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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

久兵衛は、大坂、中之島に上陸した。

今日の午前中はエッセイ教室だった。

 

貝原益軒を書こう 十五              中村克博

 

 

 船は夕刻に大阪に着いた。傾いた夕日に大坂城天守が平地の中に浮き上がり影絵のように見えていた。接岸できる港はなく陸地から遠く離れて碇を入れた。帆を降ろしている弁財船が遠くに近くに見える。その合間をいくつもの小型の川船が帆走していた。これらの船は大名の蔵屋敷が並ぶ中之島と錨を入れている船との間を行き来している。

 この時代の大坂市中には水路が縦横に張り巡らされ、中之島周辺に限らず、帆で走る上荷船や茶船と呼ばれる大型の川船や艪で漕ぐ伝馬船が行き来していた。上荷船は、長さ三十尺八寸、最大幅七尺、二十石積で水主二人が乗り組んでいた。茶船は長さに二十六尺五寸、最大幅五尺六寸、十石積で水主一人が乗っていた。元和五年に上荷船約千六百艘、茶船約千艘が大坂町奉行支配となっており、大坂市中の水上運搬を担っていた。しかし、中の島を北へ天満橋あるいは京橋を境として大坂市中に入ることは禁止されていた。

 久兵衛と根岸は関船に残る人に挨拶した後あと、小笠原藩が手配していた上荷船に乗った。積荷は小笠原家の蔵屋敷に届ける物がほとんどだが、年貢米や領内の特産物などの商い品は無かった。その中に久兵衛に関係する荷物が大八車に積んで運ぶほどの量もあった。当座の日用品もあったが京都で贈答品に供するための小笠原家から贈られた陶器、鋳物類の茶道具が多数あった。これらの荷物は京都堀川二条南にある松永尺五の講習堂に近い民家に小笠原藩によって届けられる手はずになっている。

小笠原家の武士が五人乗っていた。武士の一人が久兵衛と根岸に向かって、

蔵屋敷にはお立ち寄りにならないそうで、名残惜しいことです」

「はい、小倉からの長い船旅、大変お世話になりました」

久兵衛がこたえ、根岸がお辞儀をした。

小笠原の武士が今度は根岸だけを見て沈んだ声で言った。

鞆の浦の一件で、薩摩の者が堂島の薬問屋など奄美の黒砂糖を扱う業者を張り込んでおるようです」

「はぁ、そうですか」

「あの折に逃がした奄美の農夫をさがしておるようです」

「そうですか・・・ そのときに手合わせした武士はどうなったのでしょう」

「それは分かりませんが、遺恨は返すのが薩摩人、用心がいります」

 久兵衛が口をはさんで、

「その薩摩の武士は手傷を負い、まだ当分は動けないのでは・・・ 」

 小笠原の武士の一人が話をしていた。残る四人は夕日の街を見ていたが同時に向きなおって、その内の一人が、

「貝原殿、島津の侍は尋常ではありません」

 のこり三人も久兵衛を見て、

「まるで気が狂った輩の剣術だという人がいますよ」

「さように、剣術と言うよりは何というか・・・ ただひとえに気合を発し、打ち込みながら突進してきます」

 真顔で聞いていた久兵衛はが、

「ならば、最初の一撃をかわせば、そのまま進んで行くのですか・・・」

 一瞬、場が白けたが、四人は愉快そうに笑いだした。

根岸は遠くを見る眼差しで、近くなった大坂城の黑い影を無表情に見ていたが、ふと顔を上げて久兵衛を見た。

「大名の蔵屋敷が並ぶ中之島は淀屋とかいう商人がつくったそうですな」

 久兵衛はなぜ笑われるのか解せぬ顔をしていたが、

「はい、淀屋初代は山城国岡本荘出身で岡本三郎右衛門といいます。太閤殿下が明の使節謁見のため、完成を急いでおられた伏見城の築城工事に参入し才気ある手腕を太閤殿下にみとめられ、巨椋池改修、宇治川の付け替え、太閤堤の築堤、伏見港の整備など大がかりな淀川の洪水工事を手がけます。その後、大坂の十三人町に移りますが、淀屋を名乗るのは豊臣家から淀川堤の普請を請け負ってからだと言われます。それからは吉野杉や木曽檜を扱う材木商をも営みます」

 根岸は久兵衛の知識の広さを感心するように聞いていたが、小笠原の武士たちは話の先を聴き急いだ。

「それで、豊臣家に恩義を受けておったのが、いつ、どうやって徳川家に・・・」

 久兵衛は本でもめくるように、

大坂冬の陣、夏の陣にさいして、徳川方が淀屋の土木技術に目を付け、家康公の茶臼山本陣、秀忠公の岡山本陣の造営を行います。さらに大坂城落城後は、戦場の処理を任され、鎧や兜、刀剣などの処分を引き受けて莫大な富を手にします」

 小笠原の武士がなるほど、となっとく顔で、

「それで、徳川様の世になって淀屋はどうなるのでしょう」

 上荷船は安治川の河口に入っていた。風が変わって帆が大きく、ゆっくりと、しばたいている。話を漏れ聞きしていたのか水主が慌てて帆綱を調整している。中之島までは一刻ほどだろう。久兵衛が話を続ける。

「冬の陣、夏の陣への功によって淀屋は山城八幡の山林三百石を与えられ、諸国から大坂に入る干魚の品質を独占して市価を定め、干魚の運上銀の権利を得ます。さらに米の相場を淀屋一手で立てたいと願い出て、これも許可されます」

 船の帆はほどよく風をはらんで、久兵衛は湯呑から水を一口飲んだ。

「淀屋は自身が拓いた中之島淀屋橋を架け米市場をととのえます。中之島には諸藩や米商人の米蔵が百三十五棟も並んでいます。また全国の米の収穫は約二千七百万石あまりですが、農家や藩内で消費される分を除くと約五百万石が市場で取引きされます。その四割の約二百万石が中之島で取引きされます。さらに米市の取引は米を直接移動せずに、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するのですが、それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する帳合米取引は先物取引の起源となります」

令和元年十月三十一日