ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

午前中は「気楽にエッセイ」の教室にいく。

今日の題材は少し長くなった。

         鎮西八郎為朝と二八騎                    中村克博
最近アップルTVなるものを買った。縦も横も一〇cm弱、厚みは二cmほどの黒いプラスチックの箱、この箱をテレビに繋げばいろんな映画が観れる。天神のアップルストアで髪の長いTシャツのお兄さんから手際のいい簡単な説明を聞いて八千八百円で買ってきた。以来、我が家の食後の夜が一変した。付属の小さなリモコンを手に持ってボタンを押すと映画のジャンルが出てくる。SFファンタジー、アクション・アドベンチャー、キッズ・ファミリー、コメディ、時代劇、スリラー、短編映画、特撮、ドラマ、邦画、ホラー、名作、ロマンスと沢山ある。どんな基準で分類するのだろうかと要らぬ節介を考えたくなるほどだ。映画一本の値段は二〇〇円、三〇〇円、四〇〇円、五〇〇円の四段階になっているようだ。テレビの画面に並んでいる看板写真から気に入った作品が見つかるとリモコンのボタンを押す。そうすると俳優や監督、それに簡単なストーリーが文字で読める。さらにプレビューボタンを押すと映像の断片を見ることができる。そこで納得したならいよいよ映画の開演とあいなる。夜になると決まってこのように映画を見ているわけではないが、それでも三日に一本くらいは見ているかもしれない。今はまだ始めたばかりで珍しさもあるが少し見すぎだ。それで朝起きるのが遅くなる。最近、朝の散歩をしなくなったのはグリュックが小屋からなかなか出てこないせいばかりではない。
そんなわけで先日は「ステキな金縛り」という映画を観た。監督、脚本、三谷幸喜、主演は弁護士の深津絵里だろうか、落ち武者幽霊の西田敏行なのだろうか、弁護士事務所の所長に阿部寛、検事役に中井貴一が出ていた。僕の妻は自分で選んだのに、いつの間にか眠っていた。僕は面白かったので最後まで見た。壱岐の焼酎だったかヘネシーだったか剣菱だったか忘れたが瓶ごと持ってきてチビリチビリ飲んで観ていた。映画を観ながら寝顔をチラッと見ていた。起きていれば寝る前の深酒を咎められるのでこうはいかないが、こんな事もたまにはいいもんだ。この話と脈絡はないのだが、ずいぶん前に木こりの友人から聞いた話を思い出した。
彼は田川に住んでいる。木こりが本業だが小説も書いている。長年書き溜めたものがあって、昨年だったか九州文学に入会した。一年もならないのに同人雑誌に短編が二度も掲載されて西日本新聞に顔写真入りで記事まで載った。その木こりさんが自宅で夜寝ていると天井に落ち武者が出てくるという。そうなると金縛りにあって動けなくなる。天井の落ち武者は額から頬にかけて刀傷を負っていて表情もはっきり分かるそうだ。その幽霊は木こりさんがとある理由からクリスチャンに帰依して以来でてこなくなったらしい。彼は田川の香春町に住んでいる。
二月十一日、天気のいい朝だった。一〇時半過ぎに八木山の自宅から田川市香春町に出かけた。木こりさんの落ち武者話と関連するわけではないが、昨年の十一月四日に英彦山で居合の奉納に参加して、今年の正月に英彦山に初詣に出かけてからこの山に近い豊後や豊前それに筑豊とよばれる地域が気になるようになった。飯塚市から田川市には二年ほど前にバイパス道路が出来ている。八木山の自宅から五〇分ほど、飯塚の市街なら二、三十分の距離になった。幅員の広い真っ直ぐなバイパス道路を走って全長二kmほどのトンネルを通り抜けるともう田川だ。田川農業学校の跡地は福岡県田川郡香春町大字中津原にある。今は廃校になって校舎の建物が残っていた。ここが鎮西八郎為朝の居城があった場所らしい。敷地から香春岳が見える。セメントの原料になる石灰岩を戦前(一九三五年)から掘り続けたので半分以上は真横に削り取られているが、平安時代には広がる水田の彼方に一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と連なる山が悠然と望めたのだろう。
為朝は保延五年(一一三九年)の生まれ。一三歳の時に父・源為義の命を受け尾張権守家遠が後見となって九州に向かう。豊後の国臼杵に一年ほどとどまった。一四歳で阿蘇郡の平忠国娘を嫁にする。それからの働きが目覚しい。鎮西惣追捕使として菊池氏、原田氏など九州の豪族たちとの戦いを繰り返して三年ほどのうちに九州をほぼ制圧してしまう。為朝は臼杵からこの地、香春に移住して大原館ともいわれる豊前・鎮西原城を築いて九州統治の体制を整える。為朝は身の丈七尺ほどの大男、目の隅が切れ上がった容貌魁偉、左腕が右腕よりも四寸長くて五人張りの強い弓を使ったといわれる。香椎宮が為朝の狼藉を朝廷に訴えたために久寿元年(一一五四年)為朝に出頭の宣旨が出されるが、これに従わなかった。しかし父の為義に罪が及んで、翌年やむなく強者二八騎のみを従えて京へ上る。するとその翌年に鳥羽法王が崩御された。元号が保元元年(一一五六年)に変わり、かねてから内輪揉めをしていた崇徳上皇後白河天皇の紛争はついに武力衝突に発展した。為義は上皇方の大将として招かれるが老齢を理由に再三これを辞するもついには承諾させられ為朝など六人の息子たちと共に崇徳上皇の御所白川北殿に参上した。一方、為義の嫡男で関東を地盤としていた義朝は多くの東国武士団を従えて天皇方にお味方した。保元の乱の始まりである。
平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきた。為朝は「物足りない敵だが今生の面目にせよ」と七寸五分の矢を射かけた。矢は伊藤忠直の体を貫いて後ろにいた忠清の鎧の袖に突き刺さった。清盛は驚愕して部署を変え北門に向かう。清盛勢が去ったあと兄の義朝の手勢が攻め寄せる。郎党の倉田政清が名乗りを上げて矢を放つと為朝の甲に当たった。為朝は怒って「お前なんぞは矢の無駄である。手打ちにしてくれる」と鎮西の強者二八騎を率いて切り込んでいった。政清は義朝のもとに逃げ帰った。義朝は「馬上の技は坂東武者が上である」と二〇〇騎を繰り出して乱戦となった。為朝は三尺五寸の大太刀を振り回して戦うが接戦となれば無勢の為朝は不利である。繰り出しては引き、弓を射かけては繰り出して火が出るほどの戦いを続けるうちに為朝が鎮西から共にした二八騎は二三騎までが討たれてしまった。さらに義朝が白川北殿に火をかけると崇徳上皇方は大混乱になった。武運拙く為朝は逃げ続け大江の国坂田で病に罹り湯治中の真っ裸のところを抵抗もできずに捕らえられた。
鎮西から為朝に従った二八騎は二三騎まで討ち死にした。残ったのは五騎、その中に一騎だけ文献で確認できる人がいる。豊後は古くから刀工の多い地であるが新、古刀を通じて四三〇名近くの刀工を確認できるという。豊後行平、この刀工は後鳥羽上皇の四月の御番鍛冶であり、平安末期から鎌倉初期に活躍した。列位は極めて高く武家や公家を問わず宝刀として扱われており、皇室にも東宮(皇太子)の佩刀として行平の小太刀が伝来している。有名なものに細川幽斎より烏丸光広への古今伝授の際に贈られた国宝の太刀、高松宮家に伝わる名物・地蔵行平などがある。国指定の行平の太刀は国宝一・重文七・重美五の一三振り、他に特重が五振ある。
その豊後刀で最古のものは中心(なかご)に豊後国僧定秀作と銘を刻む。平安末期から鎌倉の初期にかけての鍛刀で現存する作品は少ない。定秀は九州から源為朝に従って保元の乱に敗れ奈良の東大寺に逃れ出家したことが文献に残る。この時代東大寺は数千人の僧兵を擁していた。子院である千手院は若草山西麓千手谷にあったが、ここは一大の造兵廠で平安末期には行信、重弘、鎌倉期に重吉、康重、力王などの刀工がいた。定秀はここで千手院派の鍛刀の技術を習得していたようだ。定秀は紀の姓を使い紀貫之と先祖を同じくする。元は豊後の国の豪族で代々郡司を務めていた一族らしい。保元の乱の後、治承・寿永の乱源平合戦)が起きる。治承四年(一一八〇年)、東大寺平重衡の軍勢に攻められ大仏殿はじめ多くの伽藍が消失した。その前後だと思われるが定秀は英彦山に迎えられた。三千坊の学頭を務めながら千手院の鍛刀の技法を豊後に伝えたとされる。行平は定秀の子であるとか弟の子を養子にしたとかいわれている。定秀は幾多の戦乱をくぐり抜けて生き延びる手立てにどんなことをしたのか。英彦山で修験者として何を思い何をしていたのだろう。一切の妄念を鍛刀する槌のひと振りごとに打ち付けていたのではないか。定秀の作った刀にはさぞかし念が入っているはずだ。手にしたものが枕元に置いて眠ると落ち武者の幽霊がごまんと出てくるに違いない。
平成二五年二月一四日