貝原益軒を書こう八十二 中村克博
根岸は淀川を下っていた。船頭が一人の屋形船を雇っていた。根岸は褥の上に横になって夜着をかけていた。開けた障子窓から波間がちらちら光っていた。三日月は屋形の屋根で見えないが薄雲が流れていくのは月明りでわかった。
二人の辻斬りを成敗して、黒田屋敷に結果を報告したあと鴨川で小舟を雇い伏見から淀川にはいっていた。
根岸は目が冴えていた。あの辻斬りの若者二人は譜代大名の家臣で高禄の子弟で勉学のために京に留学させられた者らしい。何の不自由もない恵まれた身分なのになぜ辻斬りなどしたのか・・・
生け捕りにもできただろうが、斬れとの藩命だった。京の町での事件だから町奉行の仕事だし、大名の家臣が関係するなら京都所司代の役目かもと思うが・・・
生け捕りは大勢の役人が目立つし、いずれにしても死罪だろう。
元和偃武の平和な時代、事を大きくせず隠密に済ませたかったのだろう。それにしても黒田藩にばかり、いつも自分にこんな役目がくるのだろう・・・ いや、たぶん他の藩にも隠密な役目があるのかもしれない。世間に知れては困る事件は多いのだろう。
役目を果たし、藩からはねぎらわれ存分の報奨金もいただいたが、なんともヤリキレナイ気分がしていた。障子窓に大きな影ができて舟がゆれた。三十石船が横を通りすぎていった。
舟が岸についた。船頭が岸壁におりて舟を舫っている。枚方に着いたが月はまだ東の空にかたむいている。根岸は横になったままで夜明けをまった。
枚方の宗州屋敷に歩いた。日の出前だが空は透き通るように明るかった。門を入ると玄関までの石畳に水がうってあった。松の新芽をつんでいた顔見知りの下男が脚立から下りて挨拶した。奥に駆けて行った。
根岸が玄関に入いると、驚いたおよねが廊下をいそいで向かって来た。ぺたりと根岸の前に坐り込んだ。みるみる涙をうかべた。
根岸は頭をさげて、
「おそくなって、申し訳ない」といった。
およねは立ちあがって、
「よかった、よかった。お食事の用意をすぐします」といった
根岸は奥の座敷で食事をしていた。膳の上には味噌汁、たくあん漬け、板蒲鉾がのっていた。横に女将のおよねが座って大ぶりの湯呑にお茶をついでいる。
根岸は厦門から帰国して初めておよねを訪ねていた。気が抜けたようにくつろいでいた。およねの側で炊き立ての白い飯をあじわって食った。こんな満ち足りた気持ちは初めてだった。まだ二人は話らしい話はしていなかった。
厦門に着くまでいろいろあった。五百人ほどの浪人武士とその家族を合わせると千人を超えていた。それを厦門の鄭成功のもとに移動させるのが仕事だった。幕府の密命を黒田藩がうけて、それを藩命として根岸が一人で担うことになった。由比正雪の事件に関与した浪人たちで多くはキリシタンだった。
ところが、なんと佳代が移住浪人の家族にまぎれて乗り込んでいた。オランダの戦艦に襲われ台湾に連れていかれた。オランダが占有する台湾のゼーランディア城での出来事。厦門についてから鄭成功に移住浪人の武士たちを引き渡した。それからは帰国するまでの時期を厦門の町ですごした。それほど長い期間ではなかったのだが、日本を何年も離れていたような体験だった。
その詳細はまだ、およねに話していない。
根岸がご飯のおかわりをした。
およねがうれしそうに木の椀を手にしてかるくよそった。
根岸はご飯に湯吞のお茶をかけた。蒲鉾を箸でとって食べた。
「板蒲鉾をなぜガマの穂などと言うのだろうな」
およねが少し考えて、
「はじめ、魚のすり身を竹に巻き付けて焼いたもので、形がガマ(蒲)の穂ににていたのでしょう。蒲の鉾、蒲鉾(かまぼこ)になったそうですよ」
根岸が、そうかと納得した顔をした。
およねが湯呑にお茶をつぎたしながら、
「お風呂に入りますか湯が沸いています」といった。
食事をおえた根岸は、
「それは、ありがたい。いろいろ洗い流してすっきりできるようだ」
「そうですね。朝ぶろにゆっくり入って、疲れがとれるといいですね」
「そのあと、少し床にはいって眠りたいのだが・・・」
「かしこまりました。静かな部屋を用意しておきます」
根岸は立ちあがって、およねを見た。
「じつは・・・ 身共は武士をやめて町人に転身することに決めたよ」といった。
およねは姿勢をただして、
「なんと、それはまたとっさのお話で、どのようにお応えしたものか・・・」
「ここ枚方に来る途中の舟の中で決めたよ」
およねは根岸が飲み残していた湯呑の茶をふたくちで飲んで、
「佳代さんは京におられますが、お会いになりましたか、そのことはまだ、ご存じないのですね」
「そうだ。決めたばかりだが、心の奥では以前から考慮しておったようだ」
「それでは佳代さんと夫婦になって宗州様の家督をお継ぎになるのですね」
「いいや、その考えはない」
「そうですか、いずれにしても大切な話です。お風呂に入って少し眠ってそれからゆっくり聞かせてください」
令和六年二十九日