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元伊藤忠会長の瀬島龍三氏死去

大本営参謀で、伊藤忠商事会長や中曽根政権時代の臨時行政改革推進審議会行革審)委員も務めた瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)氏が4日午前0時55分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。
95歳だった。葬儀、告別式は近親者で行う。伊藤忠商事亜細亜大学の合同葬を行うが、日程などは未定。
第12回世界文科賞でエリザベス女王と懇談する瀬島龍三氏(左端)=2000年7月12日、英バッキンガム宮殿 


大東亜戦争の実相」 瀬島龍三 
太平洋戦争でなく、あえて「大東亜戦争」とする理由
1911年12月9日 - 2007年9月4日 
終戦時、大日本帝国関東軍参謀陸軍中佐
1956年、11年間にわたるシベリア抑留を終え帰国


本書は、戦時中、陸軍最高統帥部の作戦部に勤務し、全軍作戦の企画立案指導に携わった
瀬島氏の貴重な証言、著者はまず戦争の呼び名を太平洋戦争でなく、あえて「大東亜戦争
とする理由を語っている。
国家存亡の危機にあって当時の日本人が守り抜こうとした精神とは何であったかを問う、
今から28年前の、ハーバード大学における講演録。


降伏後、東京から軍用機でソ連との停戦交渉に出かけ、そのままシベリアへ11年間抑留される。
シベリア抑留から帰還後、1958年に伊藤忠商事に入社。入社3年目にして業務部長に抜擢(1961年)。
翌1962年取締役業務本部長、半年後に常務、1968年に専務、1972年に副社長、1977年に副会長、
1978年に会長、1981年に相談役、1987年に特別顧問に就任。
1984年、勲一等瑞宝章受章。中曾根康弘政権(1982年11月27日〜1987年11月6日)のブレーンとして
土光臨調委員などを務め政治の世界でも活躍した。


擲弾兵」 クルト マイヤー 
敵も味方も、天使が戦ったわけではない。武装SSの師団長の実相記
1910年12月23日 - 1961年12月27日 
終戦時、ヒットラー親衛隊装甲師団長少将
1956年、終身刑減刑されてカナダの刑務所から帰国


緒戦のポーランド戦からノルマンディーまで、欧州戦線の主戦場で祖国のための戦場で
常に最前線を陣頭指揮して若いヒットラーユーゲントと共に戦った。
戦後は戦犯として軍事法廷で名誉のため戦い続けた男が、獄から出てきて直ぐに数ヶ月で
書いたらしい。
かっての武装SSの真実を真実として、自ら綴った第二次大戦の壮絶なドイツ軍人の戦闘記録。
 

二人の軍人は生まれた年も近い。

この二人は同じ時期に枢軸国として米英ソなどとの戦争を指導して戦った。
軍官僚としての作戦実務者と、敵と殺しあう第一線での戦闘指揮官との違い
はあるが、負けて捕虜になって敵国に永年抑留された。
ここまでの経歴は二人はよく似ていると思った。が、この先は祖国の受け入
れ方が天国と地獄ほども違う。 いろいろ考えさせられる。難しい!! 


国家の成り立ちの違いなのだろうか、と思った。ドイツやオーストリア
イギリスやフランスでもスイスでもナチスの再評価は法律で禁止されている
らしい。資料を集めることも、研究したりまして公表すれば死刑になるデモクラシー
の国が最近まであったらしい。クルト マイヤーは世界中にもっと言いたいこと
はあったと思うが、法律があって言えなかった。瀬島龍三は世界はもっと知りたい
のに墓場に行ってもしゃべれない事が沢山あったのではないかと思う。


となりの日記に、こんなのがあった。
軍事評論家=佐藤守のブログ日記
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070905