ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中はエッセイ教室に行った。

昨日までの暖かさから急に冷え込んだ朝だった。
今日のエッセイはこんなだった。


        わからなくてもいいこと           中村克博


先月だった、妻が友人宅で体験した不思議な現象を話してくれた。これまで何度もおとずれて見慣れている部屋にオブジェのように置かれている漢和辞典があるそうだ。百年はたってそうな大きな本はかなり傷んで背表紙と本体の綴じ目も離れている。それを、なぜか思いついて写真に撮ろうとしたらしい。スマートフォンを向け本を開いて構図を決めようとしたら、本のまわりから沢山な光る白い物体がシャボン玉のようにわき出たらしい。咄嗟のことに呆然か唖然か感動が入り混じったようで、あわててシャッターを押すと二個だけ写っていた。それを見ていた妻の友人も驚いて理解不能な現象にふたりして戸惑ったらしい。この漢和辞典は妻の友人のお父さんが長年使っていた古い遺品だそうだ。妻の友人にもうすぐお祝いごとがあるのできっとお父さんが祝福してくれたのだろう。と二人は納得したらしい。
これはひと月ほどまえの話だが、その日、僕はその写真をパソコンに転送してもらった。確かに、シャボン玉のようなのが薄く光っている。机にその影が写っているようなので物体があったのには違いない。それから数時間、なぜだろう何だろうと、思い出してはなやんでいた。夕方になって、な〜んだ。そうだったのか、と思いついた。しかし偶然おきた現象でも啓示だと思えばその方が楽しい。あまり自分の仮説を言わないほうがいいだろうと思った。清らかな情緒に確信できない理屈で水を差すのはいいことではない。世の中、神秘なこともあるほうが面白い。と思っていた。
ところが今日あらためて、その写真をよくよく眺めていると、ぼんやり光る玉はどうも思っていたより大きい。一緒に写っている算盤や矢立のようなものと比較するとテニスボールほどもありそうだ。小さいのでもピンポン玉くらいありそうだ。それに影だと思っていたのは、色は薄いが三個めの光る玉かもしれない。よく見ると右端にも薄らともう一個みえるようだ。妻の話によるとそんな光る玉がふわふわと大きいの小さいの、強く光るものぼんやりと光るものが湧き出るように数えられないほどたくさん漂いでたらしい。それらがシャボン玉のように流れてそのうち消えたそうだ。僕は、この話を聞いた時に頭からそんなことあるはずがないと拒否して聞いていたようだ。自分で納得できない話だが実際に起きた事実があるので、何とか理屈を考えたようだが、どうも、先日の僕の推理は間違っていたのかもしれない。
そのときの僕の推理はこうだった。一〇〇年まえの漢和辞典はボロボロになるほど使われていて壊れそうで長い間、机におかれたままで誰も触ったことがなかった。それを何を思ったのか妻が写真を撮ろうとスマートフォンを構えて大きな本の紙面を開いた。そんな分厚い古い本を片手で開けばホコリが舞い上がるだろう。写真を見ると本には光があたっているようなので舞いでたホコリに光が反射したのだろうと思っていた。しかし、それにしては光る玉が大きすぎはしないか、物体自体が反射して光るのなら、目に見えるのは物体の形に近いはずだ。であれば写真の物体はどう考えても漂うホコリとはおもえない。物体のピントが合っていないことも考えられるが本の手前から奥の方の算盤まではっきり写っているのでカメラの絞りは小さくて被写界深度は深いようだ。簡易カメラの特徴で近くも遠くもピントが合ってボケはでにくいはずだ。
オーブ現象というのがあるらしいが、これもその例なのだろうか、オーブと言われる写真の多くが雪の反射だったり、霧や小雨の反射だそうだが中には説明のつかない物体が写っているのがあるそうだが、今回、妻と友人が見たものは現実に目視されたものが写真にも写っていたことになる。困ったことだ。今のところまだ説明がつかないでいる。
妻もその友人も、きっと故人が我が子を祝っている吉祥だとしているので、それでいいのかもしれない。なんでも、わかろうとしないほうがいいのかもしれない。文明が発達して科学が進歩して日食や月食のことも天気予報も人間の体を分子や原子のレベルまで分類しても、まだまだ解明できないことは宇宙のように無限にあるだろう。自分が認識できる範囲が自分の世界なのだろうが、そんな理解の範囲はゴミほどちっぽけなものだ。世の中には理解できないことはあるのだという謙虚さが大切なのかもしれないと思った。妻の友人は多くの友人に祝福されてドイツに出て立った。これからの人生をそこの国の人として暮らすことになるのだろう。人生を共にする伴侶のもとに行くおめでたいことなのだが、僕にはとうてい汲み取ることのできない心細くて深刻な決心だったのかもしれない。一昨日だった。妻にドイツに行ったその友人から携帯にメールが届いていた。それには、こんな文章が書かれていたようだ。
ごきげんよう。なによりも、快活でいらっしゃるように。人生をあまり難しくかんがえてはいけません。おそらくほんとうはもっとずっと簡単なものなのでしょうから。』
チェーホフの手紙にあった言葉らしい。過去からのメッセージにはいろんな方法がある。どう受け止めるかは人それぞれだろう。これは僕が悩んでいる「ふわふわ湧き出た白い玉」のことを言っているのではないが、なるほどと思った。わからなくてもいいこともある。少なくとも人が真摯に受け止めて元気な気持ちになっているならそっと見ているがいい。自分が理解できないことを否定するのは間違いだ。分類しなくても分析しなくても、いい解釈ができるのならそれでいいのだと思った。 
平成二五年三月一三日