ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

エッセイ教室の後、ハーバーに行った。

午後からも、ずっと小雨が降っていた。気温は8度ほどだった。

程よい風が吹いていたが、船の出入りはなかった。

もうずいぶん「ひらひら」でセーリングしていない。

舫いが擦り切れていた。補強しておいた。

もう少し大きなロープにしたほうが良いと思う。


今日のエッセイはこんなだった。



飢餓海峡」をDVDで観た。               中村克博


子供の頃には映画館が飯塚の街中に何軒もあった。その町ではモダンな建物だった。正面には大きな看板がかかっていて、映画の主要な場面がペンキで天然色に描かれていた。拡声器で上映中の主題歌や映写場面の大きな音を流していた。近くの別の映画館からも同じように拡声器の音が響いて、それが重なるほど近くに何軒もの映画館があった。「飢餓海峡」の看板が当時の自宅の二軒隣の映画館に大きく掲げられていたのを今でも覚えているが入場はしなかった。興行は一九六五年(昭和四〇年)、主演・三國連太郎、出演・左幸子伴淳三郎高倉健などの名前があったと思う。監督は内田吐夢内田吐夢は戦前からの映画監督で一九四一年(昭和一六年)に、満州映画協会に所属した。終戦後も共産中国に留まって一九五四年(昭和二九年)に復員して東映へ入社した。このエッセイを書きながら思った。この映画には内田吐夢の込められた意図があるような気がする。内田吐夢満州にいた一三年間が想像できれば、その思わくが理解できるような気がした。


満州映画協会、満映満州国と満鉄が五〇%ずつ出資した映画会社で看板スターは李香蘭であった。初代会長は川島芳子の兄で清朝の皇族金壁東だったが、満州国国務院甘粕正彦を二代目理事長に据え、満映の改革に乗り出した。この人事には当時の国務院高官だった岸信介(東条内閣の商工大臣、戦後は五六代内閣総理大臣)の口添えがあったという。甘粕正彦は、陸軍憲兵大尉当時、関東大震災戒厳令下で無政府主義者大杉栄らの殺害を行った(甘粕事件)とされる。服役三年後、一九二七年七月から陸軍の予算でフランスに留学する。
一九三〇年(昭和五年)フランスから帰国後すぐに満州に渡り、奉天関東軍特務機関長土肥原賢二大佐の下で情報・謀略など関東軍の特務工作を行うために甘粕機関という民間の特務機関を設立する。天津に幽閉されていた清朝愛新覚羅溥儀を極秘裏に救出した。一九三二年(昭和七年)の満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官に相当)に就任、表舞台に登場する。
一九三九年(昭和一四年)満州映画協会理事長を務め、一九四五(昭和二〇年)年八月二〇日の終戦直後、ソ連軍の新京(長春)侵攻を確認して服毒自殺した。内田吐夢は股ぐらに甘粕を抱いて最後を看取ったという。

この時代の歴史は未だに定まってはいない。一九三七年(昭和一二年)から始まった日本と中華民国の間で行われた支那事変は今では日中戦争というらしいが他に北支事変、日華事変、日支事変といろいろ言い方はある。戦端となった蘆溝橋事件そのものがスターリンの謀略だったとの資料がロシアやアメリカ、イギリスから出てきているらしい。これまで関東軍参謀の河本大作によるとされた張作霖爆殺事件が最近のロシアの情報公開でソ連陸軍特務機関の犯行とされている。上海事変は実際にはどのようにして起きたのか、それに続く南京攻略戦までの実態、今ではアメリカのプロパガンダであったとアメリカ政府が認める南京虐殺の捏造はどのようにして歴史的な事実になったのか。無限にある状況から必要なものを取捨選択できるなら結論を誘導するのは創作者の仕事だ。まして、でっち上げられた虚構を証拠にすることになれば事実などどうにでもなる。


昭和二二年九月二〇日の台風の直撃を受けた青函連絡船が転覆して乗船客五三〇人の犠牲者がでたその日、落ち着かない様子の三人の男が列車で青森に向かっていた。服装は陸軍の戦闘服のようで二人は軍帽を被り、大男の一人はぼうぼうの髭面に手ぬぐいの頬かむりをしている。二人のうちの一人が持っているズックの鞄は大きく膨らんでいる。中には質屋を襲ってその家族を皆殺しにして手に入れた大金が入っていた。三人の乗る列車はこの日の海難事故で函館からは運行停止になる。海難事故のあと、犠牲者の中に引き取り手のない二体の遺体があった。映画「飢餓海峡」はそこから物語が始まる。
一〇年後、舞鶴で食品会社を経営する実業家が刑余者更生事業資金に三〇〇〇万円を寄贈したという記事が東京の新聞に掲載される。八重はその記事の写真を見て驚愕する。一〇年前、下北の花屋という赤線宿で一夜のお客になった犬飼太吉だと直感する。別れ際、犬飼は八重に一掴みの札束を置いて行った。大金である。八重は後を追ったが犬飼の姿はもう無かった。
八重は舞鶴へ向かった。あの日のお礼が言いたい。それより一〇年想い続けた犬飼にひと目会いたい。立派な屋敷の応接間で待つ八重の前に、口髭をたくわえた大男の樽見京一郎が渋い着流しの姿で現れた。「犬飼さんですね、お懐かしゅうございます」八重はしみじみと礼を述べたが、樽見は、人違いだ、自分は樽見京一郎であると言い張った。八重は否定する樽見ににじり寄りしがみついた。樽見ともみ合いになる。それを樽見の書生が目撃する。
海岸で男女の死体が発見された。女は樽見の新聞記事を身に付けていた。樽見参考人として地元警察の取り調べを受ける。樽見は事件との関りを否定するが、死んだ八重の荷物の中にあった爪を樽見のモノだと告げられ留置される。
青函連絡船の甲板に刑事達に付き添われた樽見がいた。一〇年前、この事件を担当した元刑事の弓坂が航跡に献花を手向けた。樽見にもうながして経をあげる弓坂。樽見は花束を手にして、それにならおうとしたが一瞬、デッキの欄干を乗り越えて花束を持ったまま海峡に身を投じた。


この映画は監督である内田吐夢が吐露した後世への「ことづて」のような気がする。どんな人でもみんな生きるのに懸命ではないのか、自分のすることを否定しながら行動する人はいるのだろうか、今が昔を裁けるのか、理想や正義は時代や国によって異なる。歴史の審判は誰がするのか、を問いかけているような気がしたが、それらへの答えなどはわかるはずがない。 
平成二四年三月一四日