父の源為義の求めに応じて京に上り崇徳上皇にお味方するまで
ここ豊前の鎮西原城に住んでいたらしい。最近まで知らなかった。
飯塚市から車で30分ほど、現在の地名は田川郡香春町大字中津原412
城跡から香春岳がよく見えた。セメント原料の石灰岩を50年以上も採掘した。
為朝のいた平安時代には今の高さの2倍はあったはずだ。奥に2の嶽が見える。
為朝の居城の跡地に石碑があった。大正四年十一月 田川郡立農林学校と書いてある。
跡地には農林学校があったようだ。今は廃校になって校舎の建物が残っていた。
九州をほぼ制圧し終わって、統治の拠点としたのが田川だったのだろうか...
居城跡の近くに鶴岡八幡社という神社があった。仁平二年(1152)
為朝が豊後の臼杵からこの地に移って、源氏の氏神である鎌倉の
鶴ケ岡八幡宮から分霊を御勧請して奉斎したらしい。
神社の石段を昇っていった。神社の敷地はどこでもそうだが、清々しい気持ちがした。
本殿は何度も何度も建て替えられて今は鉄筋コンクリートだった。少々がっかりだ。
道路の排水菅の蓋に炭坑節の発祥地だと書いてあった。
筑豊は石炭の時代に、全国の消費量の70%以上を掘り出していたそうだ。
田川から飯塚に帰ってきて、地元の氏神様の曩祖八幡宮に立ち寄った。