昨日も今日も青い空、小さな白い雲が遠くに見える。
大きな地物のシイタケが安かった。
昨日も今日も青い空、小さな白い雲が遠くに見える。
大きな地物のシイタケが安かった。
高等学校の看護科の生徒さんにヨガの体験学習をした。
先週の十四日、一年一回のヨガ実習は今年で三度目。
理事の先生から、小説家でヨガの先生との、なんともオコガマシイ紹介があった。
実習時間が短いので若い女性に即効のある体験内容にと工夫した。
ワイワイガヤガヤ、質問も飛び交う楽しい時間だった。
「この動きはどんな効果がりますか」
「はい、お尻がきれいになります」
「これをやれば、どうなりますか」
「はい、ポッコリお腹がスッキリになります」
「この骨を斜めにだすと・・・」
「はい、首は真っ直ぐ、背筋が伸びて、背が二センチたかくなります」
後日、生徒さんたちの感想文が届いた。みんな良く理解していたようだ。
昨日の朝は霜が降りて気温はマイナスだった。
茶室の近くの木が紅葉している。今年の冬は寒そうだ。
十一月は霜月、朝は霜が降りて紅葉した茶庭が明るくなった。
今日はエッセイ教室だった。平戸の茶会を書いた。
平戸で鎮信流の茶会があった。 中村克博
福岡から二時間半ほど、平戸大橋を渡って松浦家の歴史資料博物館に着いた。と書けばスムーズにドライブしてきたようだがそうではない。天神北から都市高速に乗るとカーナビは右折を指示した。右折は香椎、飯塚方面だ。行き先の唐津、呼子、平戸とは反対ではないかと、少しためらったが、言う事を聞かずに左折した。天気はすこぶるいい。市内を抜け今宿を過ぎ前原から二丈深江の海に近いところを走るまでは快調だった。
ところが間もなく助手席に座る妻の様相が変わった。
「こちらでいいのですか、二時間半ほどで着くはずなのにこのままでは夕方六時過ぎますよ」とカーナビの到着時間を見ながら不安をつのらせる。
そう言われると、そんな気がしてきたが、
「ばってん、あっちは大宰府に行くやろ」と自信なげに反論した。
今からは引き返せないし、と思いながら料金所で車を止めて事務所を訪ねた。僕と同年輩の現役を引退して老後の閑職を務めている職員が地図を持ってきて二人がかりで説明してくれた。一般道だがバイパスが途切れ途切れで繋がっているらしく、この道でいいそうだ。唐津市内を抜けて山間部に入って細い道をくねくね通って、いつの間にか松浦市内に入っていた。平戸大橋を示す案内板が眼にとまった。時間は夕方三時二十分、つり橋を渡ると、ちょうど二時間半だった。
鎮信流は旧肥前平戸藩の藩主、松浦家に伝わる武家茶道。明日の朝から行われる茶会の会場は松浦家の歴史資料博物館で、ここは旧藩主松浦家の住居だった建物らしい。
閑雲亭で濃茶がふるまわれた。十人ずつ五組にわかれて参加した。この草庵は明治二十六年に松浦氏の邸宅の敷地内に建てられたそうだ。
床の拝見をして席に着くと、おも菓子が運ばれてきた。おも菓子は江戸時代に用いられたものが同じように出された。このたびの茶会のために古文書を調べて工夫して再現されたらしい。僕がスマートホンで写真を撮ろうとしたら、右横にいる上品に着物を着こなした威厳のあるおばさんが、キッとした小声で、
「写真は、だめでございますよ」といった。
「はぁ、そうなんですか」と言ってシャッターボタンを押すが作動しない。もう一度やっても写らない。おばさんが横眼で睨んでいるようだ。注意された照れくささで、気が上ずったようだ。操作をやり直してやっと静寂の中にガシャッと言う音がした。正客が何事かとこちらを見ているようだ、妻の様子を見ると、知らない人との素振りだった。
正客に濃茶がだされた。僕のとこにも運ばれてきた。「四人さまでお召し上がりください」と置いていった。飲み口を懐紙で拭いて、茶碗を左の女性のあいだに置いてお辞儀をした。美人だった。昔の武士はこんなこと男同士でやっていたのだ。
正客のお礼の口上のあと、閑雲亭では松浦宗家の興味ぶかいおもしろい話が聞けた。むかし、茶道は武士の心得だった。もちろん補足的であるが、武道との精神の均衡をとる大切な要素だった。もともと鎮信流は五百年のあいだ男だけが修練する茶道だったが八十年ほど前から女性にも参加してもらうようになったとのことらしい。今では女性がほとんどのようだ。
松浦の殿様は茶室に男性が僕一人なので珍しいようで、僕の方にときどき顔を向けて話されるような気がした。それで僕は何か言わねばと思った。
「あの、え~と、お庭焼きと言われましたが、お庭焼き、とはなんですか」
僕の幼稚な質問に気さくに丁寧に応えてくださった。
茶懐石も江戸時代の資料を読み解いて、食材をそろえて料理方法を研究して、板前さんたちと宗家ご夫妻が、さまざま工夫して当時の味を再現したそうだ。赤漆の器も膳も松浦家に伝わる江戸時代のもので、宗家の奥方から丁寧な説明があった。お椀の蓋をとると膳の右横に重ねて置くらしい。僕は知らなかったので膳のまわりに置いてた。
ほんとうに貴重な体験をさせてもらった。妻についていったおかげだ。博物館に『宗及茶湯日記』が展示してあった。この茶会記は、堺の豪商天王寺屋津田宗達、宗達の嫡子宗及、宗及の子宗凡と江月宗玩の三代にわたる茶会記録だが、単なる茶会記録としてばかりでなく、織田信長から豊臣秀吉に至る桃山期の歴史的事実を探るうえでも貴重な資料となっているそうだ。
松浦鎮信公の著書である『茶湯由来記』には、武士としての茶のありかたが書かれている。そこに、「茶湯は文武両道の内の風流なり。さるによって柔弱をきらふ。つよくして美しきをよしとす」と。武士は、学問と武術の二つを兼ね備えていなければならない。そして茶道は、その両道をつなぎ合わせる風流のものである。学問は真剣にやらなければならない、武術は命がけであるからこそ、強く美しいのであり、さらにその真剣さの中にあるからこそ、茶は心の癒し、心の楽しみ、心の余裕をもたらすものである、と書き残されている。
祖先から伝わる日本の文化は、品物や立居や精神を、今の生活の中に受け継いでいくことで生きている。閑雲亭で松浦の殿様が、
「道具は使われているから生きている。博物館にしまっていては、文化的な遺物です。使われていれば時代をえて現代に生きている。使えばそぜもするが丁寧に使ってなら仕方がない」
僕もそう思って居合の稽古には鑑定書付きの肥前忠吉や和泉守兼定を使っているが、刀功堂のおやじにとがめられたことがある。
「こんな刀は何百年も伝わっていくもんばい。あんたはその途中でただ預かっておるだけ、うまくもない居合の稽古につこうちゃいかん」
平戸の街を歩いていると、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の住居跡に蔦屋というお菓子屋さんがあった。松浦家の御用菓子司を務める蔦屋は平戸でオランダ人から当時のオランダに伝わる洋菓子の製法を教わった。蔦屋は日本で最初の洋菓子を作って五百年になるらしい。
オランダ船リーフデ号の航海士イギリス人のウイリアム・アダムスは豊後臼杵の黒島に難破船になって漂着した。ロッテルダムを出航したとき五隻だった艦隊はマゼラン海峡を越え太平洋を渡るとリーフデ号一隻になって百十人いた乗組員は二十四人に減っていた。関ヶ原の戦い前年のことだ。アダムスはオランダ人のヤン・ヨーステンと一緒に徳川家康に拝謁した。家康は二人を気に入り、アダムスを三浦の領主とし、ヨーステンには江戸に屋敷を与えて二人を徳川家直参の旗本にした。「八重洲」はヨーステンの日本名、耶楊子(やようす)が由来になっているそうだ。
我国で初めて、オランダ商館とイギリス商館をつくったのは平戸の松浦家だった。リーフデ号の乗組員をオランダ領バタヴィアまで平戸の船で送ったのが縁だった。そのころ長崎にはまだ出島はない。アダムスは三浦の領地を長男のジョセフに譲り晩年を平戸で暮らしたらしい。
茶会が終わって小さな乾物屋で、妻が、飛び魚の干物の「あごだし」を買った。特別サービスでもりこぼれるほど袋に入れてくれた。
令和元年十一月十三日
福岡から二時間半ほど、平戸大橋を渡って松浦家の歴史資料博物館に着いた。
現在の歴史資料博物館は旧藩主松浦家の住居だった建物らしい。
「閑雲亭」で濃茶がふるまわれた。
この草庵は明治26年に松浦氏の邸宅の敷地内に建てられたそうだ。
茶懐石は江戸時代の資料を読み解いて、食材をそろえて料理方法を研究して、
板前さんたちと宗家ご夫妻が、さまざま工夫して当時の味を再現したらしい。
器も膳も松浦家に伝わる当時のもの。宗家の奥方から丁寧な説明があった。
お椀の蓋をとると膳の右横に重ねて置くらしい。僕は知らなかったので膳のまわりに置いている。
閑雲亭では松浦宗家の興味ぶかいおもしろい話が聞けた。
むかし、茶道は武士の心得だった。
補足的であるが茶道は武道との精神の均衡をとる大切な要素だった。
僕の幼稚な質問にも気さくにていねいに応えてくださった。
おも菓子も江戸時代に用いられたものが同じように出された。
ほんとうに貴重な体験をさせてもらった。妻について行ったおかげだ。
『宗及茶湯日記』が展示してあった。 この茶会記は、堺の豪商天王寺屋津田宗達、
宗達の嫡子宗及、宗及の子宗凡と江月宗 玩の三代にわたる茶会記録だが、
単なる茶会記録としてばかりでなく、織田信長から豊臣秀 吉に至る桃山期の
歴史的事実を探るうえでも貴重な資料となっているそうだ。
祖先から伝わる日本の文化は、
物や立ち居や精神を今の生活の中に受け継いでいくことで生きている。
ウイリアム・アダムス(三浦按針)の住居跡がお菓子屋さんになっていた。
松浦家の御用菓子司を務める蔦屋は日本で最初の洋菓子を作って五百年。
ウイリアム・アダムスは徳川家康の外交顧問、三浦に領地を持つ幕臣旗本になった。
平戸の交易にも参画して、老後は平戸で暮らしたらしい。
我国で初めて、オランダ商館やイギリス商館をたてヨーロッパとの交易を
始めたのは平戸の松浦家だった。そのころ長崎にはまだ出島はなかった。
茶会が終わって小さな乾物屋で飛び魚の干物の「あごだし」を買った。
夕方の散歩で林道を歩いた。
青い空にハゼの赤くなった葉が夕日に照らされていた。
イチョウの葉が黄色くなりかけていた。
昨日は荷物運びや伐採した杉の枝の焼却など重労働したので、
今日は体の調子が非常にいい。たまには少しの重労働が大切だと実感した。
散歩の帰り、
日が沈む林道を下りながら道端にぶら下がっている柿の実をもぎった。
赤く熟れた実をがぶりとかじった。なんとも渋かった。
口に入れたまま、おいしそうにニッコリして妻に手渡した。
「ここのカキはおいしいよね」と言ってカプリとかじった。
妻は、「も~~」と言って笑いだした。
今日の午前中はエッセイ教室だった。
貝原益軒を書こう 十五 中村克博
船は夕刻に大阪に着いた。傾いた夕日に大坂城の天守が平地の中に浮き上がり影絵のように見えていた。接岸できる港はなく陸地から遠く離れて碇を入れた。帆を降ろしている弁財船が遠くに近くに見える。その合間をいくつもの小型の川船が帆走していた。これらの船は大名の蔵屋敷が並ぶ中之島と錨を入れている船との間を行き来している。
この時代の大坂市中には水路が縦横に張り巡らされ、中之島周辺に限らず、帆で走る上荷船や茶船と呼ばれる大型の川船や艪で漕ぐ伝馬船が行き来していた。上荷船は、長さ三十尺八寸、最大幅七尺、二十石積で水主二人が乗り組んでいた。茶船は長さに二十六尺五寸、最大幅五尺六寸、十石積で水主一人が乗っていた。元和五年に上荷船約千六百艘、茶船約千艘が大坂町奉行支配となっており、大坂市中の水上運搬を担っていた。しかし、中の島を北へ天満橋あるいは京橋を境として大坂市中に入ることは禁止されていた。
久兵衛と根岸は関船に残る人に挨拶した後あと、小笠原藩が手配していた上荷船に乗った。積荷は小笠原家の蔵屋敷に届ける物がほとんどだが、年貢米や領内の特産物などの商い品は無かった。その中に久兵衛に関係する荷物が大八車に積んで運ぶほどの量もあった。当座の日用品もあったが京都で贈答品に供するための小笠原家から贈られた陶器、鋳物類の茶道具が多数あった。これらの荷物は京都堀川二条南にある松永尺五の講習堂に近い民家に小笠原藩によって届けられる手はずになっている。
小笠原家の武士が五人乗っていた。武士の一人が久兵衛と根岸に向かって、
「蔵屋敷にはお立ち寄りにならないそうで、名残惜しいことです」
「はい、小倉からの長い船旅、大変お世話になりました」
久兵衛がこたえ、根岸がお辞儀をした。
小笠原の武士が今度は根岸だけを見て沈んだ声で言った。
「鞆の浦の一件で、薩摩の者が堂島の薬問屋など奄美の黒砂糖を扱う業者を張り込んでおるようです」
「はぁ、そうですか」
「あの折に逃がした奄美の農夫をさがしておるようです」
「そうですか・・・ そのときに手合わせした武士はどうなったのでしょう」
「それは分かりませんが、遺恨は返すのが薩摩人、用心がいります」
久兵衛が口をはさんで、
「その薩摩の武士は手傷を負い、まだ当分は動けないのでは・・・ 」
小笠原の武士の一人が話をしていた。残る四人は夕日の街を見ていたが同時に向きなおって、その内の一人が、
「貝原殿、島津の侍は尋常ではありません」
のこり三人も久兵衛を見て、
「まるで気が狂った輩の剣術だという人がいますよ」
「さように、剣術と言うよりは何というか・・・ ただひとえに気合を発し、打ち込みながら突進してきます」
真顔で聞いていた久兵衛はが、
「ならば、最初の一撃をかわせば、そのまま進んで行くのですか・・・」
一瞬、場が白けたが、四人は愉快そうに笑いだした。
根岸は遠くを見る眼差しで、近くなった大坂城の黑い影を無表情に見ていたが、ふと顔を上げて久兵衛を見た。
「大名の蔵屋敷が並ぶ中之島は淀屋とかいう商人がつくったそうですな」
久兵衛はなぜ笑われるのか解せぬ顔をしていたが、
「はい、淀屋初代は山城国岡本荘出身で岡本三郎右衛門といいます。太閤殿下が明の使節謁見のため、完成を急いでおられた伏見城の築城工事に参入し才気ある手腕を太閤殿下にみとめられ、巨椋池改修、宇治川の付け替え、太閤堤の築堤、伏見港の整備など大がかりな淀川の洪水工事を手がけます。その後、大坂の十三人町に移りますが、淀屋を名乗るのは豊臣家から淀川堤の普請を請け負ってからだと言われます。それからは吉野杉や木曽檜を扱う材木商をも営みます」
根岸は久兵衛の知識の広さを感心するように聞いていたが、小笠原の武士たちは話の先を聴き急いだ。
「それで、豊臣家に恩義を受けておったのが、いつ、どうやって徳川家に・・・」
久兵衛は本でもめくるように、
「大坂冬の陣、夏の陣にさいして、徳川方が淀屋の土木技術に目を付け、家康公の茶臼山本陣、秀忠公の岡山本陣の造営を行います。さらに大坂城落城後は、戦場の処理を任され、鎧や兜、刀剣などの処分を引き受けて莫大な富を手にします」
小笠原の武士がなるほど、となっとく顔で、
「それで、徳川様の世になって淀屋はどうなるのでしょう」
上荷船は安治川の河口に入っていた。風が変わって帆が大きく、ゆっくりと、しばたいている。話を漏れ聞きしていたのか水主が慌てて帆綱を調整している。中之島までは一刻ほどだろう。久兵衛が話を続ける。
「冬の陣、夏の陣への功によって淀屋は山城八幡の山林三百石を与えられ、諸国から大坂に入る干魚の品質を独占して市価を定め、干魚の運上銀の権利を得ます。さらに米の相場を淀屋一手で立てたいと願い出て、これも許可されます」
船の帆はほどよく風をはらんで、久兵衛は湯呑から水を一口飲んだ。
「淀屋は自身が拓いた中之島に淀屋橋を架け米市場をととのえます。中之島には諸藩や米商人の米蔵が百三十五棟も並んでいます。また全国の米の収穫は約二千七百万石あまりですが、農家や藩内で消費される分を除くと約五百万石が市場で取引きされます。その四割の約二百万石が中之島で取引きされます。さらに米市の取引は米を直接移動せずに、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するのですが、それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する帳合米取引は先物取引の起源となります」
令和元年十月三十一日