ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

テーマは、サマディ Samadhiについて理解することを・・

奥中ヨガ教室の指導者養成コースが来月でおわる。
最終レポートを今週中に提出しなくてはいけない。
この種のレポートを書くたびに思うことだが、題材について言葉の語彙的な意味はわかる。
ところが、自分自身が体得したこと、となると皆目分からない。わからないでも書かねばならない。



レポートを書こうと思って、こんな事をランダムに思い出した。
何も考えない、実在とは今を観ること。心はここに、足のあるところに。

求めない、願わない。あるがままに・・
虚勢を張らない、力まない。あるがままに・・
はからない。とらわれない。あるがままに然らしむ。

エネルギーは食べ物と呼吸から、それが適切でないと体にそれを知らせる症状が出る。
上虚下実、気を丹田に・・


では、僕のサマディを書こう。
ヨガを初めて2年と10カ月になる。初めは脳梗塞による後遺症の機能回復を図るために
はじめたのだが、現在は運動機能も体力も脳梗塞になる以前よりずっと良くなっている。
最近ではヨガそのものが楽しいし、喜びや驚きの時間になっている。


60年も生きていればどんな丈夫な人でも骨格は狂っている。
それを修正するのもヨガのとりあえずの目的だと思う。人それぞれ、長い年月の生活習慣は
いろんな癖を作る。仕事中のいつもの姿勢、行動するときの決まった仕草、とらえ方や考え方
の特徴、それらは長年にわたって各部位の骨格に影響を与える。その結果、骨格は徐々に
ゆがみを起こす。そして、その事は人それぞれの性格や心理状態を形成する為の要素にも
なっているのだろうが、人によっては心身の不具合の原因になっている場合もあるのだろう。


骨格の狂いを修正するのは難しいことではない。
ヨガの修正行法、アサンスで動的ポーズ、静的ポーズをやれば、効果はすぐに出てくる。
狂っていた骨格が正しくなれば、それまで影響を受けていた体の症状も改善されるだろう。
驚くほど一時的には骨格の修正はできるが、残念ながら、すぐにまた元に戻る。
なぜなら筋肉や筋などは狂った骨格に都合を合わせるように調和しているからだ。
そもそも、骨格を狂わせた原因である長年の生活習慣は変わっていないのだから・・


正しい骨格の状態を維持するには・・
それにはヨガを続けて、修正した骨格の状態を維持、固定する事が必要になる。ヨガを生活の
中に取り入れ、楽しく、遊び心でできるようにする。はじめは意識して訓練する、鍛錬する
のだが、それが頭で考えずに努力とか修行とかではない無意識な心身の状態として、新しい
生活習慣になっときを、そのような状態をサマディと言うのだろうと思う。
日々の骨格修正の状態が日常になったとき、いつもやっていれば誰でもそうなるのだが、
3か月もそうしていれば・・骨だって元の正常な方が自然なわけで、収まりもいいはずだ。
新しい筋肉や組織が、組みかえられた元の正しい骨格に着いてくるのに数カ月かかる。
そうなった時には新しく正しい骨格は固定され、生活の習慣も正しく変わっているのだろう。


サマディは真の精神集中、行為と自我が一体になること・・
道元は、「威儀即仏法作法是宗旨」というように、坐るという形の、坐禅だけが仏道ではない。
すべての活動が仏道であるようでなければならない。と言っているそうだ。

白隠禅師も、同様のことを次のように言っていた。らしい・・
「さるほどに大慧禅師も動中の工夫は静中に勝ること百千億倍すと申しおかれはべり。
博山は動中の工夫成しあがらざる事、一百二十斤の重担を荷つて羊額嶺頭に上るが如しと申されき。
けだしかくいへばとて、静中を捨て嫌って、故意に動所を求めたまへといふのは非ず。
ただ動静の二境を覚えず知らぬほど、工夫純一なるを貴とす。」・・と。


老子の冒頭は、こんなだった。
道(みち)の道う(いう)可き(べき)は、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。
名無きは天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。故(ゆえ)に常に欲無きもの、
以て(もって)その妙を観(み)、常に欲有るもの、以てその徼(きょう)を観る。
此の両つの者は、同じきより出でたるも而も(しかも)名を異にする。同じきものは
之(これ)を玄(げん)と謂う、玄の又玄、衆妙(しゅうみょう)の門なり。


ヨガも、仏法も老子も、利休の言う茶の道も、言っている事は 同じなんだと僕は思っている。
サマディなのだ。それは、格式でも形式ばったことでも権威でもない。
はからない。とらわれない。あるがまま自然にと、先人の覚醒者は同じ事を言っている。
頑張らない。訓練しない。強制しない。無意識に。無我に。楽しく。好きなことを・・
しかし・・ そのためには意識を固く保って鍛練する時期が少しばかりいるのだろう。


そのためには、考えない・・ !
考えると心と体は分離する。行為と自分が離れてしまう。
実在とは今を観ること。心はここに、足のあるところに。できれば素晴らしい。
何かしている時にはそれに集中する。のだろうが・・それが僕には難しい・・・
もちろん、思考するときにはそれに集中する訳だが・・ 未だに出来ない。・・
マ・・僕のサマディとはそんなところだろう・・・。
これをコピーして明日のヨガ教室に提出しよう。