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世界の3大海戦といえば、

レパント海戦、 トラファルガー海戦日本海海戦をいうらしい。
以下は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から抜粋した。


レパントの海戦は、
1571年10月7日に起きた、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍との海戦である。
結果は、オスマン帝国の壊滅的敗北に終わった。戦争に参加したおよそ300隻の内、40隻しか生き残ることができない程であった。


トラファルガーの海戦は、
1805年10月21日に、スペインのトラファルガル岬(トラファルガー岬)の沖で行なわれた海戦。
ナポレオン戦争における最大の海戦にイギリスが大勝したことで、この戦争に一時の転機をもたらしたが、
大陸では、アウステルリッツを防ぎきれなかった。
ネルソン提督のイギリス艦隊はヴィクトリー号を旗艦とする27隻。
ピエール・ヴィルヌーヴ率いるフランス・スペイン連合艦隊はビューサントル号を旗艦とする33隻であった。
激戦の末、連合艦隊は撃沈1隻、捕獲破壊18隻、戦死4,000、捕虜7,000を数え、ヴィルヌーヴも捕虜となった。
一方イギリスは喪失艦0、戦死400、戦傷1,200という被害で済んだが、司令官のネルソン提督がフランスの狙撃兵の銃弾に倒れた。


日本海海戦は、
1905年(明治38年)5月27日-5月28日)日露戦争中に対馬沖を戦地として、
日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊バルト海艦隊)との間で行われた艦隊戦である。
日本以外では、「対馬海戦 (Battle of Tsushima) 」と呼ばれている。


ロシア側はロジェストウェンスキー中将率いる
戦艦8、海防戦艦3、装甲巡洋艦3、巡洋艦6 他
日本側は東郷平八郎大将率いる
戦艦4、 装甲巡洋艦8、巡洋艦15 他


日本海海戦の戦闘経過は次のように記載されている。
5月27日
11:42 -沖ノ島沖でバルチック艦隊に接近 13:39 バルチック艦隊を視認、戦闘開始命令(戦闘旗掲揚)
13:55 - 両艦隊の距離12,000mまで接近 連合艦隊旗艦三笠、Z旗を掲揚(この際のZ旗は「皇国の興廃この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」の信号旗)
14:05 - 距離8,000m、連合艦隊、取舵一杯、敵前大回頭を開始(丁字戦法開始)
14:07 - 距離7,000m、連合艦隊先頭艦(三笠)回頭完了、バルチック艦隊、砲撃開始
14:10 - 距離6,400m、連合艦隊全艦回頭完了
14:12 - 距離5,500m、連合艦隊三笠初被弾
14:18 - 距離4,600m、連合艦隊バルチック艦隊の先頭艦(スウォーロフ)に対して、一斉砲撃開始
14:35 - 連合艦隊、東南東に転針し、バルチック艦隊の進路を完全に遮蔽(丁字完成)
14:43 - 戦艦オスラビア、続いてスウォーロフで火災発生、戦列から離脱
14:50 - 戦艦アレクサンドルIII、北方へ転針、戦線離脱を図る
14:58 - 連合艦隊第一戦隊、北東へ一斉回頭
15:05 - 連合艦隊第一戦隊、針路を北西とし、第二戦隊と共にバルチック艦隊を挟撃(乙字戦法)
15:10 - 戦艦オスラビア撃沈、旗艦スウォーロフ逃走 バルチック艦隊の隊列混乱し、勝敗ほぼ決する
17:28 - 連合艦隊、北に転針、敵を追撃
18:00 - 両艦隊、再び距離6,300mまで接近、砲撃再開
19:03 - 戦艦アレクサンドルIII撃沈
19:20 - 戦艦スウォーロフ、ボロディノ、シソイ・ウェリーキー撃沈 第一・第二戦艦群壊滅)
5月28日
09:30 - 連合艦隊鬱陵島南方でバルチック艦隊第三戦艦群再視認、追撃開始
10:34 - バルチック艦隊第三戦艦群旗艦ニコライI、降伏旗を掲揚
10:53 - 降伏受理(海戦終結


ロシア側の損害は:
撃沈16隻(戦艦6、他10)、
自沈5隻、合計21隻沈没、
拿捕6隻、
中立国へ逃亡6隻、自国港へ帰港5隻
兵員 戦死約4600名、捕虜約6100名
ロジェストウェンスキー提督含む)


日本側の損害:
水雷艇3沈没、
兵員 戦死117、戦傷583


ロシア艦隊は戦力の大半をこの海戦で失った。
一方、日本側の損失は水雷艇3隻沈没の軽微で、海戦史上極めてまれな一方的完勝となった。
この海戦における日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。
日本海海戦の戦闘中、東郷はZ旗を掲げたが、この後日本海軍が重要な海戦においてZ旗を掲げるという先例となり、
5月27日は海軍記念日に制定された。この海軍記念日は戦後廃止された。