まだ宋の国にはいったことがありません」
「宋は北や西で戦乱が続いていますし、金や高麗の海賊もおります」
「臨安には、あちらのご家族もおられます。いちど、ご挨拶したい」
 風は一段と強くなったようだが船は安定して走っていた。くりかえす北西からのうねりに船は大きく上下するが、それもゆったりとした裾野の長い波で円卓におかれた茶菓子も煎じ茶もこぼれる心配はない。二十歳前とおもわれる女は火床に掛けてある茶釜から湯を薬缶に継ぎ足していた。火床は船の揺れに応じて水平が保てる工夫があった。
「こちらは芦辺の姫と申され馬の扱いが巧みです」
「先ほどは粗相いたしまして、お許しください」
壱岐は駿馬の産で知られております。宇治川の先陣を争った生月(いけずき)と磨墨(するすみ)の名馬もともに壱岐の産です」
「聞いております。鎌倉の頼朝殿に献上された馬だそうですね」
「芦辺の姫は前もって為朝様にお目通りするため前日から唐泊に来ておりました」 
「そうでしたか、私に会って、いかような思いたちですか」
「それにつきましては壱岐の館にて姫の父上から願いがあります」
 為朝は丁国安の言葉を聞き流すように、女をかばうような眼差しでといかけた。女は椅子に端然と座って、膝に置いた両手に持つ自分の茶碗を見つめていた。 
「芦辺の姫、ちか殿といわれたな。ちか殿は馬に乗るのですか」
「はい、幼いころから馬と遊んでおりました」
「お父上は馬をたくさん育てておられますか」
「はい、馬もおりますが、牛がもっとたくさんいます」
「京の都で牛車をひいておるのは壱岐の牛が多いと聞いております。私の宋船でも若狭の小浜港まで壱岐の牛を運んだことがあります」
「若狭にまで、そうですか、宋と博多の交易だけではないのですね」
「はい、そのおり京の都にも行ったことがあります。栄西様、博多とはおもむきが違いますね」
 栄西は丁国安の妻と談笑していたが、その良人から自分の名を呼ばれて飲み干した茶碗を円卓に置いた。芦辺のちかは静かにそれをとり茶こぼしに傾けて薬缶から熱いお茶を注いだ。 
「博多は南宋の臨安や明州の街並みによくにております。さらに鎌倉の指図で袖の港一帯が整えられています」
「鎌倉も宋から建築の工匠が多く、にぎやかになっているそうですね」
「おおくの禅僧も移住しております。その中には名だたる高僧も数名おられます」
「想像できますね。まるで宋の建物を、街並みを移してきたようでしょうね」
「建物だけではありませんよ。お茶のたしなみもおなじです」
「そうですか、私が宋から運ぶものは青磁白磁、花瓶、香炉のほか、古書などの読み物がおおい。とくに銅銭を一隻に八〇万枚とか百萬枚も運んでまいります」
「日々の生活で使う器具も知識や考え方も、それに物や用役をあがなう貨幣もおなじとなれば、言葉が違うのが不思議なくらいです」
「私の国の北は異民族の金に半分とられ、今は南宋だけが唐からの文物をつないでおります」
「唐から宋へとつちかってきた文物は博多や鎌倉に伝わっておるわけです。特に博多は香椎や箱崎、それに袖の港の一帯は宋の街ができておる」
 栄西と丁国安の話を三人は息をのむようにして聞いていたが、為朝がおもむろに訪ねるように話にくわわった。二人の女は為朝に目をうつした。
「私が熊野におりましたころ、九鬼の水軍は村上や、この地の松浦の水軍と一緒になって、あるいは単独で金国のある北の海に出かけておったようですが、そこでの仕事をしては蝦夷津軽十三湊にはいったようです。その津軽十三湊も私が想像するに博多の街と同じような様子ではないかと、お話を聞いておるうちに思いました」
「そうだとおもいます。宋の北が金に侵されると対岸の津軽にたくさんの人々が移住しました。それを安東の武力が擁護するさまは、博多を平家が、そして今、鎌倉が警護するのにおなじ仕組み、もくろみです」
                           平成二五年八月一日