ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

青井阿蘇神社に行った。

一月三十一日、鵜戸神宮での居合奉納の前に人吉に立ち寄った。

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青井阿蘇神社の本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門の5棟が国宝に指定された。

慶長期に一連で造営された社殿群、中世球磨地方に展開した独自性の強い建築様式

を継承し、桃山期の華麗な装飾性が特徴。

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南九州地方で近世神社建築に影響を与えているなどの文化史的意義が認められ、

国宝指定となりましたと説明がある。

 

 

昨日は午前中、エッセイ教室だった。

提出した原稿は、

貝原益軒を書こう                    中村克博

  昨夜の夕餉は冷や飯であったが、味のしみこんだ魚の煮つけと蜆の味噌汁が何ともうまかった。たらふく食べて、ぐっすり寝込んだ久兵衛と根岸は、障子に映える日の出の明りで目がさめた。長い船旅を終え小笠原の家臣たちとも別れて、久しぶりに陸に上がった安堵感が二人を伸び伸びとさせているようだった。宿を出るときに女中は久兵衛が手渡した心づけの重さに笑顔がこぼれ、お捻りを両手にして嬉しそうだった。帳場で宿代は、すでに頂いておりますからと言われたが久兵衛は応分の宿賃を置いてきた。宿を出ると二人は天満橋を渡って八軒屋浜の船着き場に向かった。

 

淀川の定期船は過書船と呼ばれ、大坂天満橋の八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで淀川を昼夜兼行で往来した。荷物船は二〇〇石ないし三〇〇石積だった。旅船は普通三〇石積の乗り合い船であったため旅船は三十石船と呼ばれた。大阪から京までの船着き場には遊郭が多くとくに枚方宿(ひらかたじゅく)は一番の盛り場であった。

 

 久兵衛と根岸は乗船してしばらくは初めての体験がおもしろくて船の様子を見ていた。船には三〇人ほどの客が乗っていた。武士も数人いたが多くは町人の男女だった。船頭は四人いたが竿を持っているのは一人で、三人は陸に上がって大勢の船曳人足と一緒に帆柱から伸ばした引き綱を引いていた。

 

二人は宿から持参した弁当の竹皮を開いた。手のひら大の握り飯が三つ並んでまだ暖かだった。根岸は自分の竹の皮から握り飯を一つ取りだして、

枚方の湊はいいところだそうだ。今夜はそこで銭湯に入ってゆっくりしたいもんだ」

「昨夜は食事のあと、急に眠くなって目がさめると朝でしたね」

根岸は握り飯を頬張っていたが、口の中の梅干の種をとった。

「飯のあと、湯屋にも行かず。博打場も見ずだった」手の種を船外に投げた。

 久兵衛は飛んでいく梅干しの種を見ながら、

「京に落ち着いてからでも大坂にはまた出向くことはありますよ」

「いや、今夜は枚方の宿に泊まろう。旅の垢をを落として都に上ろう」

 久兵衛は握り飯にかぶりついて、

「おお、私の握り飯には昆布の佃煮がはいっております」

「昆布の佃煮・・・ ほう、佃煮は江戸の名物では無いのか・・・」

「そうですね、江戸土産でしられます。徳川家が国替えされた当初は江戸湾に漁民も少なく技術も乏しかった。それで摂津国佃村から漁師三十三名を江戸に移住させました」

 根岸は二個目の握り飯を手に取って、

「ほう、佃は大坂にもあるのか」

「はい、摂津から移住した漁民は、江戸湾岸の漁業権を与えられ、魚を生で、または塩煮にして江戸町民への食糧供給を業としました」

「ほう、江戸の佃煮は塩煮だったのか」

「はい、天文四年に紀州湯浅に新しい調味液、醤油が誕生しました。いらい塩の代わりに醤油が使われるようになります。見映えもよく味もよく保存も よい、三拍子揃った煮付けが出来上がり、その評判が諸国に伝わって佃煮が普及したと言われております」 

「なるほど、うまいもんだ」根岸の二個目には佃煮がはいっていた。

 

 船の藁屋根の間から差してくる正午の日差しは強くて西の風が冷たく気持ちよかった。二人は大勢の船客に触れ合うようにして座っている。久兵衛は居眠りしていた。船は帆を上げていたが、やっと膨らむほどで気だるそうにはためいていた。それでも引き綱はたるんで水面に着きそうで引綱人足は小走りに歩いていた。行き交う船が多くなっていた。三百石積の荷船や旅船の三十石船や伝馬船の中に二人乗りの茶船が見えてきた。何やらこちらに向かって叫んでいる。

 根岸が久兵衛の肩をゆすって、

「あの小舟がこちらに向かって何か言っておる」

 久兵衛は目を細めて小舟を見ていた。

「あ、あれは名物のくらわんか舟ですね」

「くらわんか・・・ なんだそれは」

 小舟は近づいてきた。小舟の声が聞こえて来た。

「ほうれ、めしくらわんか・・・ 餅くらわんか・・・」

 荒っぽい、呼び声は、だんだん近づいて、

「ほうれ、酒のまんかい、ごぼう汁はどうじゃい・・・」

 根岸も久兵衛も珍しそうに立ちあがって小舟を見ている。

 近づいた小舟が根岸の乗る船に鉄の鍵爪をかけて接舷させた。三人ほど乗っていて一人は姉さんかぶりの女だった。小舟の上には火床を置いて煮炊きする釜戸がある。鍋からは湯気がでていた。客と顔が合って素知らぬ顔をする客には怒鳴りつけ、寝ている客は起こしてしまう。相手が武士だろうと偉い人だろうとおかまいなしである。

「ほう、威勢がいいな、おもしろいもんだ、それに餅とごぼう汁はうまそうだ」

 久兵衛は、伝え話ですがと前置きして、

大阪冬の陣のおり、徳川秀忠公が淀川堤を進軍して枚方の浜地にさしかかったとき、真田幸村様が堤防に仕掛けた地雷をいっせいに爆発させました。陣頭で指揮していた将軍秀忠公は吹き飛ばされ淀川の中で溺れそうになった。徳川軍は総崩れです。そのとき枚方の百姓たちが小舟を繰り出して秀忠公を救った。 その恩に報いるため秀忠公は枚方の百姓に、悪口雑言天下御免のお墨付きを与えられたそうです。いらい枚方の百姓に危害を加えると、武士ならば切腹、その他は打ち首ということになったそうですよ」

「ほう、それが本当なら、その話、聞いておいてよかったな」

令和二年二月六日

 

居合の奉納、鵜戸神宮例祭

 天気がよくて、鵜戸神宮からは海が遠くまで見わたせた。

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この地では古代より修験道の修法が行われたが明治以降は神道式に変えられた。

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祭事の中でも、皇室の弥栄(いやさか)と安泰を祈る2月1日の例祭は

年間で最も重要な祭事であるそうだ。

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天皇家からの贈り物は日向灘に向かって神事がなされた後に本殿にむかう。

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天皇家からの贈り物がおごそかに鵜戸神宮本殿に運ばれる。

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祭典の前に行われる福岡藩伝柳生新影流柳心会の居合奉納は

13代蒲池宗家から14代長岡宗家へ続く40年以上の恒例行事になっている。

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柳心会の居合奉納は長岡宗家の四方払の後、始まる。

この四方払は、福岡藩伝柳生の正統な継承者が行う神事の作法だ。

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黒田長政徳川家康柳生宗厳(石舟斎)を京都で引き合わせ、

柳生家が将軍家剣術指南役となるきっかけを作っている。

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柳生宗厳(石舟斎)は徳川家康の師範となって息子宗矩を徳川家に

推挙し柳生家が大きく飛躍する切っ掛けを作った。

大和柳生初代藩主となった柳生宗矩は将軍家御流儀としての柳生新陰流

(江戸柳生)の地位を確立した。 

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伊勢の兵法家、愛洲久忠(移香斎)享徳元年 1452年 - 天文7年 1538年

若い頃に九州や明国まで渡航したという。

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愛洲久忠・移香斎は36歳のとき鵜戸の岩屋に参籠して霊験を受け、

今に伝わる剣術の妙技を開眼し影流の始祖とされている。

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その愛洲移香斎を師としたのが剣聖といわれる上泉信綱で新影流(陰流)

を成した。福岡藩柳生新陰流14代長岡宗家はその流れを正統に汲んでいる。

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柳生宗厳が伝えた新陰流は一般には柳生新陰流と呼ばれることが多い。

しかし、これはあくまでも俗称で、正式な流儀名は新陰流である。

上泉信綱からの流儀名「新陰流」をそのまま伝えている。f:id:glucklich:20200202193934g:plain

黒田藩の指南役三宅源八郎は江戸柳生の柳生但馬守から続いているのだが、

福岡県立博物館に所蔵される、黒田藩の指南役三宅源八郎が発行した免状には

柳生新影流と「影」の文字が使われている。

そのためか、それを直系に継承した13代蒲池宗家から14代長岡宗家に伝承された

福岡藩伝は現在も柳生新影流柳心会として新影流の文字で活動している。

  

数日前から山小屋に薪の枝を運んでいる。

上川君の軽トラックで満載して7台分の雑木の枝だ。

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午前中から日が暮れるまで、

近くの神社の境内から昼も食べずに運んでくる。

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枝の大きさは暖炉にくべるには適当な大きさだ。

伐採した人の思いやりが、うかがえる。

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薪置き場はいっぱいで、玄関前にまでこづみあげた。

今年はまだ燃やせない、来年は乾燥がすすんでいるだろう。

 

先週の金曜日、久兵衛は大坂上陸、居合の稽古は小太刀。

 

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山崎師範と江頭さんが小太刀の稽古をしていた。

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宗家がこまかい処を指導されていた。居合の伝統を体得するのは奥が深い。

僕も今年から小太刀の稽古を始められたらと思っている。

 

 

エッセイ教室に提出した小説の原稿は、

貝原益軒を書こう                 中村克博

 

 伝馬船難波橋の下をくぐって天満橋が見えると間もなく左に舵をきって水路に入っていった。夕日が町家に隠れて急に暗く感じられた。規則正しく町割りされて同じような家の軒から夕餉の煙がでていた。櫓を漕ぐ船頭はキセル煙草をふかして、漂う煙がゆっくり後ろになびいていた。風は感じなかった。

「宿は、もうすぐです。あの二階家です」

 船頭が顎でしゃくる先にひときわ大きな建物が見えた。小さな舟寄のある石段に灯篭の明りがついていた。船頭は舟を舫うと二人の先に立って石段をゆっくり上ったが右足を少し引きずるように歩いていた。裏玄関と言うよりは裏木戸か勝手口のような出入り口から入った。船頭と顔見知りらしい仲働きの女中が出迎えて土間の小部屋に案内した。長床几に腰かけて待っていると洗い桶が運ばれてきた。二人は足袋と脚絆を脱いだ。桶の水には湯がたしてあって暖かだった。

 久兵衛が足を桶に浸していた。その様子を立って見ている船頭に、

「このような宿に、ありがたいが宿代も大層でしょうね」

「いえいえ、先ほど小笠原のお武家様から過分なほどの舟代を頂いておりますので、オアシの心配はいりません。ただいま、部屋の準備をさせております。しばらくお待ちください」

「舟賃と宿屋は別物でしょう」

「いえ、わしの親方は舟を多数持っておりますが、この宿も親方のもんです」

「そうですか、それでこの宿に案内した・・・」

「それに、親方は人足を手配する口入も、幕府公認の博打場も手配しております」

 根岸は湯桶の中で足を揉み洗いしながら話を聞いていたが、

「船頭さん、そなた、元は武士の出だな」ととうた。

「はい、若いころは、とある家中に仕えておりました」

「戦場を体験しておるようだ」

「大坂では冬の陣、夏の陣とも城外で徳川様に刃向かいますが、最後はお城から焼け出され、許されました。島原では徳川方

に陣がりして島原城の石垣を上りました。その折、鉄砲玉を三か所うけて真っ逆さま・・・」

「ほう、おもしろい話がきけそうだ。しかし、島原の戦のあとはもうイクサはない」

 

 女中がやって来て、部屋の用意ができたことを告げたが、話に熱が出たようで話がつづいた。女中はしばらく立っていたが、奥にさがっていった。

 

 船頭は床几の隅に腰かけて、頭をチョイと下げて、

「大きな戦はないかも知れませんが、大坂の街には不逞の浪人がたむろします」

「そうだろうな、京も江戸もそれは同じらしい」

「とくに大阪は天下の台所と言われ、国々の物資や金が途方もなく集まる。そこに行き場のないあぶれ浪人たちの受け皿として博徒の組がぎょうさんてきております。賭場を開くのが大きなシノギになっております」

 根岸は少し水を注すように、

「俠気ある浪人や町人たちと言うわけだな、それらを大部屋に住まわせ、賭博や女遊びをさせて、いざ普請工事となると動員する」

. 久兵衛が興味深げに聞き入っていたが、

「大坂は元来から反権力の街でもあったのですね。信長公とは死闘をくり広げた土地でもありますし、豊臣秀吉様、関白殿下を太閤さんと呼んで慕った大坂の町人たちは、豊臣政権を倒した徳川幕府への反感が心の底にあるのか知れません。こうした伝統も博徒を容認する背景にあるのかもしれませんね」

 船頭は少し考えるふうで、

「そうですなぁ、ナニワは義理や人情にあついようですが、かと言って親分子分や縄張りにこだわりませんで、実力次第でどこにでも出ていく、一匹狼が成り立つ気風がある。それで小さな組が入り乱れるのかもしれませんな」

 久兵衛はさらに現地調査の聞き取りでもするように、

「大坂町奉行は東西ともに江戸から不定期に赴任し、役目を終えると江戸に帰る。世襲ではなく、軍務として出陣するように出向いてまいりますが、一方、与力は大坂在住のままで所帯をもって役務を引き継ぐ、世襲としておりますね」

 船頭は久兵衛の話の意図なんだか分からなかった。根岸は運ばれた茶をすすっている。久兵衛は話を続けて、

「この宿の近く天満川崎村の地に、与力町、同心町と町の名がついておりますが、東組、西組を合わせて与力は六〇人、その屋敷の坪数三万坪といいますから、一人五百坪の屋敷が東西三十騎つまり三十家に与えられている。同様に、同心の役宅も東西百人に二万坪、一人当たり二百坪が地割されている。と言うことは、つまり与力は徳川将軍直参の軍役であり、大坂町奉行の家臣でなく、主従関係にない、となりますが、これを、どのように思いますか」

 船頭は困った顔をしていたが、思い余ったように、

「そないこと、考えもしなかったけど、大坂地付(土着)の与力、同心はそのうち大坂町人の風情にとけこみ武士の気概をなくし・・・ 廉恥の心薄く、質朴の風なし、ということになりますかな」

 根岸は床几から腰を上げて、

「そうか、それで、江戸幕府は公認の博打場をアチコチに作らせておるのだな。任侠道の親分たちにチンピラをまとめさせて掌握する手立てなのだな・・・ そろそろ部屋に上がろう。腹が減ってきた」

 船頭が役目を終えた顔で、

「それでは、わしは、これでお暇します」

 久兵衛が丁寧にお辞儀をして、挨拶しようとすると、根岸が、

「飯のあと、幕府公認の博打場を体験せねばなるまい。案内をたのみたいが」

 船頭は久兵衛の顔を見た。久兵衛が言った。

「そうですね、おもしろそうですね」

                            令和二年一月十六日

 

 

茶庭の掃除をした。

つくばい、灯篭、待合腰掛、路地をきれいにした。

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高圧洗浄機で汚れを吹き飛ばした。草まで消えて土が出た。

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手で掃除をしても手間がかかって埒が明かない。

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昨年の夏ころは、こんなだった。

 

正月飾りの用意

今年の年末は、これまでと違う新しい様式の正月飾りをした。

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数日前から正月飾りの準備がされていた。来年はいつもと違う新年ようだ。

床の間から用意していたものを使って、根のついた松を奉書紙で巻きはじめた。

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吉田流のしめ縄に紙垂を取り付ける。

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門や玄関に飾り付けた。簡素なもんだ。

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茶室や床の間にも飾った。餅に代わって米が三宝に盛られている。