ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

一昨日の金曜日はエッセイ教室だった。

夕方、からは居合の稽古に行った。
参加者が少なかった。作法のあと一〇人で基本刀法を始めた。さみしかった。    


 軒先の巨大なツララ                  中村克博

 今年の冬は寒い。これまでにない寒さだ。雪も多くて先週は断続的だが一週間ほど降りつづいた。風も強く乾いた雪が風に舞い遠くの景色は見えないほどになった。八木山の山村とはいっても南国九州なのに、それが軒先にはツララが三mほどにも育って、降り積もった雪は三〇cmをこえた。屋外にとめていた車は雪ダルマになっていた。
 部屋に閉じこもっていては体に悪い。妻と散歩に出た。家から一〇〇mも歩いて国道に出るとそこだけには雪がない。車は通常走行で雪景色の中を何事もないように走っている。そのうちに黄色い除雪車が路肩の汚れた雪を押して通り過ぎると、そのあとから大きな排土板を付けた黄色い大型の道路作業車が融雪剤の粒を道路一面に撒いていく。国道に雪がないのはこれら作業車のお陰なのでありがたいことだが、大量に撒かれる塩化カリウムかカルシュムはどこに流れていくのだろうか、側溝を通って川に流れ込んでダムに貯められ、しまいには海に運ばれていくのだろうか、もともと同じ塩だ、海に流れれば問題ないのだろうか・・・

 八木山峠を登りつめると国道は高原状の平坦な道をほぼ一直線に三kmほど続く、それに沿って流れる八木山川もほぼ一直線だ。川の両岸はコンクリートの石垣でおおわれて巨大な農業用水路のようになっていて、所どころに水位を調節する油圧式の水門が設けてある。村を縦貫する用水路の両岸にはシダレザクラが植えられ春にはうす桃色の花並木が延々と続くのはきれいだ。
 すぐに山がせまっているので広大な田園風景とはいえないが、八木山川の両脇は圃場整備によって大きく平坦に区画された田んぼや畑が広がって真っ直ぐな農道や、あぜ道が伸びている。山にかこまれた村で冬は空が明るくなっても日の出は遅い。南にかたむいた太陽は山影から寝すぎたような顔を出す。そして夕方には早々と西の山に駆け込むように姿を消す。短い日照時間を補うのか、ビニールハウスの畑が目に付くようになって年々増えているようだ。

 子供のころは飯塚の市内に住んでいた。そのころ筑豊は日本有数の炭鉱地帯で、町は賑わっていた。しかし、小学生が八木山峠を越えて福岡の街に出かけるなど一年のうちに一、二度くらいだった。峠の道は折りたたむように曲がりくねった砂利道でバスの運転士は腕まくりした大きな腕で大きなハンドルに体重をかけるように回していた。狭い道をバスがせり出すように曲がると窓からは崖下に谷底が見えていた。そんな峠道に春には大きな桜の木が真っ白い花を咲かせて、花のトンネルをくぐって通る場所が幾つも幾つも続いていたのを思い出す。

 筑豊の炭鉱と言えば当時は戦後の復興期を支える貴重な石炭エネルギーの生産地帯で日鉄、三井、三菱、住友、古川などの中央資本と貝島、安川、麻生、などの地元の炭鉱主が石炭を掘りまくっていた。飯塚は鄢いピラミッドのボタ山があちこちに出来ていた。五木寛之の「青春の門」の背景になった時代だろう。柳沢白蓮の夫で有名になった伊藤伝右衛門はこの時代より少し前になる。
 筑豊で有名な人と言えば麻生元総理大臣、今は財務大臣兼副総理の麻生太郎だろう。彼の父親は麻生太賀吉、ロンドン滞在中に白洲次郎のとりなしで当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と帰国後結婚した。それで麻生太郎吉田茂の孫になり明治の元勲大久保利通につながる。妹は故、寛仁親王のお妃になったので天皇家近衛家につながり、今の安倍総理大臣とも縁戚になる。八木山峠を通っているうちに寄り道して、えらいところに来てしまった。迷わないうちに元の道に戻ろう。

 中学生のころ同級生たちと自転車で八木山峠を上った記憶がある。市内からどれくらい時間がかかったのか、お昼はとっくに過ぎていた。腹が減っていたが弁当の用意はなかった。水筒もなくて畑の横から湧き出ている水を手ですくって飲んでいた。すると、野良着に草臥れた麦わら帽をかぶった三〇歳前後の若い農夫が竹笊に入ったイチゴを湧き水で濯ぎにやって来た。場所を開けるとそこにしゃがみ込んでイチゴを一つずつ水で洗って砂を落として笊に入れていた。小さなイチゴはドングリのような円錐形で、赤く熟れているがヘタに近いところがまだ青いのもあった。天気がよくて空が青かったのを思い出す。小柄な若い農夫は洗い終わると立ち上がる前に、囲んで見ている中学生たちに軽く一掴みずつイチゴを渡してくれた。無言で笑顔もなかったが口のまわりのまばらに生えた髭が優しかった。二つか三つ、小さなイチゴは歯ごたえがあって甘くて少し酸味があって、なんとも幸せな味がした。そのころの八木山の畑は一つ一つが小さくて形もまばらで斜面のあちこちにあった。どんな野菜が育てられていたかは思い出せないが、ビニールハウスはまだなかった。
 そういえば中学校のころ八木山には遠足で何度か登った記憶がある。砂利道は凸凹して車が通ると砂ぼこりで目は開けていれなかった。川も好きなように曲がりくねって川原には葦が広がって川面には至る所に大きな岩が出ていた。田んぼは直線でなく、いろんな形をしていた。秋になると田や畑の畔に彼岸花が赤く咲いて、山裾のハゼの古木に干からびたブドウの房のような実が下がっていた。農家の屋根は藁ぶきで、柿の木には実がたくさんで、中庭にはニワトリが数羽、歩きながら地面と突っついて、放し飼いの犬は日なたにまどろんで、おばあさんが孫の子守をしている。
 それから半世紀すぎて、いつの間にか今は村じゅうの田畑が真っ直ぐに張られた金網でおおわれている。畑を耕す耕運機の運転席はガラス張りで空調機がついている。暖房された大きなビニールハウスで作る巨大イチゴは小さな湯呑ほど大きくて赤くてムクムクしてビックリするほど甘い。農家の庭にニワトリはいないが養鶏場で工場のように卵を生産している。子守するおばあさんの姿もない。設備のいい近くの老人施設で残りの時間をすごしている。家族単位の専業農家は八木山から年々少なくなっていくようだ。麻生さん、日本の農業をどうするのですかね。
平成三〇年二月一五日