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はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

毎年、11月の1日には乳峰時で摩利支天の祭祀がある。

きのう福岡藩伝の柳生新影流の奉納にでかけた。

カメラを持参したがスマートメディアが入っていなかった。アイフォンで撮った。
お堂にお参りしすると、
「摩利支天様は本堂にお移りで、今日はお留守ですよ」と宗家が教えてくれた。

翌日の今日、拵えを新しくした肥前忠吉を写真にした。細身の直刃に良く似合う拵えになった。
きのうは、この肥前忠吉を使おうと思っていたが、箱島さんとの組太刀だったので模擬刀で行った。
「いつか、真剣で組太刀ができるお許しを頂きたいものですね」といったら、
「あぶなくて、だれも相手を組んでくれませんよ」と清水師範がいった。

居合の奉納に宗家以下七人が参加した。本堂は大勢の参拝がいて演武場所はせまい。
七人の侍は次々と組太刀や個人演武を納めた。終わって、いただいた飴湯の生姜の味がおいしかった。

乳峰寺さんからお札や来年の干支飾りなどお土産をたくさんもらった。
家に帰って、いただいたお札やお守りを神棚にあげた。いろんな神社のお札で満員御礼だ。


この様子を後日、エッセイ教室に提出した。
      乳峰寺の摩利支天祭で居合の奉納          中村克博      


 十一月の一日は乳峰寺で摩利支天の祭祀がいとなまれ福岡藩伝柳生新影流の奉納が恒例になっている。朝八時前、八木山の自宅を出た。天気はいいが寒かった。月曜日なので車は混むだろうと思ったが案外に早く着いた。狭い駐車場に車を停めて待っていると、藤田さんと箱島さんの車が続いて到着した。
三人はまず摩利支天様にご挨拶と、お堂にお参りした。
宗家が笑顔でやってきて、
「摩利支天様は、今日は本堂にお移りですよ。そこはお留守ですよ」と教えてくれた。
 三人はお堂の階段をそそくさと下りて、お堂の傍にある摩利支天の由来書きの掲示板をながめた。古代インドの神話によれば梵天の子供で陽炎が神格化したものとある。一切の災禍を取り除き利益をます神として信仰されて来たそうだ。我が国では亥の日を縁日として、開運、勇猛、得財、護身の神として、特に武士の間では勝利の神として崇拝されたらしい。
 真言は、
 ノウマク・サマンダ・ボダナン・オン・マリシエイ・ソワカ

 通された控室は暖かく床に摩利支天の掛け軸が下がっていた。みんな居合の装いに着替え始めた。鴨居の上に「徳潤身」の額装があった。
 僕は清水師範に何と書いてあるのですかと尋ねた。
書道家でもある師範は見上げて、
「とくは、みを、うるおす」です。と教えてくれた。
 まろやかな品のある書風で写真に撮ろうと思ったがカメラにスマートメディアが入っていなかった。
 僕は個人演武をするばあい拵えを新しくした肥前忠吉を使おうと思っていたが、箱島さんとの組太刀を指示されたので模擬刀で行うことにした。これまで組太刀には木剣を使っていたのだが、近ごろ模擬刀を使うお許しを宗家にいただいていた。
「いつか、真剣で組太刀ができるお許しを頂きたいものですね」といったら、
 清水師範がすかさず、
「あぶなくて、だれも相手を組んでくれませんよ」といった。
 笑い声がおきた。
 そうだろう、ならば徳のあるはずの清水師範にお相手願おう。
居合の奉納には宗家以下七人が参加した。本堂は大勢の参拝者がいて中央の演武場所はせまい。七人の侍は次々と組太刀や個人演武を納めた。僕は、横一文字で刀を払った時に洗い立ての白足袋が畳の目に沿って滑った。思わず体が崩れそうになったが箱島さんがうまく斬り込んでくれた。かえって真に迫った演武になったようで宗家に褒められた。終わって、いただいた飴湯の生姜の味がおいしかった。
五、六年前の奉納演武を思いだした。本堂には大勢の人がいて僕の刀が前列でご覧になっていた来賓の頭上をかすめた。いま思っても冷や汗ものだが、その禅僧は頭を斬られそうになっても身動きしなかった。きっと徳を積んだ高僧で変わらぬ表情でご覧になっていたのだろう。今回も場所は変わらず狭かったが間合いも調節できたし刀の振りも考慮できたようだ。
乳峰寺さんからお札や来年の干支飾りなどお土産をたくさんもらった。家に帰って、いただいたお札やお守りを神棚にあげた。いろんな神社のお札で我が家の御神殿は満員御礼だ。

乳峰寺の略歴をいただいた。臨済宗東福寺派萬松山承天寺塔頭とある。
仁治三年(一二四一年)
謝国明が開基壇越となり、聖一国師を開山に請し、萬松山承天寺を創建。
 宝治二年(一二四八年)
太宰少弐武藤資能が開基壇越となり、那珂郡に華厳山乳峰寺を創建。
 それから、鎌倉時代室町時代と歴史は巡って、
 寛永九年(一六三二年)
登叔元崇禅師が乳峰寺を承天寺塔頭として再興した。
 それから、江戸時代がおわり、
 明治四四年(一九一一年)
市内電車循環線(博多電気鉄道)が承天寺の境内に施設されたため、
 乳峰寺は承天寺と南北に切り離された。
 大正十三年(一九二四年)
鎮守・摩利支天堂を建立。
 昭和二〇年(一九四五年)
福岡大空襲を受けるも、乳峰寺は消失を免れる。
平成二十八年十月十一月三日