山笠の期間中で、宗家は山笠に参加していて稽古はお休み。
門弟の出足は早い、七時前には思い思いの稽古が始まっていた。
師範は指導におおわらわ、老齢のベテラン剣士も上級者も指導を手伝っている。
近ごろ、気が付くと組太刀の稽古が多くみられるようだ。
遠くに転勤して、帰省した門弟がひょっこり顔を出すとうれしいもんだ。
教えたり、教わったり、見取り稽古も大切な時間だ。
山笠の期間中で、宗家は山笠に参加していて稽古はお休み。
門弟の出足は早い、七時前には思い思いの稽古が始まっていた。
師範は指導におおわらわ、老齢のベテラン剣士も上級者も指導を手伝っている。
近ごろ、気が付くと組太刀の稽古が多くみられるようだ。
遠くに転勤して、帰省した門弟がひょっこり顔を出すとうれしいもんだ。
教えたり、教わったり、見取り稽古も大切な時間だ。
朝起きて、ふと見ると、明るいオレンジ色の花が咲いていた。
花材にいいだろうと、たくさん切ってきた。
夕方、エッセイ教室から帰って来て見ると一段と開いて夕日でもうつくしい。
エッセイ教室に提出した貝原益軒の原稿は根岸なにがし、が登場して流れが変わった。
貝原益軒を書こう 七 中村克博
小雨が降って少し寒かった。久兵衛と根岸が便乗する小笠原藩の関船が備後福山藩の鞆ノ浦に入港しようとしていた。日没にはまだ間があったが空と海の色が同じ灰色で暗く、遠くに離れていく因島と弓削島がひとつの大きな影に見える。小倉を出て十日余り過ぎていた。上関、御手洗の湊に立ち寄ったが風向きが悪かったり、風が変わっても潮の流れが逆だったりで予定よりも船路はかなり遅れていた。
二人は大きな帆の前に立っていた。ここなら風下で雨も風も防げる。風が強くなって船足が早い。先ほどから左舷近くに島が見えている。若葉の緑をもくもくと重ねた森の木々が後方に流れていくのが心地いい。
久兵衛は首に手拭いを巻いて寒さをしのいでいた。根岸は手拭いを大小の柄に被せて雨滴を避けている。根岸が腕組みをして前方を見ながら、
「備後福山藩の初代藩主は水野勝成公だな」
久兵衛は首の手ぬぐいの先を襟元に押し込みながら、
「そうですね、今は二代目の水野勝俊公で質実な倹約家で信任あつい名君です」
左舷の島が通り過ぎると間もなく港が見えてきた。
「立派な民家が大層見える。これは博多や赤間関よりも立派かも知れぬな」
「それはないでしょう。人家は千余戸ほどと聞いております。博多は一万戸以上はありますよ」
水主が帆を降ろす準備を始め両舷から沢山の櫓が出されると帆が下された。雨が体にあたって濡れるので二人は甲板の中に入った。船内は多くの人が狭間から外の様子を見ていた。
「鞆の浦には福山藩公認の遊女屋が四軒ほどあるそうだ。中でも奈良屋には遊女が五十人も居って、評判がいい」
「そうですか」
「小倉のお城で、剣術の稽古が終わってみんなで飯を食いながら、いろいろ教わっておったよ。公務で江戸や大坂に行く折に鞆の浦には必ず立ち寄るらしい。馴染みの女ができた者もおるようだ」
「そうですか」
久兵衛は近くにいる小倉藩の武士が気になっていた。狭間から外の景色を見ながら話をしている二人の壮年の武士の話し声が聞こえる。
根岸は回りを気づかう様子はなく、
「鞆の浦がこのように栄えておるのは、いい遊女が大勢おるからだな」
久兵衛は話の受け答えに戸惑って、
「鞆の浦は瀬戸内の東西、真ん中に位置して、潮の満干で潮流の逆転現象が起こります。つまり三刻おきに潮目が変る。潮待をする必要があります。それに鞆の浦は、沼隈半島の南東に位置して東には仙酔島があり大風を防ぎます。このことが古代から鞆の浦を繁栄させた理由です。瀬戸内の潮と潮が東西から出会う場所。たったそれだけのことが長い歴史の中で鞆の浦に重要な役割を担わせてきました」
「そうか、土地の位置が大切な要素になるのだな。東西の潮と潮が出会う場所か、女と男が出会う場所でもあるな」
「室町幕府は、ここ鞆の浦で足利尊氏公が天皇からの院宣を受け取ったことから始まります。そしてそれから二百年あと、織田信長公に京を追われた最後の将軍義昭公は、毛利氏の加護で鞆の浦に幕府を開きますが結局滅んでしまいます。そのため、足利は鞆に興り鞆に滅ぶ、といわれています」
根岸は久兵衛の話を聞いていないようで、
「そう言えば、長崎にも有名な遊郭があったな。お主は長崎での暮らしは長かったのだし、さぞ馴染みの女を思いだすことがあるだろうな」
「いえ、そのようなこと・・・、長崎には遊女は丸山・寄合町あわせて千人以上おると言われます。文禄のはじめ、博多の恵美須屋が長崎に古町遊里を開いたのが起源で、その後、古町から丸山にうつります」
「ほう、博多の女をな、そうなのか」
「寛永年間に市中に散在する私娼を丸山の隣、寄合町に集め公許されます。丸山遊廓は我国で唯一の外国人を遊客にした特色をもちます」
「お主も、そこで、ほとばしる行いをしたのだな」
「根岸様、どうもおかしいですよ。何をもやもやしておられます」
「お主は、もやもやすることはないのか、丸山での馴染みの女の名を白状せい」
「京の遊女に長崎の衣裳を着せ、江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋に遊びたし、という話があります。紐解くと、女の器量は京、意気がいいのは江戸、青楼は大坂、そして衣裳の素晴らしさは長崎と言う事になります」
「ほう、土地土地でとな、特徴があるのだな、器量よしは京なのか・・・」
「それから鞆の浦では、太閤様ゆかりの能舞台が毎年もよおされます。江戸や京都や大阪そして城下町でしか演じられない能を見る機会があります。呼ばれる役者の顔ぶれは、一流役者が流派を問わず集められます。これは、天下の大商人がひしめく鞆の浦だからこそできます」
「そうか、国中の文物が東西で行き交う拠点なのだな。長崎に上がる南蛮の物資もここを通って大坂や京や江戸に運ばれるのか、高級な遊女が集まるはずだ。久兵衛、上陸したら、さっそく出かけるぞ、楽しみになってきたな」
近くにいる小倉の武士たちは二人の話をおもしろそうに聞いている。久兵衛はきょろきょろとまわりを見て、
「わ、私は船を下りることは許されておりません。根岸様お一人でどうぞ」と小さく言った。
根岸は一瞬、空中を見て考えるふうであったが、思いついたように、
「御手洗の湊に船泊した折のこと覚えておろう。宵闇の海にカンテラを灯して漕ぎよって来ておった、おちょろ舟、を覚えておろう。沖合の船に詰めている船員たちのところへ屋形船に四人ほども遊女が乗っておった。鞆の浦にもおるはずだ」
「私は結構です」と久兵衛は素早く言った。
令和元年七月四日
23日の日曜日、久保白の山小屋で、籠あみの先生は上川君の奥さんだ。
七月の十四日に「お花教室」主催の籠編み講習会がある。そのための予行演習らしい。
恒例になっている僕の高校時代の同窓生のバーベキュー会に相乗りさせてもらった。
上川先生の指導で少しづつ形ができてきた。
初めてにしては、うまく出来ていた。一作品にかなりの藤蔓が必要らしい。
林の中を藤蔓を探してまわった。いい運動だ。
当日は14人分の材料を集めなくてはいけないそうだ。軽トラックで3杯分にもなる。
小さなイノシシの子供が林の中から飛び出してきた。
瓜坊は可愛いけど、大きな親イノシシが近くで見ているそうだ。
籠作りも、バーベキューも、藤蔓採集も 無事終えてボートの試乗をした。
十年ぶりに舟に乗った。小さなボートで池の上だが楽しかった。
雨が降らない。ダムの湖は干上がりそうだ。対岸が近い。
スイッチをいれて立ち上がるまで、熱いコーヒーをゆっくり飲み終える。
お願いしていた、パソコンに詳しい友人がやって来た。
パソコンの裏を開けて真ん中の部品を調べていた。
ハードディスクを取り替えることになった。部品が届くまで裏ブタなしで使うことになる。
先日、一時停止違反でパトカーに捕まった、のを思いだした。
今から罰金を7,000円も払いに行こう。パソコンの部品より高そうだ。
アルバムの中に、むかし、イスラムの国に行ったときの写真があった。
イラクがまだ旅行できる国だったころ、モスクも街の市場も中世のようだった。
アチコチにフセイン大統領の写真があった。
写真に1989.8.6とある。30年前の記録だ。
ラクダも牧童ものんびりと暮らしているように見えた。
バクダッドを砂漠に出るとマシンガンを持った護衛がついて来ていた。
古代の遺跡は修復工事がすすんでいた。アフリカからの労働者が大勢いた。
山岳地帯に出かけるときは小さな馬のお世話になった。この写真はヨルダンかも、
首都バクダッドで庶民の乗り物はロバが多かった。銅の手打ち鍋をいくつか買ったが重たかった。
バスラは暑かった。湾岸戦争などで被害を受けて廃墟のような街だった。
バスラは大昔、ペルシア湾岸最大の貿易港、チグリス川・ユーフラテス川の交わるところ、アッバース朝期には人口が30万人を超え、千夜一夜物語(アラビアンナイト)にも登場する。
水の上にアシを積み重ね島を作って住んでいる人の地域があった。
お出かけは小舟を漕いで楽しそうだった。
「シンドバットの冒険」の舞台にもなったところで、当時はダウ船が行き来していたかも。
数日まえ、安倍総理がイランを訪問中、ペルシャ湾のホルムズ海峡で、
日本国籍のタンカー2隻が攻撃されたそうだ。どう考えてもCIAの仕業だろう。
門の横の蔵と物置になっていた離れの建物を解体する工事がほぼ終わった。
なつかしい思い出がある建物だが、老朽がすすんでいた。
ユンボの先を用途に応じて取り替えるようだ。
農機具小屋、蔵、竃小屋、離れを一月も掛からずに、おもしろいように解体していった。
敷地内が清々しくなった。風が通ってよどみなく空気が流れる。
昨日はエッセイ教室だった。
貝原益軒を書こう 六 中村克博
先ほど、久兵衛が小倉藩主の小笠原忠真公にまねかれ、奥書院で茶を点ててくれたのは茶道頭の了和であった。小笠原家茶道、古市流四代家元、名は勝元、俗名源右衛門である。了和、乗覚とも号す。 古田織部と親交があり、茶は織部の傳を得ていたと言われる。流祖は古市胤栄とされ、千利休を祖としていない流派である。また蹴毬を飛鳥井雅章に学び名手の誉れがあり、徳川秀忠上洛の折、上覧に供したことがある。
広間では先ほどから忠真公の近習たちへの久兵衛の進講第二部が始まっていた。近習の一人が質問した。同年輩のよしみもあるのか前半の時間でかなり突っ込んだやり取りをしていたので、ほぐれた感じの問い掛けだった。
「長崎の出島は、はじめはポルトガルとの交易のために造られたのですね、今はオランダの交易船がのみ出入りし、商館には駐在員が常駐しておるのに、なぜポルトガルは締め出されたのでしょうか」
久兵衛の返答より先に、他の近習が発言した。
「それは島原、天草一揆の背後にポルトガルがおったからでしょう。太閤殿下の伴天連追放によって各地の伴天連がこの地方に集まり、キリシタンの人口は七万人にまでふくれあがって、教会堂のほか修道院、司祭館、神学校まで出来て、まるでキリシタン王国のようであった。このやり方はポルトガルやスペインの常套手段ですね」
つづいて次の近習が、
「徳川幕府はそのことが分かっておったのでキリシタン禁教を徹底したのです」
また次の近習が、
「徳川幕府には異色の旗本であるイギリス人の三浦按針やオランダ人のヤン・ヨーステンなどの意見も聞き、平戸や長崎から情報も持っておりますが、ポルトガルのやりかたは南方の国々に進出しておった多くの日本人町から、すでに伝わっておりました」
久兵衛は出る幕がないようで進講というよりも座談会のようだった。話を聞きながら茶碗の蓋を取って冷めた白湯を飲んでいた。障子が開いて茶坊主が顔を出した。
「お話し中でありますが、了和様がお見えになります」
茶坊主が下がり、了和が軽くお辞儀をして入ってきた。空いている久兵衛の横の席に座って、にこにこして挨拶を始めた。
「殿さまは急な所用がおできになって、おみえになれません。代わりに私が話を聞かせてもらいます。よろしゅうお願いいたします」
場の雰囲気が変わった。忠真公のときよりも近習たちは緊張するようだった。近習たちは黙り込んで発言はない。久兵衛は手にしていた湯呑を置いて、
「殿の代わりに了和様が、それは、どうもありがとうございます。では、先ほどの話をつづけましょう」
先ほど話していた近習が、
「徳川権現様は初めころ南方との交易を奨励されておったように心得ます。ご朱印船などで南の国々に渡航する者は多く、中でもシャムの山田長政は有名ですが江戸の老中にたびたび書簡を送り両国の親睦に寄与して交易を盛んにしております。シャムの国王の信任が厚く最高の官爵を賜り、内乱に対しては八千もの日本軍兵とシャム軍二万を率いて内乱を鎮圧したと言われます」
了和がニコニコして、
「ほう、なかなか良く学んでおられますな、シャムですか、スンコロクというシャムの陶磁器は茶器として信長公や太閤様のころから重宝されておりますな」
誰も何も言わない。話の流れが変わって久兵衛も何と言っていいやら、思わず口を開いた。
「スンコロクとはいかような器でございますか」
「シャムの代表的な窯場スワンカロークの名によりますが宋胡録と書きます。鉄絵文様の小合子を茶人が香合として珍重しておりますな。わても幾つか持っとります」
「はぁ、そうですか」
「シャムのほかにも安南、カンボジア・・・ そうそうルソンからの壺は利休さまが、えらい値段を付けて売られておったようでんな」
さらに久兵衛が、
「ルソン壺の話は世間にも伝わっておりますが、どのような壺でしょうか」
「わては見たこともないが太閤記の中に「真壺」と表現され、米が二升入るほどから一斗ほどの大きさの、あちらでは日ごろ誰もが使う雑器ですやろ、文禄三年でしたかな、堺の菜屋助右衛門とか納屋助左衛門とか申す交易商人がルソンから太閤様に唐の傘、蝋燭千挺、生きたジャコウ鹿二匹とルソン壺五十個を献上したそうや。それを千利休さんは、壺に上・中・下の値段を付けて、若狭の豪商組屋にルソン壺の売却を依頼してたら六個売れましてな、お代は百三十四両にもなったそうどす」
久兵衛は興味があるように、
「残りの四十四個の壺はどうなったのでしょう」
広間の場がなごんできた。あちこちで、呟くようなざわめきがおきた。
「それから値段が跳ね上がりましてな、太閤様も三個買い求められましたので、大名たち争そって買うようになり、さらに値があがります。一説には壺一つが四十九両にもなりましてな、それ以来さらに多くの壺がルソンから持ち込まれます。しかし、その後、妙な噂が立ちましてな、なぜか太閤様も大名方もこのルソンの壺を怒ったように叩き壊しますが、まもなくして、ご存知のように千利休さんは自害させられますな」
驚いたように年若い近習が、
「そんなにも高価な壺をみなが打ち砕くなど、なぜですか」
「不思議なことに、その訳は分からず、いろんな噂がたちましたんや」
「なんと、利休様はスペインとの交易で硝石がからんでの罪を問われたのかと思っておりましたが、壺が絡んでのご自害でしょうか」
「それは、わかりませんが、いずれにせよ、博多や坊津は、南の国々との交易をポルトガルやオランダの来る前からやっとりますのや。百年も二百年の前からなんぼでも大きな船が行ったり来たりしとりましたんや。儲かりますよってな」
同じ近習がしたりとばかりに、
「すべては、島原、天草の動乱が江戸幕府の対外政策を一変させる原因ようですね」
「いや、それほど単純なことでは、ないでっしゃろな。独り占めになさるためかも」
あわてて久兵衛が話題をそらすように、
「伊達政宗公が権現様の了解をえて仙台藩内で建造させ、サン・ファン・バウティスタ号は太平洋を二度も往復しております。紛れも無くスペインにも劣らぬ大型ガレオン船でした」
了和が近習を見渡すようにして言った。
「近習のみなさんは、どのようにお考えですやろ。ポルトガルはだめで、なぜオランダは交易を認められるのでしょうね」
近習たちが話をかさねて、
「ポルトガルやスペインは交易だけが目的ではありません。キリスト教を布教して、そのうち町を占領して国を民ごと奪うのが狙いです」
「しかしオランダとて、ジャワのバタビアを占領して軍を駐留させ三十年も前から東インド会社の拠点としておりますし、近年は台湾をも占領しております」
「ポルトガルやスペインはもちろんオランダも貿易の拠点には要塞があって兵が守備しておるのですね」
「長崎の出島にはオランダの兵隊はおらぬようですが、貝原殿いかがです」
久兵衛はふと思案するように、
「もちろん出島にオランダの兵はいません。そればかりか出島ではキリスト教の儀礼すら禁止です。船の大砲は外して陸に上げねばなりません」
「そうでっしゃろな、国の中に他国の軍隊を常駐させるなど徳川幕府は許しませんやろ」
「そのかわり、長崎の警備は、幕府から佐賀の鍋島藩と福岡の黒田藩が一年おきに命じられております」
了和が十兵衛に向かって、
「貝原さま、幕府はなぜ、ポルトガルやスペインを止めてオランダに限って交易をさせるのか、わかりませんなぁ」
「はい、海洋国家としてのポルトガルはすでに活気を失くしております。広大な海域を維持するに国の財政が堪えられず、本国はスペインのフェリペ二世が兼務する有様です。そのスペインも、かってネーデルランドを支配しておりましたが八十年も続いた独立戦争でネーデルランドがオランダとして独立したことによって、南方の海域での力関係はオランダが圧倒しております。おまけにイギリスは内乱状態が十年以上も続いております。イングランドの国王チャールズ一世は処刑されチャールズ二世が即位しますが、なんとオランダが宣戦布告して卍巴の様相ですが、取るならオランダでしょう」
令和元年六月六日