ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

平戸のことをエッセー教室に提出した。

今日はエッセイ教室だった。平戸の茶会を書いた。

 

 

平戸で鎮信流の茶会があった。                 中村克博

 

 

 福岡から二時間半ほど、平戸大橋を渡って松浦家の歴史資料博物館に着いた。と書けばスムーズにドライブしてきたようだがそうではない。天神北から都市高速に乗るとカーナビは右折を指示した。右折は香椎、飯塚方面だ。行き先の唐津呼子、平戸とは反対ではないかと、少しためらったが、言う事を聞かずに左折した。天気はすこぶるいい。市内を抜け今宿を過ぎ前原から二丈深江の海に近いところを走るまでは快調だった。

ところが間もなく助手席に座る妻の様相が変わった。

「こちらでいいのですか、二時間半ほどで着くはずなのにこのままでは夕方六時過ぎますよ」とカーナビの到着時間を見ながら不安をつのらせる。

 そう言われると、そんな気がしてきたが、

「ばってん、あっちは大宰府に行くやろ」と自信なげに反論した。

 今からは引き返せないし、と思いながら料金所で車を止めて事務所を訪ねた。僕と同年輩の現役を引退して老後の閑職を務めている職員が地図を持ってきて二人がかりで説明してくれた。一般道だがバイパスが途切れ途切れで繋がっているらしく、この道でいいそうだ。唐津市内を抜けて山間部に入って細い道をくねくね通って、いつの間にか松浦市内に入っていた。平戸大橋を示す案内板が眼にとまった。時間は夕方三時二十分、つり橋を渡ると、ちょうど二時間半だった。

 

鎮信流は旧肥前平戸藩の藩主、松浦家に伝わる武家茶道。明日の朝から行われる茶会の会場は松浦家の歴史資料博物館で、ここは旧藩主松浦家の住居だった建物らしい。

閑雲亭で濃茶がふるまわれた。十人ずつ五組にわかれて参加した。この草庵は明治二十六年に松浦氏の邸宅の敷地内に建てられたそうだ。

 床の拝見をして席に着くと、おも菓子が運ばれてきた。おも菓子は江戸時代に用いられたものが同じように出された。このたびの茶会のために古文書を調べて工夫して再現されたらしい。僕がスマートホンで写真を撮ろうとしたら、右横にいる上品に着物を着こなした威厳のあるおばさんが、キッとした小声で、

「写真は、だめでございますよ」といった。

「はぁ、そうなんですか」と言ってシャッターボタンを押すが作動しない。もう一度やっても写らない。おばさんが横眼で睨んでいるようだ。注意された照れくささで、気が上ずったようだ。操作をやり直してやっと静寂の中にガシャッと言う音がした。正客が何事かとこちらを見ているようだ、妻の様子を見ると、知らない人との素振りだった。

 正客に濃茶がだされた。僕のとこにも運ばれてきた。「四人さまでお召し上がりください」と置いていった。飲み口を懐紙で拭いて、茶碗を左の女性のあいだに置いてお辞儀をした。美人だった。昔の武士はこんなこと男同士でやっていたのだ。

正客のお礼の口上のあと、閑雲亭では松浦宗家の興味ぶかいおもしろい話が聞けた。むかし、茶道は武士の心得だった。もちろん補足的であるが、武道との精神の均衡をとる大切な要素だった。もともと鎮信流は五百年のあいだ男だけが修練する茶道だったが八十年ほど前から女性にも参加してもらうようになったとのことらしい。今では女性がほとんどのようだ。

松浦の殿様は茶室に男性が僕一人なので珍しいようで、僕の方にときどき顔を向けて話されるような気がした。それで僕は何か言わねばと思った。

「あの、え~と、お庭焼きと言われましたが、お庭焼き、とはなんですか」

僕の幼稚な質問に気さくに丁寧に応えてくださった。

 

茶懐石も江戸時代の資料を読み解いて、食材をそろえて料理方法を研究して、板前さんたちと宗家ご夫妻が、さまざま工夫して当時の味を再現したそうだ。赤漆の器も膳も松浦家に伝わる江戸時代のもので、宗家の奥方から丁寧な説明があった。お椀の蓋をとると膳の右横に重ねて置くらしい。僕は知らなかったので膳のまわりに置いてた。

 

ほんとうに貴重な体験をさせてもらった。妻についていったおかげだ。博物館に『宗及茶湯日記』が展示してあった。この茶会記は、堺の豪商天王寺屋津田宗達宗達の嫡子宗及、宗及の子宗凡と江月宗玩の三代にわたる茶会記録だが、単なる茶会記録としてばかりでなく、織田信長から豊臣秀吉に至る桃山期の歴史的事実を探るうえでも貴重な資料となっているそうだ。

松浦鎮信公の著書である『茶湯由来記』には、武士としての茶のありかたが書かれている。そこに、「茶湯は文武両道の内の風流なり。さるによって柔弱をきらふ。つよくして美しきをよしとす」と。武士は、学問と武術の二つを兼ね備えていなければならない。そして茶道は、その両道をつなぎ合わせる風流のものである。学問は真剣にやらなければならない、武術は命がけであるからこそ、強く美しいのであり、さらにその真剣さの中にあるからこそ、茶は心の癒し、心の楽しみ、心の余裕をもたらすものである、と書き残されている。

 

祖先から伝わる日本の文化は、品物や立居や精神を、今の生活の中に受け継いでいくことで生きている。閑雲亭で松浦の殿様が、

「道具は使われているから生きている。博物館にしまっていては、文化的な遺物です。使われていれば時代をえて現代に生きている。使えばそぜもするが丁寧に使ってなら仕方がない」

僕もそう思って居合の稽古には鑑定書付きの肥前忠吉や和泉守兼定を使っているが、刀功堂のおやじにとがめられたことがある。

「こんな刀は何百年も伝わっていくもんばい。あんたはその途中でただ預かっておるだけ、うまくもない居合の稽古につこうちゃいかん」

 

平戸の街を歩いていると、ウイリアム・アダムス(三浦按針)の住居跡に蔦屋というお菓子屋さんがあった。松浦家の御用菓子司を務める蔦屋は平戸でオランダ人から当時のオランダに伝わる洋菓子の製法を教わった。蔦屋は日本で最初の洋菓子を作って五百年になるらしい。

オランダ船リーフデ号の航海士イギリス人のウイリアム・アダムスは豊後臼杵の黒島に難破船になって漂着した。ロッテルダムを出航したとき五隻だった艦隊はマゼラン海峡を越え太平洋を渡るとリーフデ号一隻になって百十人いた乗組員は二十四人に減っていた。関ヶ原の戦い前年のことだ。アダムスはオランダ人のヤン・ヨーステンと一緒に徳川家康に拝謁した。家康は二人を気に入り、アダムスを三浦の領主とし、ヨーステンには江戸に屋敷を与えて二人を徳川家直参の旗本にした。「八重洲」はヨーステンの日本名、耶楊子(やようす)が由来になっているそうだ。

我国で初めて、オランダ商館とイギリス商館をつくったのは平戸の松浦家だった。リーフデ号の乗組員をオランダ領バタヴィアまで平戸の船で送ったのが縁だった。そのころ長崎にはまだ出島はない。アダムスは三浦の領地を長男のジョセフに譲り晩年を平戸で暮らしたらしい。

茶会が終わって小さな乾物屋で、妻が、飛び魚の干物の「あごだし」を買った。特別サービスでもりこぼれるほど袋に入れてくれた。

令和元年十一月十三日