ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

いけばな展を観に行った。

博多大丸の八階であっていた。

西日本華道連盟のいけばな展。写真を撮った。妻の作品はこじんまりしたのだった。

家で試し活けをしていた時は銅製の花瓶だったが水漏れしていたので花瓶を代えたようだ。




先週の金曜日はエッセイ教室だった。

八木山の歴史をしらべて           中村克博


 先週の昼すぎ、パソコンを開いて八木山の歴史について調べていた。めぼしい記事が出て来ない。これは八木山の古老にでも聞いてみないと分からんと思った。小学校横のおばあちゃんはどうだろう。ときどき畑の菜っ葉や沢庵漬けを手土産に母を訪ねて来るが、いや、リンゴ園のおじいちゃんがいいかも知れない。今は隠居してデイケアに行っているが長いこと村の世話役をしていた。
腹が減ったが今日は妻がいない。近所のラーメン屋に出かけることにした。久しぶりに天気がいい。風は冷たいが日差しは暖かかった。看板メニューの八木山味噌ラーメンにしようと思ったが、 
「味噌チャンポンとギョウザ」と注文した。
 カウンター席に顔なじみの長い髭をはやしたおじいさんがいたので挨拶した。ラーメンを食べ終わったようで厨房向かって料理人のお兄さんに大きな笑顔で話しかけている。お兄さんは両手を前にそろえて、かしこまるようにうなずいていたが、僕の注文を聞いて麺を手に取ってほぐし始めた。長い髭のおじいさんは、なおも話しを続けている。
 味噌チャンポンが出来て僕の前に置かれた。間もなく餃子も来た。まずギョウザにたっぷり酢醤油をつけて口に入れた。髭のおじいさんの話し声が聞こえる。
「石坂明神が〇〇〇・・・」
天正八年、大友宗麟が〇〇〇・・・」
 なんと、不思議なことだ。さっきまで僕が部屋で調べようとしていたことを、おじいさんがカウンター越しにしゃべっている。味噌チャンポンは野菜がたくさんだ。半煮えで歯ごたえがいい。それに汁がうまい。おじいさんは僕が聞き耳を立てているのに気づいて、厨房のお兄さんと僕の顔を交互に見ながら話し続けていた。僕は食べ終わって、おじいさんの横に坐りなおした。
「大きな一本松があってな○○○・・・」
「そうですか、大友と秋月が戦った千人塚がありますね・・・」
「ああ、千人塚はむかしアチコチにあった塚を一つに集めたったい」
「そうですか、入れ忘れた武者が一人おって、ときどき畑に迷って出とったのを、数年前に畑の持ち主が小さな石の祠を作っていましたね」
「そうな、そりゃ知らん」
「そうですか、ここに長く住んでいるのですか」
「俺な、俺で八〇〇年になるかな」
「えっ、そうですか、平安末期か鎌倉の初めですね」
「家の古文書で確認できるのは400年くらいやな」
 ラーメンもチャンポンも食べ終わって、二人はコップの水を注ぎ足して話していたが、いつまでも座っている訳にはいかない。
「僕は、鎌倉の初めの、この辺りのことを本にしています。読んでくれますか」
「ほう、そうですか」
「どちらに、お持ちしたらいいですか・・・」
「そんなら、今から俺の山に来んな」
「いまから・・・、いいですよ。ほんなら、いちど家に帰って伺います」

 峠の国道から急斜面につくられたコンクリートの坂道は勾配がきつくてローギヤで唸りながら上っていった。おじいさんはまだ帰っていなかった。頂上は広くならされて、右翼の宣伝カーや黒塗りの街宣バスが置かれていた。数頭の日本犬が檻の中にいて、不意な侵入者に警告のような吠え声をしばらく発していた。見晴らしがよくて飯塚の街が眼下に広がっていた。遠く田川の香春岳や、さらに英彦山の独特な稜線も小さく望めた。
 おじいさんが軽トラックで帰ってきた。横に乗るように言われてドアをバタンと閉めると勢いよく走りだした。まず、おじいさんの敷地内を案内するようだ。山をさらに上っていった。道路に舗装はなく、おじいさんの運転は慣れている道だろうが滅法に荒く山道を飛び跳ねるように走った。軽トラックは四輪駆動なのだ。高圧線の高い鉄塔が建っている。この辺りは九電の敷地らしい。コンクリートで舗装され、ヘリコプターが発着できるほど広かった。林道につながる鉄扉まで来ると軽トラックは狭い道を前後して向きを変えた。別の道を下って、間もなく奇妙な「お社」のような建物が見えてきた。車を降りて中をのぞいた。
「なんですか、これは・・・」
「炭鉱で大勢死んだ。その人たちを祀っとる」
「へぇ〜、そうですか・・・」
 お社は石炭をとったあとのボタ石を積み上げて作ってあった。僕は手を合わせてお辞儀をした。おじいさんもそうしていたようだ。採炭が盛んなころガス爆発や落盤事故でたくさんの人が亡くなった。筑豊の炭鉱で死んだ人を悼んで、後世の世代がそのことを忘れないように・・・。

 一通り山を案内したら、こんどは、軽トラックのおじいさんは急こう配の坂を下り左右を確認して国道に出た。そして飯塚の方に曲がると、すぐ左に折れて狭い間道を潜り込むように下りて行った。こんなところに道があったのかと思うような小道は樹木でうっそうとして薄暗かった。二階建ての古い建物があった。軽トラックはそこで止まった。
 この家は昔、旅館をしていたようで、おじいさんの持ち物らしい。牛の石像と古めかしい石塔が二つあった。石塔に文字が刻んであるが風化して読めない。近くに小さな横穴があって水が湧き出ていた。このあたりは先ほどのラーメン屋で聞いた明神坂の遺跡のようだ。
「ここは昔の道ですか」
菅原道真もこの石坂を通って大宰府に行った。それで牛が祀ってある。昔は銅で出来ちょったばってん、戦争で取られて鉄砲の弾になったと・・・」
「穴から水が湧いていますね」
「この水を柳原白蓮が飲んで、そこの二つの大岩を歌にしたと・・・」
 おじいさんは白蓮がここでよんだ歌を二首、声を出して二回ほど唱えてくれたがメモを取るのを忘れた。
「白蓮がですか、そら、顕彰して石碑を建てんといかんですね」
「ここには茶屋があって黒田如水もここを通ったと・・・」 
「そうですか・・・」

 あとで調べたのだが、
筑前国風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。筑前国風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政の入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。
  元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。とあった。

   黒田長政は一六〇〇年(慶長五年)に起きた関ヶ原の戦いによる論功行賞で旧領の豊前中津 十八万千石から筑前名島 五十二万三千石に移封された。十二月初め、黒田長政は父孝高(如水)と共に豊前中津を出た。長崎街道から花瀬街道にはいり飯塚の太養院に宿泊した。坂の下に出てそれから石坂の急坂を登り八木山を越え篠栗街道を通って筑前名島城にはいることになるが、海外貿易の大湊、博多大津を要する筑前は昔から博多商人や禅僧の力が強い地で、黒田の家臣団は威力を示すために武装して領地に入部した。これを「筑前お討ち入り」といった。とある。

 八木山のことを調べようと思うが、思いがけない故事や遺跡を新たに知ってまだまだ時間がかかりそうだ。
平成三十年三月一日