ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

金曜日、午前中は「気楽にエッセイ」の教室に行った。

夕方は居合の稽古だった。
刀を忘れてきたのでエッセイのあと取りに帰った。
いつも、忘れ物をする。昔からだ。
今日のエッセイは、こんなのだった。



忘れ物                            中村克博



 車に乗ってしばらくして携帯電話を忘れてきたことに気づいた。家を出て峠を下ってバイパスを走っていたが引き返すには遅すぎる。左横にはコンテナトレーラーの大きな排気筒がゆれていた。前には宅配便のトラックが走っていた。バックミラーから見える乗用車の後ろには連なる車がいずれも先を急いでいるようだった。
今日は妻の花の仕入れに付き合って花市場まで運転する。いつもなら、そこの駐車場で本を読んでいると電話が鳴って、花市場に降りていき、買い付けられた花を両手いっぱいに抱えて車まで運ぶのだが。今日は電話を忘れているので、時々本を閉じて駐車場から花市場の店を覗きに行った。何度目だったか、たしか三度目かに花を抱えた妻を遠くから認めて顔がほころんだ。携帯電話が今のように一般に普及していない時代は、こんな時どうだったのだろう。おそらく駐車場から何回も花市場のお店を覗かなくても、だいたいの頃合を感じていたのかもしれない。花市場を出て今日は花材屋さんには寄らずに教室に向かった。教室に花を運んだあと僕は友人とヨットに乗ることになっていた。友人宅に迎えに行くことになっていたが予定の時刻には間に合いそうになかった。僕の携帯がないので連絡できない。友人の電話番号は僕の携帯電話が記憶しているので僕の頭にはない。妻の携帯電話には僕の友人の電話番号の記録はない。やきもきしながら友人宅に急いだ。
友人宅のマンションに着いたが部屋の番号がわからない。最上階から一つ下の階の一番左だからと、一階から一つ二つと階を数えていった。七階だった。七〇一のボタンを押す。ピンポン、ピンポンと呼び出し音はするが応答がない。数え間違いかと、もう一度おもてに出て下から数えていったがやはり七階だった。もう一度、七〇一を押して表示された番号を確かめて呼び出しボタンを押したが、応答がない。八〇一を押してみた。誰かいれば下の人は誰かを問おうと思ったが出かけて居ないようだった。どうしようと思っていると住人の人が鍵を使って玄関を入るところだったので
「川上さんのお宅は何番でしょうか」と聞いてみた。
「知りません」と言った。
怪訝そうな顔を向けて男の人はエレベーターに乗ったのがガラスの自動ドア越しに見えた。赤いバイクが止まって郵便配達の女性が郵便物の束を持って横を通りかけた。
「あのぅ、川上さんのおうちの番号を知りませんか」と訪ねた。
「知りません」と笑顔だが忙しそうに言った。
「そうですか」と七階を見上げた。
赤いバイクの女性がエンジンをかけて思いついたように言った。
「名前札がそこの壁にありますよ」
僕は言われた方に数歩、移動した。壁一面に郵便受けが並んでいた。目を順次移動していった。あった。六〇一、川上と白い名札が目についた。赤いバイクの女性のヘルメットが少しお辞儀して通り過ぎた。エンジンの音がやさしかった。六〇一を押した。友人の声がした。 
「おう、遅かったね。すぐ降りていく」
友人が車に乗って、遅くなったいきさつを話した。
「遅いし、電話してもつながらんし、昼ごはんを食べよう」と思っていたらしい。携帯電話を忘れていたとは思いつかなかったようだ。誰もが電話をいつでも携帯するようになってから二〇年くらいだ。それまでは待ち合わせの時など、どうしていたのか、思い出せない。
天気はいいが風が強い。お昼には遅くなったが志賀島に向かった。能古島の南をアビームで走っていたが島影を出ると海は白波におおわれて、うねりもあった。このまま上ると濡れ鼠のようになるのでセールを下ろして能古島に入った。動かない漁船に舫って食堂の、のれんをくぐった。「あら、ひらひらさん、久しぶり」と声がした。
 
この日は忙しかった。夕食を娘とすることになっていた。五時に博多駅ビルの「くうてん」のベンチで待ち合わせることになっていた。ベンチには五時ちょうどに座った。スタンドの明かりのすぐ横、右端のクッションに座った。ジャケットを脱いで横に置いて、バッグをその上に乗せて文庫本を取り出した。二つ隣のクッションに携帯で話をしている女性がいた。僕がバック開けてももぞもぞしていると話中の女性は席を二つ、さらに遠くへ移動した。五時を過ぎても娘は来ない。一五分たっても来ない。とうとう三〇分ちかくたった。こんな時、携帯があれば連絡できるのだが、本を閉じて通りに多くなってきた人の顔をぼんやり確認するように眺めていた。娘がやって来るのが見えた。
「遅かったね」
「え、五時に仕事終わって、すぐにきたよ」
「そうか、なんを食べようか」と散策するような人の流れに入っていった。
娘がイタリアレストランの扉の前で立ち止まった。スタンドにかかげられているメニューをみている。
「ここにしよう」と振り向いた。
値段が手頃だ。というよりも安いと思った。当節、感心な娘だ。閉まっている大きな扉を押して開けた。薄暗い店内から人が出てきた。
「いいですか」と娘が言った。
「すみません。まだなんですよ。五時半からです」と小さく応えた。
少し人の流れを歩いて、もう一度先ほどのレストランに出向いた。今度は扉が開いていていた。先ほどのメニューのスタンドはなかった。店内は明るくて、大きな窓から博多駅前の大通りが見えた。赤茶色のビルが夕方の明かりに照り映えていた。地元銀行の本店の建物だ。案内されたテーブルに座ってメニューを見ていた娘が、
「先程、お店の前にあったお料理はないのですか」とウエイターを見上げて微笑んだ。
「あ、申し訳ありません。あれはランチメニューなんです」と恐縮した。 
「そうなんですか」とメニューに目を戻した。
ウエイターは、
「よろしかったら上着をお預かりします」と言った。
「はは、は、そうか、ディナーは高いやろね」と言いながら僕はジャケットを渡した。
娘は黙ってメニューを見ていたがウエイターがテーブルを離れると、
「おとうさん、もう、 私の前で品のないこと言わないで」と言った。
「わかった。ごめん」と言ってバッグから財布を取り出して中をのぞいた。
「六千円しかないよ」とつぶやいた。
「おとうさん、私が持っとうから、やめて」
「そうか、ありがとう」と言った。
イタリア料理のフルコースを僕は初めて食べた。料理はおいしかった。そうだろう、フランスがまだガリア地方と言われて、後のカエサルに攻められていた頃、すでにローマではギリシャの習慣を受け継いだ洗練された料理が供され、中流及び上流のローマ人の住居にはトリクリニウムという正式なダイニングルームが少なくとも二つはあったらしい。
窓の外の景色は夜に変わって赤茶色のビルはライトで浮き出ていた。キャンドルグラスの明かりがテーブルの布にゆらめいていた。デザートが運ばれた。大きな皿に小さなシャーベットがムースの上に乗って一口で食べれそうだが三回に分けていただいた。満腹になった。レストランを出てエスカレーターを使って駐車場まで歩いた。途中で娘がハーブティの店に立ち寄ってレモングラスとラベンダーを少しづつ買ってくれた。
 駐車場の車はすぐに目についた。ロックを外そうとキーに手を伸ばした。おやっと思った。キーがない。ポケットにはない。バッグの中にもない。もう一度ポケットに手を突っ込んでバッグのフタを開けて、何ども同じことを繰り返してキーを探し続けた。娘が「落ち着いて、ゆっくり」というが、それでもキーはなかった。呆然となった。こんなことが自分にもとうとう起きたのかと頭の中が白くなりそうだった。
娘がイタリアレストランに電話をして事情を話した。歩きながら携帯を耳に当てて待っていた。お店の人はテーブルの周りから通路まで探してくれたようだが見当たらないとの返事だった。
待ち合わせのベンチに行ってみた。期待はしていなかったが、膝を突いてベンチの下を覗いてみた。やはり何もなかった。あきらめて歩き始めた。
イタリアレストランの前に通りかかった。見覚えのあるウエイターが僕のジャケットを持って入口に立っていた。我々を見つけると
「申し訳ありません。お上着をお渡しするのを忘れてしまって」
僕はジャケットを受け取るとポケットをまさぐった。右のポケットにキーホルダーの膨らみがあった。良かったと思った。恐縮するウエイターが神々しく見えた。
「ありがとう。よかった。よかった」と言った。

                          平成二四年一〇月四日