ブログを体験してみる

はてなダイアリーの創設時期からブログを体験してみようと書きはじめてながい年月が経過した。

ヤマ・ニヤマのレポート、昨夜2時までかかった。

これまでに書き溜めていた文章をまとめた。かなり手間取った。
レポートの下書きは、寝る前のベッドの上でメモ紙やティシュペーパーに走り書いた。
後日に見れば文字が判明しないものや解読不能な内容も多かった。


奥中先生のヨガ指導者研修へのレポート
レポートの導入部分は一昨日のブログをそのまま引用した。その後の本文は次のようだった。
ヤマ・ニヤマ、今回のレポートの主題だ。


ヤマ(禁戒)とは、
殺すな、害するな、犯すな、傷つけるな、いじめるな・・


なるほど、同感です。と言ってしまうこともできる。幼児を教育する時の話ならそれでいいの
かも知れない。しかし、大人が生きるうえでの定義とする場合には、よく考えれば簡単には
聞き流せない言葉だと思う。
ヤマ(禁戒)とは、地球上の宇宙でのすべての自然について言っているのだろうが、自分の身
の回りの人間関係に限ってもそう簡単なことでないことがわかる。たとえば、国家権力の警察
を軍隊を支持する場合に、それはどんな意味になるのか・・  殺すことを肯定しているのでは
ないのか??
いじめるな、これを当然な事だ、まったく卑劣な行為だ。というのは簡単だし、実際に僕も普段
にそう思っている。が、ヨガで本気で取り組もうとしている行為についての信条になりえるのか、
と考えた場合にはどうだろうと思う。
集団内部で、あるいは集団同士で、経済活動としての業界で、さらには国家間で、優位に立つ
一方が競合相手に打撃を与える、物理的に経済的に心理的な肉体的な苦痛を与えることは、
どの社会のどの時代にもみられる。 これは人類の普遍的な、さらに言えば人間特有の習性で
あるとは言えないのか??


いろんな宗教が同じような意味の道徳に沿った生き方を戒律としているようだ。道徳的な規制
によって自分の環境と協調した生活が送れるようにしている訳だが、これがホントに出来れば
解脱した存在、究極の境地、涅槃の状態なのだろうか・・それは一切の束縛からの離脱、すべて
の苦悩から解放されて絶対の自由の境地に達すること、とされているが・・
しかし道徳や戒律で束縛して、どうして自由が得られるのか僕にはわからない。自由とは束縛
の無い状態、あるがままの思い行為ではないのかと・・・


ニヤマ(勧戒)とは、
心を清らかにしろ、満足せよ、けじめをつけよ、訓練せよ、神に祈る・・


清らかさ、
朝の散歩のすがすがしさ、オペラの歌曲を聴いたとき、夜ベッドでバグワン・シュリ・ラジニーシ
の講和を読んでいるとき、一人で陸地の見えない海にいるとき、に僕はそれを感じる。

満足は、
もし今のすべてを受け入れるなら、その時にはたぶん満足できる。妥協ではなくてあるがままの
今を認識できた時、自分に起きるすべては自分自身の問題で他は条件に過ぎないと思える時、
自分の考えと言動は同じでなければ誤魔化していると自覚できた時、他人を支配しようとしたり、
認められたい、このレポートを論証しようなど、など、どれも根は同じだが、これが本当にまったく
なくなるのなら満足と言う感性すらなくなるのかもしれない。

けじめ、
気がつけば朝だったと思えるような目覚め、さわやかで精気が生き生きし始める起床、山登りを
した日の心地いい気だるさでの眠り、海に一日いて、まだうねりが残っているベッドの中、そんな
眠りは昼間とのけじめがはっきりしている。と思う。解りにくい言い方をすれば・・過去を今に持ち
込まない、明日のことを今と混同しない事だが、そのとき「希望」は一体どうなるのか?

訓練、
人間とは、自分とは何か、そのために学ぶのだろうが、知識を蓄えて自分のものにして、それを
参照したものが知恵として出てくるのだろう。精神の安定はこの結果としての状態かもしれない
と思う。

神に祈る、
神とはあるがまま、自然と言うことであるのなら、それは実在と置き換えられるのだろうか ・・・
それは今現在と言うことなんだろうか、いやこれについては違いの大きい考えがギリシャの時代
からバークレーヘーゲルにいたるまで、東洋では老子墨子の考えるところにもいくつかある
ようだ。 要するに、あなたが石ころを神というなら僕はそうだと言うしかない、訳だ。 
ただ、僕も神様に相談したことがある。2年前脳梗塞になって左半身が麻痺したベッドの上で ・・
「あんまりでしょう、予告なし、何の準備もしていない。今回だけでいい、助けて下さい」と
日本にいる八百万の神々のどれかにお願いした。今思えばかなり真面目にお願いしたようだ。
おかげで元通りに回復した。おかげでヨガに出会えた。
以上。