居合の先輩は新影流現役3段、元は貨物船の船長さん。
冬のサハリンでソ連のパイロット船について行くと、たびたび流氷がペラに当たって損傷した。
彼らは氷に当たろうが浅瀬で船底をこすろうが気にしない。帰路は室蘭に寄って修理した。
南洋はマラッカを抜ける時、GPSの無い当時は六分儀で現在地を計算しながら航行した。
計算が遅いので船は進行して現在地とはかなり違っていた。予科練の飛行機乗りや元海軍の
士官はあっという間に同時に3か所を測っていた。あいつらは頭がいいし鍛えてあった。
若いころ漁船の甲板長をしていた時、夜中うっかり李承晩ラインを超えて拿捕された事がある。
眠っているとカン、カン、カンと音がした。銃撃を受けていた。サーチライトがまぶしかった。
警備艇はこちらの舳先に衝突させて係官が4人乗り込んできた。みんな銃を持っていた。
眠っていたし何事か分からず、「お前ら何処の国だ」と聞くがエンジンの音で聞き取れない。
「その国は何処にある」と聞き直したら上手な日本語で、
「おまえは本官を侮辱するか」と銃の台尻で尻を強く小突かれた。
漁船は走り出した。警備艇の官憲が舵を取っている。何処に行くのか聞くと、済州島だという。
警備艇はすでに他の漁船を追いかけていて見当たらない。夜の海を単独でしばらく走っていると、
若者どうしいろんな話をしていた。そのうち、
「進路が違うぞ」と言うと「そんなことはない」という。しばらくやり取りして、
「このままでは北朝鮮に行くぞ」と言うと、
「それなら、お前が舵を持て」と言われて済州島まで徹夜で舵とりをさせられた。
済州島では熱いきれいな風呂に入れてくれ、日本の着物姿の女性が食事の用意をしてくれた。
積荷の漁獲物は黄海の公海上で獲ったのだと主張すると、高級魚も相場で買い取ってくれた。
釜山に移され、4年間も抑留されたが官憲の処遇は好意的でいつも日本語で応対してくれた。
時には街に出て食堂で腹いっぱい食べさせてくれた。飯代は各自で払うが、ご飯を飯碗の3倍
くらい盛ってくれた。一杯は一杯だと ...
差し入れも買い物も至って自由で送られてくる味の素や化粧品などを係官は喜んで買ってくれた。
収容施設は新しく設備も整っていた。初めのころは賄いの女性までいた。みんな若くて好意的
だったが、親しくなると日本の船員が不謹慎なことをするので廃止された。これは残念だった。
老船長は、これからも「ひらひら」に乗ってくれそうだ。これから面白い話をもっと聞けそうだ。